| 2020/10/10(Sat) 09:44:27 編集(投稿者)
knowing itselfさんが出されたお題と、その中に出てくるハエの譬え、ヴィトゲンシュタインの文章(私もその譬えだけはどこかで見たことはありました。)をパニチェさんが貼ってくださったのを拝見して感じたことを僭越ながら書かせてください。 どなたにレスするのがいいのかわからないので、独自投稿でします。
・・・・・ > みなさん こんばんは。ヴィトゲンシュタインに下記の発言があります。ものすごく思考を刺激する深遠な喩えだと思います。
> 独我論者はハエとり器の壁の中でばたばたし続ける。壁にぶつかってはまたばたばたする。彼を静かにさせるにはどうすればよいのか。
まず、上記のウィトゲンシュタインの喩えが記されている周辺を以下に引用しますね。
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以下、探究309 『哲学におけるあなたの目的は何か。──ハエにハエとり壺からの出口を示してやること。』
以下、ウィトゲンシュタイン『「個人的経験」および「感覚与件」について』より
『それにしても、今私が見ているもの、この部屋の光景は比類のない役割を果たしている。それは〔私のみが眼にできる〕視覚的世界なのだ!
(独我論者はハエ取り器の壁の中でぱたぱたし続ける。壁にぶつかってまたぱたぱたする。彼を静かにさせるにはどうすればよいのか)
しかし私の根本問題は、私というものはどう定義されるのか、である。この特別なものは誰なのか?私である。しかしそれが誰なのかを示すために私は手を挙げればいいのか。──かりに私も私の周囲も絶えず変わってゆくものとすると、そこにもなお何かの連続性、それによって変わっていくものは私であり私の周囲であると言える連続性があるのだろうか。
(これは、空間の中のものがすっかり変わってもなお一つだけ変わらないものがある、すなわち空間だ、と考えるのに似ていないか。)(入れるもの〔ルーム〕と間違えられた空間。)』
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最後のあたりが主題ですよね。
私や私の周囲、つまり私の身体、考え、私が見るもの、聞くもの、世界は変化していく。 そこには連続性があるのだろうか?と、あります。 一つだけ変わらないものって、第五図的スクリーンと同じ意味合いのもの? もしくは「意識」。 スクリーンと意識は同じですが。 こんなふうに考えてみました。
そして。ヴィトゲンシュタインは、「変化していく連続性のない私」と「変化しない私」の二種類の「私」を、自身のうちに感じていたのではないか、と想像します。
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