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■7466 / inTopicNo.37)  Re[23]: pipitさんへ
  
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/07(Wed) 14:56:06)
    7196でラジニーシが書いた文章の引用です。
    ここが道を分けるポイントだと思い、大事だからもう一度公開します。

    だから個人的に勤しんでいる瞑想者は、ティルカンターラにはなれない。
    何故なら杭が失われても彼らにはそれが分からないからだ。
    船が走り出して初めて、彼らは浜辺を遥か後にしてしまったと気づく。


    つまり解脱の瞬間に自分の意思で道を選択出来ない可能性があるんです。
    人が何かを選択するときは、因果と自由意思の両方で選択すると思いますが、気がついたら向こう岸に渡っていたという可能性もあるわけ。
    しかし、どうしてその修行法を選んだかということも含めて因果と自由意思で選んだとも言えるわけでやはり全ての人は自分で道を選んでいるとも言える。

    ラジニーシがいうミステリーサークルとは、心と心が通じあった共同体です。

引用返信/返信 削除キー/
■7461 / inTopicNo.38)  pipitさんへ
□投稿者/ minori -(2020/10/07(Wed) 12:27:21)
    pipitさん、レスありがとうございます。

    >>例えていうならですが、「第四図の中だけですべて行う」のが原始仏教の立場だと、pipitさんは考えられますか?<
    >
    > 考えません。

    そうなんですね。 教えていただいてありがとうございます。

    この話とぜんぜん別の話題なんですけど、pipitさんのトピに書きにいきますね。♪



引用返信/返信 削除キー/
■7460 / inTopicNo.39)  みのりさんへ
□投稿者/ pipit -(2020/10/07(Wed) 10:34:13)
    お返事ありがとうございます。

    > 例えていうならですが、「第四図の中だけですべて行う」のが原始仏教の立場だと、pipitさんは考えられますか?<

    考えません。



    No7457に返信(minoriさんの記事)
    > pipitさん、レスありがとうございます。
    >
    >
    >>原始仏教では、現象と涅槃は、二元というより、縁起が説かれていると、わたしは今の所考えています。
    >>
    >>無明によりて、行(サンカーラ)が生じる。行によりて識(ビンニャーナ)が生じる。
    >>無明が滅すると、行も滅する。行が滅すると、識も滅する。
    >
    > 例えていうならですが、「第四図の中だけですべて行う」のが原始仏教の立場だと、pipitさんは考えられますか?
    > そんな例えはそもそもいらない・・、ってお考えだったら申し訳ない質問になってしまうんですが・・。
    >
    > minori的には。
    > 涅槃つまり悟り(生きてるうちのものにしろ、死後のものにしろ)に到達するためには、私の身体や考えなど(私の持ち物)は非我である、と知らなければ到達できないものと原始仏教ではなってると思うんです。
    > それが諸法非我の意味だと考えています。
    > 私の身体や考え(無常であり苦である形成されたもの)は非我であるし、それらに執着しないように、という意味だと思うんです。
    >
    > そうしたところから。
    > 私の身体や考え(無常であり苦である形成されたもの)を第四図、映画。
    > そこからの脱却が涅槃つまり悟りである第五図、スクリーン。
    > というようにminoriは考えた、ということです。
    >
    > あくまで私はこう見てます、というものです。^^
    >
引用返信/返信 削除キー/
■7458 / inTopicNo.40)  第六図へ
□投稿者/ minori -(2020/10/07(Wed) 08:30:27)
    第五図に留まる、ということについてですが。

    あくまで私が思うにですけれど、
    第五図の世界をしっかりと知れば、つまりそこに到達する、
    あるいは、もともと本体はそこだったと知る、
    によって、ほぼ自動的に第六図に移行していくと思うんですよね。

    ラマナ・マハルシさんも、たまに自分で食事を作ってたそうですよ。
    そもそも、食事作るのが仕事ではなく、訪れた人々に教えるのが仕事だから
    食事は作らなくてもいいんですけどね。
    教える、という仕事をこなす。それがラマナマハルシさんの第六図だと思い
    ます。
    動きが緩慢になってようが(老化でそうなってたのかもですし)、教えるという仕事をしてたのだから、第五図に留まっていた、というのは違うと思います。

    もし、第五図に到達してもそこに留まる系の人がいたなら。
    それは第五図のせいではなく、その人のもともとの悟りに対しての目的が現実から逃避したいというのが強すぎたから、なのではないかと。
    それだとそうなっちゃうかもしれないですね。

    この教えだからそうなる傾向が強い、とかではなく、個人の傾向の問題だと思うので、どういった種類の教えがそうなりやすいというのはない、と私は思います。

    無我を説くものによって無気力になる、なんていうのはないと思いますね。
    無我の教えにより、自由に活力的になるっていうのが逆にあると思いますし。
引用返信/返信 削除キー/
■7457 / inTopicNo.41)  pipitさんへ
□投稿者/ minori -(2020/10/07(Wed) 07:52:53)
    pipitさん、レスありがとうございます。


    > 原始仏教では、現象と涅槃は、二元というより、縁起が説かれていると、わたしは今の所考えています。
    >
    > 無明によりて、行(サンカーラ)が生じる。行によりて識(ビンニャーナ)が生じる。
    > 無明が滅すると、行も滅する。行が滅すると、識も滅する。

    例えていうならですが、「第四図の中だけですべて行う」のが原始仏教の立場だと、pipitさんは考えられますか?
    そんな例えはそもそもいらない・・、ってお考えだったら申し訳ない質問になってしまうんですが・・。

    minori的には。
    涅槃つまり悟り(生きてるうちのものにしろ、死後のものにしろ)に到達するためには、私の身体や考えなど(私の持ち物)は非我である、と知らなければ到達できないものと原始仏教ではなってると思うんです。
    それが諸法非我の意味だと考えています。
    私の身体や考え(無常であり苦である形成されたもの)は非我であるし、それらに執着しないように、という意味だと思うんです。

    そうしたところから。
    私の身体や考え(無常であり苦である形成されたもの)を第四図、映画。
    そこからの脱却が涅槃つまり悟りである第五図、スクリーン。
    というようにminoriは考えた、ということです。

    あくまで私はこう見てます、というものです。^^

引用返信/返信 削除キー/
■7456 / inTopicNo.42)  みのりさんへ
□投稿者/ pipit -(2020/10/07(Wed) 06:54:01)
    おはようございます。
    私見書きます。

    原始仏教では、現象と涅槃は、二元というより、縁起が説かれていると、わたしは今の所考えています。

    無明によりて、行(サンカーラ)が生じる。行によりて識(ビンニャーナ)が生じる。
    無明が滅すると、行も滅する。行が滅すると、識も滅する。


    No7440に返信(minoriさんの記事)
    > 2020/10/07(Wed) 06:10:45 編集(投稿者)
    >
    > ■No7434に返信(knowing itselfさんの記事)
    >>映画というのは第四図で、スクリーンというのは第五図という意味で使っています。
    >>
    >>映画なしのスクリーンを認めない仏教の立場があることは認めますし、尊重します。
    >>
    >>ただわたしはその立場では全然ないです。
    >
    >
    > knowing itselfさん、こんばんは。
    >
    > ・・・・・
    > 279「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
    > ・・・・・
    > これなんですが。 
    > 一切の事物(無常であり苦しみである形成されたもの)とは、第四図、映画のことを指しているように思えるんですよね。
    >
    > そして。明らかな知恵をもって観るときに、苦しみから遠ざかり離れる、って第五図そのものじゃないかって。
    > だとすると、「我」はスクリーンに相当するように思えてしかたないんです。
    >
    > (原始仏教の場合は、もともとの本籍が第五図というのではなく、修行により第四図から第五図の涅槃に到達する、ということだとは思うのですが。)
    >
    >
    > knowing itselfさんも、もしかしたら同じように考えられていないかな、と思い、投稿させていただきました。
    >
引用返信/返信 削除キー/
■7455 / inTopicNo.43)  Re[24]: 諸行無常・一切皆苦・諸法非我
□投稿者/ minori -(2020/10/07(Wed) 05:10:00)
    No7452に返信(pipitさんの記事)
    > みのりさん、こんばんは。
    >
    > ダンマパダに、諸法非我は、サッベ・ダンマ・アナッターと語られているということを情報として投稿しました。
    >
    > 伝えられてきた文章の出所・真偽含め、いろんな可能性、いろんな解釈は可能だと思うのですが、今の時点で共有できる情報として、書き込みました。


    pipitさん、レスありがとうございます。
    私も、「こう思う」を書いたということで、自分の書いたものが正しいかどうかは分かりません。

引用返信/返信 削除キー/
■7452 / inTopicNo.44)  Re[23]: 諸行無常・一切皆苦・諸法非我
□投稿者/ pipit -(2020/10/06(Tue) 22:56:54)
    みのりさん、こんばんは。

    ダンマパダに、諸法非我は、サッベ・ダンマ・アナッターと語られているということを情報として投稿しました。

    伝えられてきた文章の出所・真偽含め、いろんな可能性、いろんな解釈は可能だと思うのですが、今の時点で共有できる情報として、書き込みました。





引用返信/返信 削除キー/
■7451 / inTopicNo.45)  Re[22]: 諸行無常・一切皆苦・諸法非我
□投稿者/ minori -(2020/10/06(Tue) 22:23:21)
    2020/10/07(Wed) 06:13:09 編集(投稿者)

    No7448に返信(pipitさんの記事)
    > みなさまこんにちは。
    >
    > 諸行無常・一切皆苦・諸法非我と訳されている経典文の原語をカタカナで書きます。
    >
    > 諸行無常・一切皆苦の主語(?)は、サンカーラ(形成されたもの)ですが、
    > 諸法非我の主語(?)は、ダンマです。
    >
    > 【諸行無常】
    > サッベ ・ サンカーラー ・アニッチャー
    >
    >
    > 【一切皆苦】
    > サッベ ・ サンカーラー ・ ドゥッカー
    >
    >
    > 【諸法非我】
    > サッベ ・ ダンマー ・ アナッター
    >
    >
    > 非我のとこだけ、サンカーラ(形成されたもの)ではなく、ダンマ(法)になっています。
    >
    > (ダンマパダ 277.278.279)


    pipitさん、こんばんは。

    ・・・・・
    277「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
    278 「一切の形成されたものは苦しみである」(一切皆苦)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
    279「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
    ・・・・・
    一切の事物というのは、「無常であり苦しみである一切の形成されたもの」と考えると意味が通じると思うんです。

    無常であり苦しみである一切の形成されたものは、我ならざるものであると明らかな知恵をもって見るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。



引用返信/返信 削除キー/
■7450 / inTopicNo.46)  永劫回帰と而今
□投稿者/ パニチェ -(2020/10/06(Tue) 21:45:23)
    2020/10/06(Tue) 22:37:22 編集(投稿者)

    以下はニーチェが静養先のスイスのシルス・マリア滞在中にシルヴァプラナ湖畔を散歩中、巨大な尖った三角岩のほとりで永劫回帰を受胎(ある種の至高体験)した瞬間を綴ったアフォリズムです。

    『完全な忘我の状態にありながらも、爪先にまで伝わる無数の微妙な戦きと悪寒とを、このうえなく明確に意識している。これはまた幸福の潜む深所でもあって、そこでは最大の苦痛も最高の陰惨さも幸福に逆らう反対物としては作用せず、むしろ幸福を引き立てるための条件として、挑発として、いいかえればこのような光の氾濫の内部におけるなくてはならない一つの色どりとして作用するのである。これはまたリズムの釣り合いを見抜く本能でもあって、さまざまな形の広大な場所を張り渡している。──その長さ、広く張り渡されたリズムへの欲求が、ほとんどインスピレーションの圧力と緊張に対抗する一種の調節の役目をも果たしている。…いっさいが最高の度合いにおいて非自由意志的に起こる。しかも、自由の感情の、無制約的な存在の、権力の、神的性格の嵐の中にあるようにして起こる。…形象や比喩が自分の思いの儘にならぬことは、最も注目に値する点だ。われわれはもう何が形象であり、何が比喩であるのかが分からない。いっさいが最も手近な、最も適確な、そして最も単純な表現となって、立ち現れる。実際、ツァラトゥストラの言葉を思い出して頂くなら、事物の方が自らに近寄って来て、比喩になるよう申し出ているかのごとき有様にみえる。(この人を見よ ツァラトゥストラ)』


    以下の正法眼蔵 画餅と相通ずるものがあります。

    『諸仏が真理を体験するとき、万物が真理を体験する。たしかに覚者と万物は、表面的に見れば同一のものではない。しかし、真理を体験するとき、おのおのの体験が、互いに妨げあうことなく実現するのである。これが仏道の明確な教えである。それを、諸仏と万物が同一であるか異なっているかという分別によって学んではならない。そのため「一つのことに通じれば、すべてのことに通じる」というのである。一つのことを体験するということは、一つのことが本来具えている姿を奪うことではない。一つのことを他のことと対立させることでも、対立をなくしてしまうことでもない。強いて対立をなくそうすることは、こだわることである。体験することにこだわらないとき、一つの体験は、すべての体験に通じる。このように、一つのことを体験するということは、そのものになりきることである。そのものになりきるということは、すべてのものになりきることである。(誠信書房刊 現代訳 正法眼蔵 画餅)』


    以前にも投稿しましたが。。。
    ニーチェの永劫回帰の教訓的な意味は「寸分たがわず永遠に同じ生を繰り返すとしても“然り”と肯定できるような生き方や決断をしろ」という啓発であり、哲学的な意味としては永遠と一瞬が一如となる(一即一切、一切即一)ような時間概念でもあり、道元禅師の永遠が瞬間に畳みこまれる「而今:今に生きる」と同じ。

    絶えざる自己超克と而今の徹底によって永劫回帰は肯定され運命愛へと昇華される。
    最も厳しく高貴な自己肯定とは、今ある自己を形成した過去の全ての出来事や経験、たとえそれが苦渋に満ちたものであったとしても、全てひっくるめて全肯定することにある。
引用返信/返信 削除キー/
■7449 / inTopicNo.47)  Re[22]: 諸行無常・一切皆苦・諸法非我
□投稿者/ pipit -(2020/10/06(Tue) 21:34:23)
    参照したページを、ご紹介します。
    パーリ仏典(ミャンマー版かな?)が検索できるページです。

    https://www.tipitaka.org/

    ↓文字化けすると思うけど、ダンマパダ277.278.279を引用します。

    277.
    ‘‘Sabbe sa&#7749;kh&#257;r&#257; anicc&#257;’’ti, yad&#257; pa&#241;&#241;&#257;ya passati;
    Atha nibbindati dukkhe, esa maggo visuddhiy&#257;.

    278.
    ‘‘Sabbe sa&#7749;kh&#257;r&#257; dukkh&#257;’’ti, yad&#257; pa&#241;&#241;&#257;ya passati;
    Atha nibbindati dukkhe, esa maggo visuddhiy&#257;.

    279.
    ‘‘Sabbe dhamm&#257; anatt&#257;’’ti, yad&#257; pa&#241;&#241;&#257;ya passati;
    Atha nibbindati dukkhe, esa maggo visuddhiy&#257;.


引用返信/返信 削除キー/
■7448 / inTopicNo.48)  諸行無常・一切皆苦・諸法非我
□投稿者/ pipit -(2020/10/06(Tue) 21:25:50)
    みなさまこんにちは。

    諸行無常・一切皆苦・諸法非我と訳されている経典文の原語をカタカナで書きます。

    諸行無常・一切皆苦の主語(?)は、サンカーラ(形成されたもの)ですが、
    諸法非我の主語(?)は、ダンマです。

    【諸行無常】
    サッベ ・ サンカーラー ・アニッチャー


    【一切皆苦】
    サッベ ・ サンカーラー ・ ドゥッカー


    【諸法非我】
    サッベ ・ ダンマー ・ アナッター


    非我のとこだけ、サンカーラ(形成されたもの)ではなく、ダンマ(法)になっています。

    (ダンマパダ 277.278.279)



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