| たーぼーさん こんにちは
> ■No7400に返信(knowing itselfさんの記事) > knowing itselfさん、こんばんわ。 > > > >>山下さんの『光の中のマインドフルネス』という本を以前に読んでいて。 > >>そこから引用してみます。 > >>・・・・・ > >>「私」がないところで気づきだけがある世界、先発ピッチャーが降りてリリーフピッチャーが気づいている世界、それが第五図です。 > >> 第四図から第五図へのピッチャー交代を、内山老師は只管打坐することによって自然と実現すると言われます。 > >>それに対して、私は非常にオーソドックスに仏教の根幹である、マインドフルネスを使うことによってなし得ると思っています・ > >>・・・・・ > >>p76〜77より引用 >> > >>この本はもっています。第五図が身体の問題でないことが何度も強調されていますね。 >> > >>山下さんとしてはやはり、坐禅だけでは不足を感じた、だからテーラワーダでの修行をした。 > >>それで。その修行そのものを日本の一般人がするのは無理なので、3.0,としてマインドフルネスを提唱している、ということなのでしょうね。 >> >>山下さんのマインドフルネスとは、「光の中のマインドフルネス」でも説かれているように、わたしの三段階モデルでは@です。難易度は高く、禅僧でさえ難しいのに日本の一般人にとってさらに困難であることは変わらないと思います。山下さんは、一部の限られた人限定ではなく、万人が@を体験できるようにと活動をされていますが、現時点ではその理想からほど遠いという印象をもっています。 > > これも考え方一つなんですよ。 > 私から言わせると、この世の99%の人は一番ですよ。 > 絶対的な確信を持って二番だと言える人は少ないと思う。 > そして藤田さん的な理想というのは三番の目覚めている状態に気づいている状態。 > それはどういうことかと言えば、この世を浄土にするということです。 > 向こう岸とこっち岸をぴったり重ならせるというのが禅宗的な理想だと思う。 > どうして正反対になるかというと、やはり行きっぱなしか行って戻るかの違いだと思います。
行きっぱなしというのは実際問題ありえないと思います。戻らざるをえないですね。行って戻るというのも、ちゃんと行っていればいいのですが、行っていないのに行ったことにする、本当は行けていない場合もあるので、しっかり行くことを先ず重視することは問題ないと思います。
向こう岸とこっち岸をぴったり重ならせるのが禅宗的な理想というのは、ズバリそうだと思います。ただ禅宗の問題点は、向こう岸の無内容化からこっち岸だけの一元論になりがちなところではないでしょうか。
> そして禅宗でも究極は先発ピッチャーがいなくなることです。 > リリーフピッチャーだけになると言うのが究極だと思う。 > でもこれは物語がなくなるということで、世俗で生きてる人には不可能というか、そこまでやると人生ではなくなるわけで、一般人を相手にここを悟りだという禅の宗派がありますが、これは明らかに行き過ぎだと思います。私のいう内山図の第七図。 > リリーフピッチャーだけになった人は悟りは二重構造とは言わないと思います。
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