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■7445 / inTopicNo.49)  アメージングストーリー
  
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/06(Tue) 20:57:06)
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■7443 / inTopicNo.50)  Re[19]: 気づきの独在性
□投稿者/ minori -(2020/10/06(Tue) 20:38:03)
    自己レスにて補足です。

    もちろん、釈迦が、映画、スクリーン、第四図、第五図という言葉をどこかで使ってたわけはないんですが。
    それらに相応する、対応するように、私には感じられる、という意味です。
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■7440 / inTopicNo.51)  Re[18]: 気づきの独在性
□投稿者/ minori -(2020/10/06(Tue) 20:29:57)
    2020/10/07(Wed) 06:10:45 編集(投稿者)

    No7434に返信(knowing itselfさんの記事)
    > 映画というのは第四図で、スクリーンというのは第五図という意味で使っています。
    >
    > 映画なしのスクリーンを認めない仏教の立場があることは認めますし、尊重します。
    >
    > ただわたしはその立場では全然ないです。


    knowing itselfさん、こんばんは。

    ・・・・・
    279「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
    ・・・・・
    これなんですが。 
    一切の事物(無常であり苦しみである形成されたもの)とは、第四図、映画のことを指しているように思えるんですよね。

    そして。明らかな知恵をもって観るときに、苦しみから遠ざかり離れる、って第五図そのものじゃないかって。
    だとすると、「我」はスクリーンに相当するように思えてしかたないんです。

    (原始仏教の場合は、もともとの本籍が第五図というのではなく、修行により第四図から第五図の涅槃に到達する、ということだとは思うのですが。)


    knowing itselfさんも、もしかしたら同じように考えられていないかな、と思い、投稿させていただきました。

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■7439 / inTopicNo.52)  Re[20]: 第四図のカント哲学性
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/06(Tue) 20:17:44)
    カントとニーチェの比較について玄侑宗久さんがとてもいいことを、お書きになっていたので紹介します。


    有時(うじ)するということ
    https://genyu-sokyu.com/essay/20030408-ujisurutoiukoto


    客観的存在も客観的時間も存在せず、世界は吾有時(わがうじ)そのものであると禅師は云う。「尽界にあらゆる尽有は、つらなりながら時時なり。有時なるによりて吾有時なり」
     私は「有時」を理解するために、「物語」という言葉を使ってみた。
     たとえば「昨夜寝て今朝起きた」と、我々は簡単に言う。しかしそのことは、「寝たときの今」と「起きたときの今」を「排列」してできた認識である。換言すれば「昨日寝て今朝起きた」という小さな「物語」なのだ。我々はそうした「物語」を産むことで時間をあらしめ、また自己存在を認識することになる。
     むろん「排列」する際には省略も含む。たとえば「最近私はとても調子がわるい」という時間と自己を提出しようと思えば、たまたま調子がよかったことは全部省き、美味しかった夕食もはずし、面白かった映画や彼女との会話も削ぎ落としてようやく成立する「物語」なのだと知るべきだろう。つまりあらゆる時間もそこでの自己存在も、厳密な意味ではフィクションなのである。
     過去・現在・未来と、時が一つの方向に流れていくなどと思うのは、仏道を専一に学んでいないからだと禅師は云う。三つの時制は実は「つらなりながら時時」と並んでおり、それを我々は「経歴(きょうりゃく)」している。この「経歴」こそ、「排列」からさらに複雑化した「物語」と云えるだろう。一つの「物語」を語るために、我々は無数の「有時」を如何様にもアレンジし、改変すると云うのだ。
     痛快なことに、禅師は「修正」即ち悟りも一つの「物語」、「物語がないという物語」に過ぎないのだと喝破する。このときこそ明星が輝き、如来も出現する。しかし思弁的になりすぎないのが禅師の凄さだろう。結局「物語」を離れては生きられない我々のために、「住法位の活鱍鱍地なる、これ有時なり」と、説示してくださる。これは私には、これまでのあらゆる時におけるあらゆる私(尽時の尽有)が、活発に活き活き溌剌してくるような己のあり方を模索せよ、と聞こえる。我々はどこまで行っても時間的存在であることを免れない。それならば、という懇切なる説諭である。しかし「尽時の尽有」を剰(あま)すところなく「究尽(ぐうじん)する」というのは、遥かな道である。
     禅師の言葉のとおり、目の前の松も竹も、かつて見た山も海も、あらゆる体験「彼方にあるに似たれども而今(にこん)なり」である。それならば道元禅師もその著作も常に而今(たった今)にあると言わねばならない。我々はいつでも道元禅師に聴くことができるのである。


    ニーチェや藤田さんがやろうとしているのは、これなんですよ。
    つまりこの世を浄土にするという、最高の物語、いい映画を作ろうじゃないかということなんです。
    ついでに言えば親鸞の阿弥陀の本願というのもこれです。
    これに気づけるかというのが山下さんのマインドフルネスの真意だと思います。



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■7436 / inTopicNo.53)  Re[19]: 第四図のカント哲学性
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/06(Tue) 19:49:36)
    No7435に返信(knowing itselfさんの記事)
    > 内山興正の作図のどこにカント的な哲学をみるかというと、第四図に認識のコペルニクス的転回を読み込むからです。世界は外にあるのではなく、人間が認識主観的に構成することによってそこにあるかのようにみえている。これが映画という喩えを使うと投影であり、第四図はそれと同じ事態です。第四図と第五図を分離している時点で、映画とスクリーンは別ですよ。仏教3・0のあの対談では基本そうだと思います。


    だからそれが第六図になって映画とスクリーンは即になるんですよ。
    この時にどの映画のワンシーンワンシーンを選ぶかというところに因果ということが関わってくる。
    私からするとknowing itselfさんは第五図に止まってしまっているように思えます。
    まぁ私もknowing itselfさんを否定するつもりはありません。
    ただ私とは明らかに違うなと思うだけです。
引用返信/返信 削除キー/
■7435 / inTopicNo.54)  第四図のカント哲学性
□投稿者/ knowing itself -(2020/10/06(Tue) 19:37:00)
    内山興正の作図のどこにカント的な哲学をみるかというと、第四図に認識のコペルニクス的転回を読み込むからです。世界は外にあるのではなく、人間が認識主観的に構成することによってそこにあるかのようにみえている。これが映画という喩えを使うと投影であり、第四図はそれと同じ事態です。第四図と第五図を分離している時点で、映画とスクリーンは別ですよ。仏教3・0のあの対談では基本そうだと思います。
引用返信/返信 削除キー/
■7434 / inTopicNo.55)  Re[17]: 気づきの独在性
□投稿者/ knowing itself -(2020/10/06(Tue) 19:24:34)
    映画というのは第四図で、スクリーンというのは第五図という意味で使っています。

    映画なしのスクリーンを認めない仏教の立場があることは認めますし、尊重します。

    ただわたしはその立場では全然ないです。



引用返信/返信 削除キー/
■7433 / inTopicNo.56)  Re[18]: 気づきの独在性
□投稿者/ knowing itself -(2020/10/06(Tue) 19:20:15)
    No7431に返信(たーぼーさんの記事)
    > ■No7430に返信(knowing itselfさんの記事)
    >>■No7426に返信(たーぼーさんの記事)
    > >>捕捉すると輪廻するのは、コンコンという行為の記録です。
    >>
    >>映画という輪廻の生を一コマ一コマ、スクリーンに投影するのはコンコンという行為ですから、そのとおりだと思います。
    >
    > ここが根本的に違う。スクリーンに投影するのではなくスクリーンがコンコンです。
    > 投影するなんてワンクッション置かない。

    仏教3・0というのは、投影を置いていると思います。永井さんと山下さんはそうです。一般的な色即是空空即是色とは違うといわれる可能性があるのは当然です。わたしもこの二人に近いです。

    > 色即是空空即是色  即ですよ
引用返信/返信 削除キー/
■7432 / inTopicNo.57)  Re[16]: 気づきの独在性
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/06(Tue) 19:10:43)
    No7427に返信(knowing itselfさんの記事)

    > 映画の内容に同一化するのではなく、スクリーンそのものに安らえることが悟りだと、個人的には考えています。山下さんもそうだと思います。藤田さんもこの考え自体は否定しないと思います。
    > 人間が生きることは映画内容とスクリーンに二重にタッチすることだと考えますが、手と壁や机の喩えはこのことを直観的にわかりやすく説明できるのではないかと。


    映画を映画にしないためには自分が本物になればいいというのが色即是空空即是色ですよ。
    スクリーンと映画は分けられない。
    分けているのは悟りがあるから。


    >>そういう風に今ここと別の場所に無常、苦、無我があると思うのは間違いですよ。
    >>あえて言うなら輪廻するにはコンコンですよ。
    >>手も壁も机も思いで作り出している物語にすぎない。映画ですよ。
    >>物自体だというknowing itselfさんには分かるでしょ?
    >
    > 壁や机が思いの世界を表わしていて、手という形象はそれらを超越した物自体を表わす喩えのつもりです。
    >
    >>
    > >>釈迦はどっち側にも立っていると思います。
    >>
    >>どっち側にもっていう側がないのが仏陀ですよ。
    >>
    >>
引用返信/返信 削除キー/
■7431 / inTopicNo.58)  Re[17]: 気づきの独在性
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/06(Tue) 19:05:22)
    No7430に返信(knowing itselfさんの記事)
    > ■No7426に返信(たーぼーさんの記事)
    >>捕捉すると輪廻するのは、コンコンという行為の記録です。
    >
    > 映画という輪廻の生を一コマ一コマ、スクリーンに投影するのはコンコンという行為ですから、そのとおりだと思います。

    ここが根本的に違う。スクリーンに投影するのではなくスクリーンがコンコンです。
    投影するなんてワンクッション置かない。
    色即是空空即是色  即ですよ
引用返信/返信 削除キー/
■7430 / inTopicNo.59)  Re[16]: 気づきの独在性
□投稿者/ knowing itself -(2020/10/06(Tue) 17:28:48)
    No7426に返信(たーぼーさんの記事)
    > 捕捉すると輪廻するのは、コンコンという行為の記録です。

    映画という輪廻の生を一コマ一コマ、スクリーンに投影するのはコンコンという行為ですから、そのとおりだと思います。
引用返信/返信 削除キー/
■7428 / inTopicNo.60)  スクリーンと映画の矛盾をどう解決するか
□投稿者/ knowing itself -(2020/10/06(Tue) 15:32:27)
    手と壁の喩えでいけば、カントでは自由の王国である手が、必然と法則が支配する自然である壁にタッチできるのは定言命法による道徳意識の場合だけ。

    手と壁のつながりをつけるために、自然の合目的性という考えを導入しているようだ。もちろん難解です(笑)
引用返信/返信 削除キー/

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