| おはようございます。
「沈黙」の棄教についてですが、社会的なマニフェステーションとしては否定しても、内面で信じていれば、棄教ではないともいえます。本当の棄教は文字どおり、信を捨てること。仏教でも同じでしょう。仏陀にもダンマにも信をもっているのであれば、誰からも気づかれずに仏教の心で世俗を生きることは可能です。仏陀やダンマを内面でも捨てるのであればそれは棄教です。
「沈黙」がキリスト教側からも評価されうるとしたら、主人公がキリストへの信は捨てていないからです。
ここら辺が日本大乗仏教の微妙さで、「沈黙」にもどこかしら浄土真宗的な香りがありますが、信不足、世俗への執着への自己肯定の動機が強いことがある。
世俗での実在をまず優先させるのであれば、キリスト教も仏教も必要としないのは当たり前です。信をもっている人より自分を上に置くのは、自我ですね。
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