(現在 過去ログ1 を表示中)

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

[ 親記事をトピックトップへ ]

このトピックに書きこむ

過去ログには書き込み不可

■7363 / inTopicNo.85)  Re[8]: 藤田さんと山下さんの違い
  
□投稿者/ minori -(2020/10/04(Sun) 14:35:32)
    自己レスで追記をすみません。

    > @睡眠中に夢をまったく見ない状態に気づいている

    山下さんがミャンマーでしたテーラワーダの修行での体験。
    それと同様の深さ(深さという表現でいいのかどうかわかりませんが。)のものを、坐禅の禅定で得られるのかどうかが私にはわからないんです。
    それはわからないのですが、しかし、坐禅で可能であるなら少なくとも山下さんはテーラワーダの修行を求めては行かなかったのではないか、というのを考えます。

    しかし。坐禅においても、「思考は浮かんではこないけれど、無意識状態ではない。」という経験はすると思うのです。
    私は坐禅はしませんが、「ただ座椅子に座ってぼーっとはしない」というのはたまにします。
    すると、「思考は流れてこないけれど、無意識ではない」という時間がわずかにあります。
    坐禅の上級者はその時間がかなり長いのだと想像します。

    で、何が言いたいのかというと。 坐禅でも、気づきだけがある第五図、青空を知るというのは可能なのだろう、ということです。
    内山老師や藤田さんは、当然、それに到達されていると思います。
    ただ。「バージョンU」の本で、藤田さんが山下さんの経験について質問していることからわかるように、坐禅ではテーラワーダと同じような経験はしにくいかできない、のだろう、ということです。

    私の少ない知識と経験をもとにした推論です。
    いろいろと失礼があったならすみません。

引用返信/返信 削除キー/
■7332 / inTopicNo.86)  Re[7]: 藤田さんと山下さんの違い
□投稿者/ minori -(2020/10/04(Sun) 08:50:29)
    knowing itselfさん、はじめまして。
    よろしくお願いします。


    No7312に返信(knowing itselfさんの記事)
    > 喩えとして下記の3段階を使います。
    >
    > @睡眠中に夢をまったく見ない状態に気づいている
    >
    > A睡眠中に夢を見ていることに気づいている
    >
    > B日常活動中に心の動きに気づいている
    >
    > 山下さんにとって第五図は、@→Aが基本でBにも連続している気づき。@は身体も心も完全に脱落しているまったくの空白。そのことに気づいている@。@に夢が加わってそれに気づいているAは、睡眠であることで共通しているのでほとんどひと続き。AとBも心の活動は連続しているのでひと続き。@ABすべてが第五図の気づきだが、本体は@。@なくして第五図はない。もっとも@はかなり難易度が高いので、Aが中心になると思う。
    >
    > 藤田さんは、第五図としてBを想定しているように思います。@は超越的な次元として意識化することが不可欠だとしても、坐禅中に@を直接体験するとは言われないようです。Bが第五図の中心ではないでしょうか。
    >
    > 方向が真逆といえないこともない。

    わかりやすくまとめてあって、理解しやすいです。

    Aについては、特別な瞑想なしでも経験している人も多いみたいですね。
    私も明晰夢はたまに見ます。
    一方、@については当然のごとく分かりません。
    ちなみに、非二元のダイレクトパスについての本を出している心理学、哲学専攻のグレッググッドという人も、@を経験していると本に書いています。

    @の経験により、「身体も心も完全に脱落していて気づきだけがある」という理解が鮮明となる、ということなのだと思うのですが。
    私の場合はこのあたり、知的理解によって、「そうなんだろうな。」と一種の想像に留まっています。

    藤田さんが第五図としてBを想定されているのでは、というのも納得がいく感じがします。
    ご自身が経験されていないものについては、率直な態度を取られているのだと思います。
    (藤田さんも、Aについては経験されている可能性が高いとは思いますが。)
    Bというのは、内山老師が、坐禅の姿というのは思いの手放しの姿だと書かれているのにも、通じると思います。
    藤田さんや内山老師が言われていることも、第四図にどっぷりといる「私」には難しいので、第五図の世界観で行われないと無理というのには変わりない、ということになるのだと思います。
    この部分について、私はこのように感じたのですが、knowing itselfさんはどのように見られますか?
引用返信/返信 削除キー/
■7315 / inTopicNo.87)  有限の身体との同一化
□投稿者/ knowing itself -(2020/10/03(Sat) 19:56:58)
    第四図的なドラマが生まれるのは、身体を忘れてアタマが暴走するからという原因もあるけれど、もっと根本的には有限の自己の身体だけにアイデンティティーを置くからでしょう。
    死の恐怖、人間同士が対面したときの闘争本能、性欲、年齢や容姿へのこだわり、感覚的な快楽の貪り、安全安楽を動機にするあらゆる活動、などなど。
引用返信/返信 削除キー/
■7312 / inTopicNo.88)  藤田さんと山下さんの違い
□投稿者/ knowing itself -(2020/10/03(Sat) 19:03:08)
    喩えとして下記の3段階を使います。

    @睡眠中に夢をまったく見ない状態に気づいている

    A睡眠中に夢を見ていることに気づいている

    B日常活動中に心の動きに気づいている

    山下さんにとって第五図は、@→Aが基本でBにも連続している気づき。@は身体も心も完全に脱落しているまったくの空白。そのことに気づいている@。@に夢が加わってそれに気づいているAは、睡眠であることで共通しているのでほとんどひと続き。AとBも心の活動は連続しているのでひと続き。@ABすべてが第五図の気づきだが、本体は@。@なくして第五図はない。もっとも@はかなり難易度が高いので、Aが中心になると思う。

    藤田さんは、第五図としてBを想定しているように思います。@は超越的な次元として意識化することが不可欠だとしても、坐禅中に@を直接体験するとは言われないようです。Bが第五図の中心ではないでしょうか。

    方向が真逆といえないこともない。

引用返信/返信 削除キー/
■7309 / inTopicNo.89)  Re[5]: knowing itselfさん
□投稿者/ knowing itself -(2020/10/03(Sat) 18:37:46)
    たーぼーさん こんばんは

    No7298に返信(たーぼーさんの記事)
    > <永井さんはものごころつく頃から第五図でみていたと言われています。本人の第五図解釈によるとまさに第五図にいる。ただ、永井さんは仏教的な世界観には批判的で、仏教は哲学としてレベルが低すぎるみたいな悪口を言う人です。第五図を空とイコールにはみていないと思います。空にいることと第五図は関係ないと考えていると思います。山下さんと同じ意味では第五図にいないと思います。
    >
    >
    > まぁこれもね仏教者はもっと哲学っていうのを馬鹿にしてる人が多いですよ(笑
    > 哲学なんてやってたって何が分かるって感じで、鼻から格下に見てます。
    > だからお互い様なんですよね(笑
    > 印可持ってる方から聞いたけど、仏教でも何処の宗派でも自分のとこが一番だと思っているそうです。
    > まぁそれだけみんな自信があるんだろうけど、これからはもう各宗派も禅でもお互いを許容していかないとダメでしょうね。

    藤田さんや山下さんには、仏教宗派でどこが一番という感覚はほとんどないんじゃないですか。仏教が一番という感覚もあまりないかも。仏教3・0にはそういう意味もあるでしょう。
引用返信/返信 削除キー/
■7306 / inTopicNo.90)  Re[7]: ナマっていう生
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/10/03(Sat) 18:01:46)
    雑談だよ。

    座禅してるときって、じっとしてるだけじゃなに?
    なんかしてるの?
    たとえば家の掃除してたり、今日の食事考えたり、買い物に行ったりしてる。
    わたしのばあい、これが「ナマ」。
引用返信/返信 削除キー/
■7304 / inTopicNo.91)  Re[6]: ナマの命
□投稿者/ minori -(2020/10/03(Sat) 17:17:08)
    ナマの命が根本にある、と知るというのは、思考にまみれていない毒されていない命そのものがあることを知る、ということであり、そうしたことによりすべての命に対しての慈悲も持ちやすくなると思います。

    思考ではなく意識(気づき)が本体であると知る、青空というのも同じですよね、もともとそこにいたんだと知る。
    それはほっとする安心感で、そこから慈悲に繋がると思います。

    第四図の価値観にまみれて生きているだけなら、慈悲は生まれにくいでしょう。
引用返信/返信 削除キー/
■7303 / inTopicNo.92)  ナマの命
□投稿者/ minori -(2020/10/03(Sat) 17:01:00)
    ・・・・・
    そういうマッサラなナマのいのちを誰でも根本事実として生きているわけですが、これをアタマで思う時には、その場で「つかまれたもの」(概念化されたもの)として停滞してしまうということです。「思われたナマ」はもはや「生きているナマ」ではないからです。
     「生きているナマ」は思い手放し、手放ししている所にこそ初めてナマです。坐禅はまさしくこの思い手放し、手放しの姿勢なのです。
    ・・・・・
    上記は、さきほど貼らせていただいた、安泰寺HPの内山老師の文章から引用させていただいたものです。

    第五図の絵と共にある一文の
     アタマの展開する世界の根本には「わが生命があったのだ!」というのと、上記の文章は重なると思います。
    内山老師としては、坐禅する身体は、第五図に欠かせなかったのでは。

    思考はナマの命ではないということ、坐禅を通して「ナマの命」を実感するというのが、内山老師にとっての第五図なのではないかと思います。
引用返信/返信 削除キー/
■7301 / inTopicNo.93)  Re[5]: たーぼーさんへ
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/03(Sat) 16:09:05)
    No7300に返信(minoriさんの記事)
    >
    > https://antaiji.org/archives/jap/sawaki3.shtml
    >
    > 安泰寺のHPからお借りした、内山興正老師の文章です。
    >
    > ・・・・・
    > 「生きているナマ」は思い手放し、手放ししている所にこそ初めてナマです。
    > 坐禅はまさしくこの思いの手放し、手放しの姿勢なのです。
    > ・・・・・
    >
    > 内山老師にとって坐禅はとても大切なもの、「生きているナマ」そのものだからこそ、第五図にはあえて坐禅している身体を描いたのではないか、と思うのです。
    >
    > 坐禅がうまくいってる上級者だと、禅定において身体がないように感じたりするでしょうけれど、他人が見れば身体はありますから。^^
    >
    > もちろん、今書いたのは、minoriが思うものであって、絶対だとは思っていません。


    思い手放しは第六図だと思います。
    第五図は思いが残っているから藤田さんは慈悲は第五図の人の頭の中だとおっしゃったのだと思います。
    つまり何かの感覚を感じる為には意が意を見ないと気づけないです。
    そしてその思いが滅したのが幻の第七図だと勝手に思ってますw

    https://www.youtube.com/watch?v=QgnJ8GpsBG8

    ショーシャンクの空へと同じ年に公開された名作フォレストガンプ一期一会
    結局その年のアカデミー賞はフォレストガンプが受賞した。

    止まった時の名セリフ  疲れた
引用返信/返信 削除キー/
■7300 / inTopicNo.94)  たーぼーさんへ
□投稿者/ minori -(2020/10/03(Sat) 15:13:07)

    > 第五図というのは、そうした第四図的世界の諸々は、意識に現れてくるものなのだ、というのを示している図だと思います。
    > 「個としての私」ではなく「静謐な空間」としての本質的なもの(意識ということになるでしょうけれど)に第四図的な物は現われてくるのだ、というのを表しているのだと思います。

    > うーん。そういう意味だったら身体が書かれているのはおかしいと思うんだけど。
    > 第五図で、minori さんが仰る静謐な空間」としての本質的なもの(意識ということになるでしょうけれど)を感じるのは身体がないところですよ。
    > パニチェさんがいう無色透明の自己、臨済宗だと一無位の真人といわれるところです。


    https://antaiji.org/archives/jap/sawaki3.shtml

    安泰寺のHPからお借りした、内山興正老師の文章です。

    ・・・・・
    「生きているナマ」は思い手放し、手放ししている所にこそ初めてナマです。
    坐禅はまさしくこの思いの手放し、手放しの姿勢なのです。
    ・・・・・

    内山老師にとって坐禅はとても大切なもの、「生きているナマ」そのものだからこそ、第五図にはあえて坐禅している身体を描いたのではないか、と思うのです。

    坐禅がうまくいってる上級者だと、禅定において身体がないように感じたりするでしょうけれど、他人が見れば身体はありますから。^^

    もちろん、今書いたのは、minoriが思うものであって、絶対だとは思っていません。


引用返信/返信 削除キー/
■7299 / inTopicNo.95)  たーぼーさんへ
□投稿者/ minori -(2020/10/03(Sat) 14:56:20)
    たーぼーさん、レスありがとうございます。


    >>経験的に、というのは、坐禅をしている際の経験からというような意味でしょうか?
    > たーぼーさんが坐禅をされるというのは知っていましたので、そういうことかなと想像したのですが、それとはまた違う話でしょうか。

    > 私は座禅より八正道タイプですから、只管作務ですね。
    > だから考え方は藤田さんとそっくりだけど、修行の手法は山下さんがいいんです。
    > ただ藤田さんも違和感あったみたいだけど、慈悲の瞑想はする気はしないです。
    > 何もしないで座禅してるの時間が勿体なく感じるんです(笑
    > 足も痛いし。もちろんやっておられる方は否定しませんし、素晴らしいことと思います。
    >
    > https://www.onedhamma.com/
    >
    > 一法庵のサイトですけど、8月14日の禅セラピーとしての只管作務。
    > 私はこのままです。これは正しいと思ってます。
    > テーラーワーダーのような止と観と両方あるのがいいんです。
    > 哲学のように観に偏っていると集中力が付かなくて深く考えられないように思います。
    > かといって曹洞宗みたく止に偏っていると内省が弱くなって癖を取るのが遅くなると思います。

    坐禅は、今はされてなかったのですね。
    今されているとおっしゃる、只管作務というのは、マインドフルネスに近いものなのかな、と想像させていただきました。
    (違ってたらすみません。)

    私も、坐禅と書いておいて何なのですが、坐禅はきちんとしたものはしたことがないんです。
    法事で来ていただいた僧侶の方(禅宗ではない)に簡単に方法を教えてもらい、少しした程度です。
    自己流みたいにやってへんなものが見えても怖いので、以降していません。
    私は、マインドフルネスに近いような、気づきから離れないでいる瞑想をいつの間にか日常で自然にしていて、それが定着していました。
    クリシュナムルティ、ルパートスパイラが言うようなものですね。


    > 私はもう自分の思うように勝手にやってます。参考にはしても誰の言うことも聞くつもりないです。

    その人その人で合うもの、それが一番だと思います。

引用返信/返信 削除キー/
■7298 / inTopicNo.96)  Re[15]: knowing itselfさん
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/03(Sat) 14:51:49)
    <永井さんはものごころつく頃から第五図でみていたと言われています。本人の第五図解釈によるとまさに第五図にいる。ただ、永井さんは仏教的な世界観には批判的で、仏教は哲学としてレベルが低すぎるみたいな悪口を言う人です。第五図を空とイコールにはみていないと思います。空にいることと第五図は関係ないと考えていると思います。山下さんと同じ意味では第五図にいないと思います。


    まぁこれもね仏教者はもっと哲学っていうのを馬鹿にしてる人が多いですよ(笑
    哲学なんてやってたって何が分かるって感じで、鼻から格下に見てます。
    だからお互い様なんですよね(笑
    印可持ってる方から聞いたけど、仏教でも何処の宗派でも自分のとこが一番だと思っているそうです。
    まぁそれだけみんな自信があるんだろうけど、これからはもう各宗派も禅でもお互いを許容していかないとダメでしょうね。
    人それぞれの体質みたいなものがあって、あと性別なんかにもよるし、色々な宗派が必要なんでしょうね。
    ただ私はパニチェさんと同じで戦争の原因になるような狂信的な宗教は嫌です。
    禅みたいに信者を囲わないで自由に他の老師に行かせたりする宗教は素晴らしいと思います。
引用返信/返信 削除キー/

<前の12件 | 次の12件>

トピック内ページ移動 / << 0 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 >>
Mode/  Pass/

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

- Child Tree -