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■7427 / inTopicNo.61)  Re[15]: 気づきの独在性
  
□投稿者/ knowing itself -(2020/10/06(Tue) 15:16:38)
    >>ただ、手と壁や机の喩えは、手が涅槃で、壁と机は輪廻、もしくは無常・苦・無我の現象世界です。
    >
    > ちょっと私と感覚が違うな。手が涅槃ってどういうことですか?
    > 壁と机は輪廻、もしくは無常・苦・無我の現象世界ですって意味が分からないです。

    手と壁や机の喩えは、スクリーンと映画の喩えのバリエーションのつもりです。手と壁の方がよく説明のつく事例もあると思うので。

    スクリーンが涅槃で、映画が無常・苦・無我の現象世界、そこが輪廻する場所というのはおかしいですかね。

    映画の内容に同一化するのではなく、スクリーンそのものに安らえることが悟りだと、個人的には考えています。山下さんもそうだと思います。藤田さんもこの考え自体は否定しないと思います。
    人間が生きることは映画内容とスクリーンに二重にタッチすることだと考えますが、手と壁や机の喩えはこのことを直観的にわかりやすく説明できるのではないかと。

    > そういう風に今ここと別の場所に無常、苦、無我があると思うのは間違いですよ。
    > あえて言うなら輪廻するにはコンコンですよ。
    > 手も壁も机も思いで作り出している物語にすぎない。映画ですよ。
    > 物自体だというknowing itselfさんには分かるでしょ?

    壁や机が思いの世界を表わしていて、手という形象はそれらを超越した物自体を表わす喩えのつもりです。

    >
    >>釈迦はどっち側にも立っていると思います。
    >
    > どっち側にもっていう側がないのが仏陀ですよ。
    >
    >
引用返信/返信 削除キー/
■7426 / inTopicNo.62)  Re[15]: 気づきの独在性
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/06(Tue) 15:02:17)
    捕捉すると輪廻するのは、コンコンという行為の記録です。
引用返信/返信 削除キー/
■7425 / inTopicNo.63)  Re[13]: 向こう岸とこっち岸
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/06(Tue) 14:33:34)
    No7421に返信(knowing itselfさんの記事)

    >>■No7400に返信(knowing itselfさんの記事)
    > 行きっぱなしというのは実際問題ありえないと思います。戻らざるをえないですね。行って戻るというのも、ちゃんと行っていればいいのですが、行っていないのに行ったことにする、本当は行けていない場合もあるので、しっかり行くことを先ず重視することは問題ないと思います。

    これは別に人それぞれの因縁と意思によって決断するんだから、どっちでも構いませんよ。
    禅宗もあれば浄土宗もあるわけですから。

    > 向こう岸とこっち岸をぴったり重ならせるのが禅宗的な理想というのは、ズバリそうだと思います。ただ禅宗の問題点は、向こう岸の無内容化からこっち岸だけの一元論になりがちなところではないでしょうか。

    私は禅宗でも二通りあると思ってます。
    一つは究極の悟りだと書いたもの。カントはこっちだと思います。
    これは物語否定で私はとても世俗ではやれないと思うし、まだ人生を楽しみたいから最後でいいやと思ってます。
    もう一つは藤田さん的な路線。ニーチェはこっちだと思う。
    私もこっちです。これは映画を観るならいい映画を見ようということです。
    それは各自で自分の道は自分で決めるものだと思います。



引用返信/返信 削除キー/
■7424 / inTopicNo.64)  Re[14]: 気づきの独在性
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/06(Tue) 14:16:44)
    No7423に返信(knowing itselfさんの記事)

    >>■No7403に返信(knowing itselfさんの記事)

    > 禅ならそういいそうだというのはわかりますよ。
    >
    > ただ、手と壁や机の喩えは、手が涅槃で、壁と机は輪廻、もしくは無常・苦・無我の現象世界です。

    ちょっと私と感覚が違うな。手が涅槃ってどういうことですか?
    壁と机は輪廻、もしくは無常・苦・無我の現象世界ですって意味が分からないです。

    そういう風に今ここと別の場所に無常、苦、無我があると思うのは間違いですよ。
    あえて言うなら輪廻するにはコンコンですよ。
    手も壁も机も思いで作り出している物語にすぎない。映画ですよ。
    物自体だというknowing itselfさんには分かるでしょ?


    > 釈迦はどっち側にも立っていると思います。

    どっち側にもっていう側がないのが仏陀ですよ。


引用返信/返信 削除キー/
■7423 / inTopicNo.65)  Re[13]: 気づきの独在性
□投稿者/ knowing itself -(2020/10/06(Tue) 12:48:43)
    No7415に返信(たーぼーさんの記事)
    > ■No7403に返信(knowing itselfさんの記事)
    >>手を使って壁や机をコンコンと叩くとする。手の感触、痛み。これが宇宙に独在する「気づき」の喩え。手が「気づき」。手に叩かれる壁の小部分にあたるのが、脳と肉体をもつ個人としての人間。普通の人間は壁の側からすべてを捉えようとする。手の側からの視点に立つのが、ルパートスパイラであり、ムージであり、ラマナマハルシであり、悟った禅僧であり、ブッダであり、キリストだと思う。永井均さんもかな(笑)
    >>
    >
    > この例で言えば、コンコンだけが究極の悟りですよ。
    > どっちかの側があれば、妥協してます。
    > 仏陀は手の側の視点ではないですよ。どっちの側にも立ってないですよ。
    > だからそれがいいというわけでもなくて現実的に出来る範囲でやるしかないと思います。


    禅ならそういいそうだというのはわかりますよ。

    ただ、手と壁や机の喩えは、手が涅槃で、壁と机は輪廻、もしくは無常・苦・無我の現象世界です。
    釈迦はどっち側にも立っていると思います。
引用返信/返信 削除キー/
■7422 / inTopicNo.66)  アナパナ
□投稿者/ knowing itself -(2020/10/06(Tue) 12:44:19)
    アナパナサティは上唇のタッチポイントか鼻腔に意識を集中させて、そのポイントを息が通り過ぎることに気づき続けることだと言われますね。単に息を吸う、吐くのを意識するのでもいいはずですが、それだと呼吸という概念、吸う吐くという定型的なコンセプトを確認するだけで終わりがちです。呼吸を淡々と数えるのでもよさそうですが、これも数という概念をフォローすることになりがちです。そうではなく、呼吸を徹頭徹尾、身体における感覚的変容としてのみ、淡々と気づき続けることみたいです。
引用返信/返信 削除キー/
■7421 / inTopicNo.67)  向こう岸とこっち岸
□投稿者/ knowing itself -(2020/10/06(Tue) 12:34:43)
    たーぼーさん こんにちは

    > ■No7400に返信(knowing itselfさんの記事)
    > knowing itselfさん、こんばんわ。
    >
    >
    > >>山下さんの『光の中のマインドフルネス』という本を以前に読んでいて。
    > >>そこから引用してみます。
    > >>・・・・・
    > >>「私」がないところで気づきだけがある世界、先発ピッチャーが降りてリリーフピッチャーが気づいている世界、それが第五図です。
    > >> 第四図から第五図へのピッチャー交代を、内山老師は只管打坐することによって自然と実現すると言われます。
    > >>それに対して、私は非常にオーソドックスに仏教の根幹である、マインドフルネスを使うことによってなし得ると思っています・
    > >>・・・・・
    > >>p76〜77より引用
    >>
    >
    >>この本はもっています。第五図が身体の問題でないことが何度も強調されていますね。
    >>
    > >>山下さんとしてはやはり、坐禅だけでは不足を感じた、だからテーラワーダでの修行をした。
    > >>それで。その修行そのものを日本の一般人がするのは無理なので、3.0,としてマインドフルネスを提唱している、ということなのでしょうね。
    >>
    >>山下さんのマインドフルネスとは、「光の中のマインドフルネス」でも説かれているように、わたしの三段階モデルでは@です。難易度は高く、禅僧でさえ難しいのに日本の一般人にとってさらに困難であることは変わらないと思います。山下さんは、一部の限られた人限定ではなく、万人が@を体験できるようにと活動をされていますが、現時点ではその理想からほど遠いという印象をもっています。
    >
    > これも考え方一つなんですよ。
    > 私から言わせると、この世の99%の人は一番ですよ。
    > 絶対的な確信を持って二番だと言える人は少ないと思う。
    > そして藤田さん的な理想というのは三番の目覚めている状態に気づいている状態。
    > それはどういうことかと言えば、この世を浄土にするということです。
    > 向こう岸とこっち岸をぴったり重ならせるというのが禅宗的な理想だと思う。
    > どうして正反対になるかというと、やはり行きっぱなしか行って戻るかの違いだと思います。

    行きっぱなしというのは実際問題ありえないと思います。戻らざるをえないですね。行って戻るというのも、ちゃんと行っていればいいのですが、行っていないのに行ったことにする、本当は行けていない場合もあるので、しっかり行くことを先ず重視することは問題ないと思います。

    向こう岸とこっち岸をぴったり重ならせるのが禅宗的な理想というのは、ズバリそうだと思います。ただ禅宗の問題点は、向こう岸の無内容化からこっち岸だけの一元論になりがちなところではないでしょうか。

    > そして禅宗でも究極は先発ピッチャーがいなくなることです。
    > リリーフピッチャーだけになると言うのが究極だと思う。
    > でもこれは物語がなくなるということで、世俗で生きてる人には不可能というか、そこまでやると人生ではなくなるわけで、一般人を相手にここを悟りだという禅の宗派がありますが、これは明らかに行き過ぎだと思います。私のいう内山図の第七図。
    > リリーフピッチャーだけになった人は悟りは二重構造とは言わないと思います。
引用返信/返信 削除キー/
■7420 / inTopicNo.68)  途切れなく存在する「気づき」
□投稿者/ knowing itself -(2020/10/06(Tue) 12:24:50)
    minoriさん こんにちは


    > グレッググッドの『気づきの視点に立つてみたらどうなんだろう』と『ダイレクトパス』の二冊。
    > 前者は導入と概略で、後者は、考察と実験的手法について詳しく出ています。
    > 「気づき」というものが全く分からない人には意味不明な本だと思いますが、知的理解による第五図理解という意味合いになる本だと思います。
    >
    > 物質的な物すべて、身体、思考、感覚。そうしたものはすべて「気づき」に現れるものであり、そもそもすべてが「気づき」なのだという常識からはありえないと思われるようなことを、考察していきます。
    >
    > 今日、前者のほうの本の該当部分を読み直してみたら、グレッググッドとしては、熟睡している時とゾーンにいる時というのの両方を非二元性そのものにいる意識として出しています。

    そうだと思います。


    > 熟睡している時は、身体と心の感覚はないけれど「気づき」だけは途切れずに存在するからこそ、朝になって目覚めれば「目が覚めた」と気づけるのだ、ということです。
    > 熟睡中であろうと何であろうと途切れなく存在するのは「気づき」である。

    > よって、身体、心ではなく、「気づき」が本体だということになるということの一つの証明が熟睡を通じて知的に理解できるということですね。
    > 普段何の疑問も持たずにいるようなことを取り上げるので、かえって分かりずらいと思います。
    >
    > ゾーンにいる時というのより、熟睡している時の意識の方がずっと第五図(山下さん的)に近いのでしょうけれど。
    > でもそれは難しいというか、実感しにくいものなので、とりあえずは、ゾーンにいる時の感覚が本来だというのを実感するといいのかな、と思います。

    そうだと思います。

    > 『光の中のマインドフルネス』にも、クリエイターの方々が第五図的意識から作品に取り組むと素晴らしいものが出来上がるという話の際、ゾーンにいることについてフロー体験として書かれていますね。
引用返信/返信 削除キー/
■7415 / inTopicNo.69)  Re[12]: 気づきの独在性
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/05(Mon) 21:49:13)
    No7403に返信(knowing itselfさんの記事)
    > 手を使って壁や机をコンコンと叩くとする。手の感触、痛み。これが宇宙に独在する「気づき」の喩え。手が「気づき」。手に叩かれる壁の小部分にあたるのが、脳と肉体をもつ個人としての人間。普通の人間は壁の側からすべてを捉えようとする。手の側からの視点に立つのが、ルパートスパイラであり、ムージであり、ラマナマハルシであり、悟った禅僧であり、ブッダであり、キリストだと思う。永井均さんもかな(笑)
    >

    この例で言えば、コンコンだけが究極の悟りですよ。
    どっちかの側があれば、妥協してます。
    仏陀は手の側の視点ではないですよ。どっちの側にも立ってないですよ。
    だからそれがいいというわけでもなくて現実的に出来る範囲でやるしかないと思います。
引用返信/返信 削除キー/
■7414 / inTopicNo.70)  Re[13]: パオセヤドー
□投稿者/ minori -(2020/10/05(Mon) 21:23:40)
    No7401に返信(knowing itselfさんの記事)
    > パオセヤドーの瞑想指導の階梯は、サマタとヴィパッサナー、どちらも厳しいみたいですね。弟子がつまづく最大の難関はアナパナと言われています。目をつぶって呼吸だけに集中すること1時間。途中に雑念がちょっとでも入ったらNG。これは絶対にごまかしが効かないそうです。目をつぶったときに瞼に浮かぶ模様、光の具合で客観的に判定できると。

    なるほど。判定の方法が具体的でたしかにごまかしきかなそうです。
    目をつぶって呼吸だけに集中するのをアナパナというんですね。
    アナパナという名前は聞いたことありましたが、内容は忘れてしまってました。


    > 数息観1時間より遥かに遥かに難しい。無字の公案で声を出しながら三昧に入る方が問題にならないくらい容易。禅でも呼吸そのものへの三昧である随息観で見性することは、不可能に近いとか、一世紀に何人でるかというレベルと言われますね。それくらいアナパナは難しい。

    禅でも、テーラワーダのアナパナに似た随息観というのがあり、しかしそれが難しいということですね。

    > 臨済宗の甘いところだと、無字の公案を通ったあとに早くも、悟りくささを消すなどという。パオセヤドーではアナパナを通過してからも悟りへの道はずっと続く。

    はい。
引用返信/返信 削除キー/
■7413 / inTopicNo.71)  Re[11]: 藤田さんと山下さんの違い
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/05(Mon) 21:22:35)
    No7400に返信(knowing itselfさんの記事)
    knowing itselfさん、こんばんわ。


    >>山下さんの『光の中のマインドフルネス』という本を以前に読んでいて。
    >>そこから引用してみます。
    >>・・・・・
    >>「私」がないところで気づきだけがある世界、先発ピッチャーが降りてリリーフピッチャーが気づいている世界、それが第五図です。
    >> 第四図から第五図へのピッチャー交代を、内山老師は只管打坐することによって自然と実現すると言われます。
    >>それに対して、私は非常にオーソドックスに仏教の根幹である、マインドフルネスを使うことによってなし得ると思っています・
    >>・・・・・
    >>p76〜77より引用
    >

    > この本はもっています。第五図が身体の問題でないことが何度も強調されていますね。
    >
    >>山下さんとしてはやはり、坐禅だけでは不足を感じた、だからテーラワーダでの修行をした。
    >>それで。その修行そのものを日本の一般人がするのは無理なので、3.0,としてマインドフルネスを提唱している、ということなのでしょうね。
    >
    > 山下さんのマインドフルネスとは、「光の中のマインドフルネス」でも説かれているように、わたしの三段階モデルでは@です。難易度は高く、禅僧でさえ難しいのに日本の一般人にとってさらに困難であることは変わらないと思います。山下さんは、一部の限られた人限定ではなく、万人が@を体験できるようにと活動をされていますが、現時点ではその理想からほど遠いという印象をもっています。

    これも考え方一つなんですよ。
    私から言わせると、この世の99%の人は一番ですよ。
    絶対的な確信を持って二番だと言える人は少ないと思う。
    そして藤田さん的な理想というのは三番の目覚めている状態に気づいている状態。
    それはどういうことかと言えば、この世を浄土にするということです。
    向こう岸とこっち岸をぴったり重ならせるというのが禅宗的な理想だと思う。
    どうして正反対になるかというと、やはり行きっぱなしか行って戻るかの違いだと思います。

    そして禅宗でも究極は先発ピッチャーがいなくなることです。
    リリーフピッチャーだけになると言うのが究極だと思う。
    でもこれは物語がなくなるということで、世俗で生きてる人には不可能というか、そこまでやると人生ではなくなるわけで、一般人を相手にここを悟りだという禅の宗派がありますが、これは明らかに行き過ぎだと思います。私のいう内山図の第七図。
    リリーフピッチャーだけになった人は悟りは二重構造とは言わないと思います。
引用返信/返信 削除キー/
■7407 / inTopicNo.72)  Re[11]: 藤田さんと山下さんの違い
□投稿者/ minori -(2020/10/05(Mon) 20:49:54)
    >山下さんのマインドフルネスとは、「光の中のマインドフルネス」でも説かれているように、わたしの三段階モデルでは@です。難易度は高く、禅僧でさえ難しいのに日本の一般人にとってさらに困難であることは変わらないと思います。
    >山下さんは、一部の限られた人限定ではなく、万人が@を体験できるようにと活動をされていますが、現時点ではその理想からほど遠いという印象をもっています。

    瞑想によって「この世界には属していない第五図」を知るというのは、到底、普通の暮らしをしながらは無理ですよね。
    かと言って、山下さんのした修行をするのも無理です。
    それで山下さんは、メソッドをいろいろと工夫して考えられて一法庵で教えたり本にしているということですね。

    グレッググッドの『気づきの視点に立つてみたらどうなんだろう』と『ダイレクトパス』の二冊。
    前者は導入と概略で、後者は、考察と実験的手法について詳しく出ています。
    「気づき」というものが全く分からない人には意味不明な本だと思いますが、知的理解による第五図理解という意味合いになる本だと思います。

    物質的な物すべて、身体、思考、感覚。そうしたものはすべて「気づき」に現れるものであり、そもそもすべてが「気づき」なのだという常識からはありえないと思われるようなことを、考察していきます。

    今日、前者のほうの本の該当部分を読み直してみたら、グレッググッドとしては、熟睡している時とゾーンにいる時というのの両方を非二元性そのものにいる意識として出しています。
    熟睡している時は、身体と心の感覚はないけれど「気づき」だけは途切れずに存在するからこそ、朝になって目覚めれば「目が覚めた」と気づけるのだ、ということです。
    熟睡中であろうと何であろうと途切れなく存在するのは「気づき」である。
    よって、身体、心ではなく、「気づき」が本体だということになるということの一つの証明が熟睡を通じて知的に理解できるということですね。
    普段何の疑問も持たずにいるようなことを取り上げるので、かえって分かりずらいと思います。

    ゾーンにいる時というのより、熟睡している時の意識の方がずっと第五図(山下さん的)に近いのでしょうけれど。
    でもそれは難しいというか、実感しにくいものなので、とりあえずは、ゾーンにいる時の感覚が本来だというのを実感するといいのかな、と思います。

    『光の中のマインドフルネス』にも、クリエイターの方々が第五図的意識から作品に取り組むと素晴らしいものが出来上がるという話の際、ゾーンにいることについてフロー体験として書かれていますね。
引用返信/返信 削除キー/

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