| イエス様の言動には、不思議なことが多いのですが、ラザロの復活の前のヨハネによる福音書11章には、次のように表されています。
8節 弟子たちは言った、「先生、ユダヤ人らが、さきほどもあなたを石で殺そうとしていましたのに、またそこに行かれるのですか」。
9節 イエスは答えられた、「一日には十二時間あるではないか。昼間あるけば、人はつまずくことはない。この世の光を見ているからである。
10節 しかし、夜あるけば、つまずく。その人のうちに、光がないからである」。
この謎だらけの譬え、これって、単純に時計の話をしているのではないですね。
いったい何を語られているのでしょうか。
第一に、ご自分の地上にいる時が限られていること、したがって「今でなくて次の機会に」というようなことは言っておられないのを示された。
第二に、このことと或る面で共通する意味で言っておられるのは12章35節36節であるから、そこを見たい。
「もうしばらくの間、光りはあなた方と一緒にここにある。光りがある間に歩いて、闇に追いつかれないようにしなさい。闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分かっていない。光りのある間に、光りの子となるために、光りを信じなさい」。
今でなくても良いではないかと弟子たちが言うのに対して、そんなことでは夜が来てしまうではないかと言われる。
その光りとは信仰である。そして信じないことが躓きなんですね。
ここまでは、教会の通説ですが、私は、さらに、次のように感じました。
それは、イエス様が、限られた時間の中で、この光の信仰心を、ラザロの姉妹や弟子たち、その他、民衆にも届けたいという暖かな心から危ないと言われるユダヤに行こうとされたのだと思います。
なぜなら、イエス様のこの地上での働きの時間は限られているからで、
やがて光の無い夜を迎えねばならないからです。
だから、ユダヤ人たちを恐れることなく、ベタニアに行かねばならないわけです。
出発を二日間遅らせたのは あえてラザロが、しっかり亡くなった後に蘇りの奇跡により弟子や民衆の信仰心を呼び覚まそうとしたからだと思います。
それは、死者を復活させることなど神には朝飯前だからでしょう。
これこそ、神から届けられた信仰心の復活ともいえるかなと思います。
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