| 2020/10/07(Wed) 06:10:45 編集(投稿者)
■No7434に返信(knowing itselfさんの記事) > 映画というのは第四図で、スクリーンというのは第五図という意味で使っています。 > > 映画なしのスクリーンを認めない仏教の立場があることは認めますし、尊重します。 > > ただわたしはその立場では全然ないです。
knowing itselfさん、こんばんは。
・・・・・ 279「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。 ・・・・・ これなんですが。 一切の事物(無常であり苦しみである形成されたもの)とは、第四図、映画のことを指しているように思えるんですよね。
そして。明らかな知恵をもって観るときに、苦しみから遠ざかり離れる、って第五図そのものじゃないかって。 だとすると、「我」はスクリーンに相当するように思えてしかたないんです。
(原始仏教の場合は、もともとの本籍が第五図というのではなく、修行により第四図から第五図の涅槃に到達する、ということだとは思うのですが。)
knowing itselfさんも、もしかしたら同じように考えられていないかな、と思い、投稿させていただきました。
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