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■7598 / inTopicNo.49)  Re[30]: ヴィトゲンシュタイン
  
□投稿者/ パニチェ -(2020/10/10(Sat) 09:56:12)
    minoriさん、おはようございます。

    No7594に返信(minoriさんの記事)
    > 2020/10/10(Sat) 09:44:27 編集(投稿者)
    >
    > knowing itselfさんが出されたお題と、その中に出てくるハエの譬え、ヴィトゲンシュタインの文章(私もその譬えだけはどこかで見たことはありました。)をパニチェさんが貼ってくださったのを拝見して感じたことを僭越ながら書かせてください。
    > どなたにレスするのがいいのかわからないので、独自投稿でします。

    大歓迎です。

    > ・・・・・
    >>みなさん こんばんは。ヴィトゲンシュタインに下記の発言があります。ものすごく思考を刺激する深遠な喩えだと思います。
    >
    >>独我論者はハエとり器の壁の中でばたばたし続ける。壁にぶつかってはまたばたばたする。彼を静かにさせるにはどうすればよいのか。
    >
    > まず、上記のウィトゲンシュタインの喩えが記されている周辺を以下に引用しますね。
    >
    > ********************************************
    >
    > 以下、探究309
    > 『哲学におけるあなたの目的は何か。──ハエにハエとり壺からの出口を示してやること。』
    >
    > 以下、ウィトゲンシュタイン『「個人的経験」および「感覚与件」について』より
    >
    > 『それにしても、今私が見ているもの、この部屋の光景は比類のない役割を果たしている。それは〔私のみが眼にできる〕視覚的世界なのだ!
    >
    > (独我論者はハエ取り器の壁の中でぱたぱたし続ける。壁にぶつかってまたぱたぱたする。彼を静かにさせるにはどうすればよいのか)
    >
    > しかし私の根本問題は、私というものはどう定義されるのか、である。この特別なものは誰なのか?私である。しかしそれが誰なのかを示すために私は手を挙げればいいのか。──かりに私も私の周囲も絶えず変わってゆくものとすると、そこにもなお何かの連続性、それによって変わっていくものは私であり私の周囲であると言える連続性があるのだろうか。
    >
    > (これは、空間の中のものがすっかり変わってもなお一つだけ変わらないものがある、すなわち空間だ、と考えるのに似ていないか。)(入れるもの〔ルーム〕と間違えられた空間。)』
    >
    > ********************************************

    > 最後のあたりが主題ですよね。
    > 私や私の周囲、つまり私の身体、考え、私が見るもの、聞くもの、世界は変化していく。
    > そこには連続性があるのだろうか?と、あります。
    > 一つだけ変わらないものって、第五図的スクリーンと同じ意味合いのもの?
    > もしくは「意識」。 スクリーンと意識は同じですが。
    > こんなふうに考えてみました。
    > そして。ヴィトゲンシュタインは、「変化していく連続性のない私」と「変化しない私」の二種類の「私」を、自身のうちに感じていたのではないか、と想像します。

    永井氏&パニチェ的には前者は「私」で後者は〈私〉です。

    上記でminoriさんが言うところの意識というのは変化するものですか?それとも変化しないものですか?
    脳が反応することで生じる意識は脳の可塑性に支配されますので、ひとつの状態が持続することはありえないものになると思いますが。。。
    それはフッサールが言うところの志向性(意識とは何かについての意識である)であるところの意識だと思います。

    スクリーンは変化しないものの譬えだと思うので、その意味での意識とはminoriさんがよく言われる「気付き」というようなものでしょうか。
    もしそうであるなら「気付き」は変化しますか?それとも変化しないものでしょうか?

引用返信/返信 削除キー/
■7597 / inTopicNo.50)  Re[28]: Wのハエとり壺の喩え
□投稿者/ パニチェ -(2020/10/10(Sat) 09:46:14)
    2020/10/10(Sat) 10:05:51 編集(投稿者)

    レスありがとうございます。

    No7593に返信(knowing itselfさんの記事)

    > ヴィトゲンシュタインに〈私〉の底を抜くという発想は希薄なような気がしますが、どうでしょうかね。

    同意です。ウィトゲンシュタインには、ないと思います。^^
    ウィトゲンシュタイン的な独我論からの脱出は、〈私〉の底をぶち抜くしかないというのは、あくまでもパニチェの発想です。

    > いろんな人との永井さんがらみの対話の中で見えてきたのは、永井さんには〈私〉の底を抜くという発想はおそらくないのでは?永井さんは臨済宗とはまったく合わないと思います。もちろん私見ですから、真相はわかりません。

    これも同意します。
    永井さんが第五図を〈私〉と本気で捉えているのならば、既に〈私〉は底が抜けていると考えている可能性もありますね。
    先の投稿でもカキコした通り、パニチェは全く同意できませんし、強引に結び付けたリップサービスのようにさえ思います。


    >>独在論者にとっての独在論性的世界はハエにとってのハエ取り器のようなものであり、出口を捜して、もがけばもがくほど言語の限界、つまり論理や思考の限界にぶちあたり、さらなるもがきを生む。
    >>独在論者を静かにさせるためには出口捜しを諦めるか、〈私〉を見究めるしかない。

    > 最後のところは、この二択が一つに合流することだと思います。

    出口など、そもそもない器である可能性も捨てきれず、ここはペンディング!^^

引用返信/返信 削除キー/
■7596 / inTopicNo.51)  Re[27]: Wのハエとり壺の喩え
□投稿者/ パニチェ -(2020/10/10(Sat) 09:37:17)
    2020/10/10(Sat) 10:13:14 編集(投稿者)

    横レス失礼します。
    以下もこれまで通り忌憚なく私の思うところを返信させてもらいますが、失礼があればご寛容のほどを。。。

    No7550に返信(ななしさんの記事)

    > https://www.youtube.com/watch?v=r6bDORQDMQc

    ウィトゲンシュタインファンの一人として上記の糸崎氏の主張には全くもって同意できない。
    カルバンの二重予定説とウィトゲンシュタインの以下の論考のくだりを結びつけることは無理があるし、牽強付会であり、単なる自説の箔付けのために論考を持ち出しているようにさえ思え、不快ですらある。

    **** 以下は、ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」より引用 ****
    (大修館書店刊『ウィトゲンシュタイン全集 第1巻 論理哲学論考他』)

    2 実情であること、即ち事実とは、諸事態の存立である。

    2.01 事態の構成要素でありうることが、ものにとって本質である。

    2.012 論理においては何ものも偶然ではない。ものが事態の中に現れ得るならば、事態の可能性はものにおいて既に前以て決定されていなければならない。

    2.0121 仮に、単独にそれだけで存在しうるものに対して、後になってある状態が適合する、というのであれば、この適合はあたかも偶然と思われよう。
    (論理的なものは、単に可能、というのではありえない。論理は全ての可能性に関わる、そして全ての可能性が論理の事実である。)
    およそ空間的な対象を空間の外で想像できず、時間的対象を時間の外で想像できないのと同様に、我々はいかなる対象をも対象との結合の可能性の外で想像することはできない。
    もし私が対象を事態の脈絡の中で想像できるなら、私はこの脈絡の可能性の外で対象を想像できない。

    2.0122 ものは、全ての可能な状態に現れうる限り、自立的である。しかしこの自立性の形式は事態との連関の形式であり、非自立性の形式である。(語が、単に登場し、そしてまた命題の中にも登場する、という具合に、二通りの異なった仕方で登場することは不可能せある。)

    *************** 引用終わり ***************

    マックスウェーバーまで持ち出し、ビジネスが成立するとかしないとか、NHK打倒の立花とか山本太郎とか何の接点もない話。
    糸崎氏は「ウィトゲンシュタインはものが成立するか成立しないかが問題にしている」との見解であるが、そんなことは全く問題にしていない。

    上記のウィトゲンシュタインの言説は「1世界とは実情であることがらの全てである。1.1世界は事実の総計であって、ものの総計ではない。1.13論理空間における諸事実が世界である。」の流れにあり(論考の数字は大項目・中項目・小項目を表す)、あくまでもテーマとしているのは私たちが五感で知りえる世界「5.6 私の言語の限界が私の世界の限界を意味する。5.61 論理は世界を満たす。世界の限界は論理の限界でもある。」であって、天国や地獄など何の関係もない。

    上記のウィトゲンシュタインの言説に他の思想を結び付けるとすれば中論の相依性縁起だとう。
    ものは単体では存在しえず、すべてのものや現象は複数のもの連関として(相依って)成立しており、それらの事象の総計が世界である全体運動であるということ。

引用返信/返信 削除キー/
■7595 / inTopicNo.52)  Re[30]: ヴィトゲンシュタイン
□投稿者/ minori -(2020/10/10(Sat) 09:35:00)
    たしか非二元寄りの人の文章だったと思うのですが、ヴィトゲンシュタインを非二元に分類している人がいました。
    仮にヴィトゲンシュタインが知ったとしたなら、「違う」と言うと思いますけど。
    非二元寄りの人にとっては、「お、ヴィトゲンシュタインも同じようなこと言ってる」という部分があったのでしょう。
    もしかするとそれは、今、お題として出されている譬えのことなのかも、と想像しました。
引用返信/返信 削除キー/
■7594 / inTopicNo.53)  ヴィトゲンシュタイン
□投稿者/ minori -(2020/10/10(Sat) 09:02:38)
    2020/10/10(Sat) 09:44:27 編集(投稿者)

    knowing itselfさんが出されたお題と、その中に出てくるハエの譬え、ヴィトゲンシュタインの文章(私もその譬えだけはどこかで見たことはありました。)をパニチェさんが貼ってくださったのを拝見して感じたことを僭越ながら書かせてください。
    どなたにレスするのがいいのかわからないので、独自投稿でします。

    ・・・・・
    > みなさん こんばんは。ヴィトゲンシュタインに下記の発言があります。ものすごく思考を刺激する深遠な喩えだと思います。

    > 独我論者はハエとり器の壁の中でばたばたし続ける。壁にぶつかってはまたばたばたする。彼を静かにさせるにはどうすればよいのか。

    まず、上記のウィトゲンシュタインの喩えが記されている周辺を以下に引用しますね。

    ********************************************

    以下、探究309
    『哲学におけるあなたの目的は何か。──ハエにハエとり壺からの出口を示してやること。』

    以下、ウィトゲンシュタイン『「個人的経験」および「感覚与件」について』より

    『それにしても、今私が見ているもの、この部屋の光景は比類のない役割を果たしている。それは〔私のみが眼にできる〕視覚的世界なのだ!

    (独我論者はハエ取り器の壁の中でぱたぱたし続ける。壁にぶつかってまたぱたぱたする。彼を静かにさせるにはどうすればよいのか)

    しかし私の根本問題は、私というものはどう定義されるのか、である。この特別なものは誰なのか?私である。しかしそれが誰なのかを示すために私は手を挙げればいいのか。──かりに私も私の周囲も絶えず変わってゆくものとすると、そこにもなお何かの連続性、それによって変わっていくものは私であり私の周囲であると言える連続性があるのだろうか。

    (これは、空間の中のものがすっかり変わってもなお一つだけ変わらないものがある、すなわち空間だ、と考えるのに似ていないか。)(入れるもの〔ルーム〕と間違えられた空間。)』

    ********************************************

    最後のあたりが主題ですよね。

    私や私の周囲、つまり私の身体、考え、私が見るもの、聞くもの、世界は変化していく。
    そこには連続性があるのだろうか?と、あります。
    一つだけ変わらないものって、第五図的スクリーンと同じ意味合いのもの?
    もしくは「意識」。 スクリーンと意識は同じですが。
    こんなふうに考えてみました。

    そして。ヴィトゲンシュタインは、「変化していく連続性のない私」と「変化しない私」の二種類の「私」を、自身のうちに感じていたのではないか、と想像します。
引用返信/返信 削除キー/
■7593 / inTopicNo.54)  Re[27]: Wのハエとり壺の喩え
□投稿者/ knowing itself -(2020/10/10(Sat) 08:41:43)
    パニチェさん おはようございます。レスありがとうございます。

    No7565に返信(パニチェさんの記事)
    > 2020/10/10(Sat) 06:20:33 編集(投稿者)
    >
    > こんばんは、knowing itselfさん。レスありがとうございます。
    >
    > ■No7547に返信(knowing itselfさんの記事)
    >>パニチェさん こんばんは 引用ありがとうございます。
    >
    > >>もしよければ、knowing itselfさんが上記の「独我論者はハエ取り器の壁の中でぱたぱたし続ける。壁にぶつかってまたぱたぱたする。彼を静かにさせるにはどうすればよいのか」をどのように読解されたのか教えていただければ有難いです。
    >
    >>この間、夢にこの場面が出てきました(笑)。
    >
    > デジャビュ?まさか悪夢とか。。。(笑)
    >
    >>どのように読解したかという明確な形はまだ示せませんが、このアフォリズムにヴィトゲンシュタインのすべてが凝縮しているのではという強烈な印象があります。
    >
    > 確かに。同意です。
    >
    >>永井=ヴィトゲンシュタイン的に解釈するとどうなるかという、興味もそそられます。
    >>永井さんは、このアフォリズムに内山興正の第五図につながるものを見ているはずです。
    >
    > 永井さんは〈私〉イコール第五図と考えていることからして同意します。
    > 以下は永井さん解釈は横に置くとして。。。
    > パニチェの「比類なき先言の<私>」から解釈するとどうなるかをカキコしてみます。
    > 横レス、異論、反論、疑問、歓迎します。
    >
    >>以下、探究309
    >>『哲学におけるあなたの目的は何か。──ハエにハエとり壺からの出口を示してやること。』
    >
    > 独我論者、つまり独在論者をその独在的存在や世界から解放させるのがウィトゲンシュタイン哲学の目的でもある。
    > これを解決するひとつの可能性としては〈私〉の底を抜くしかないように思う。
    > 但し、底を抜いたからと言っても独在論的〈私〉から解放されないこともありえる。



    ヴィトゲンシュタインに〈私〉の底を抜くという発想は希薄なような気がしますが、どうでしょうかね。いろんな人との永井さんがらみの対話の中で見えてきたのは、永井さんには〈私〉の底を抜くという発想はおそらくないのでは?永井さんは臨済宗とはまったく合わないと思います。もちろん私見ですから、真相はわかりません。


    >>以下、ウィトゲンシュタイン『「個人的経験」および「感覚与件」について』より
    >
    >>『それにしても、今私が見ているもの、この部屋の光景は比類のない役割を果たしている。それは〔私のみが眼にできる〕視覚的世界なのだ!
    >
    > マッハ的光景のことであり、世界の特異点である比類なき位置からこの部屋の光景を見ている。
    > つまり比類なき先言の<私>のみが眼にできる視覚的世界であるが故に、この部屋の光景が比類のない役割を果たしているということ。
    >
    >
    >>(独我論者はハエ取り器の壁の中でぱたぱたし続ける。壁にぶつかってまたぱたぱたする。彼を静かにさせるにはどうすればよいのか)
    >
    > 独在論者にとっての独在論性的世界はハエにとってのハエ取り器のようなものであり、出口を捜して、もがけばもがくほど言語の限界、つまり論理や思考の限界にぶちあたり、さらなるもがきを生む。
    > 独在論者を静かにさせるためには出口捜しを諦めるか、〈私〉を見究めるしかない。


    最後のところは、この二択が一つに合流することだと思います。

    >>しかし私の根本問題は、私というものはどう定義されるのか、である。この特別なものは誰なのか?私である。しかしすれが誰なのかを示すために私は手を挙げればいいのか。──かりに私も私の周囲も絶えず変わってゆくものとすると、そこにもなお何かの連続性、それによって変わっていくものは私であり私の周囲であると言える連続性があるのだろうか。
    >>(これは、空間の中のものがすっかり変わってもなお一つだけ変わらないものがある、すなわち空間だ、と考えるのに似ていないか。)(入れるもの〔ルーム〕と間違えられた空間。)』
    >
    > 〈私〉は言語化不可能である故に定義不能であり、〈私〉は無色透明であるが故に変わりようがないが独在的存在であるがために連続性も保持している、あるいは保持せざるをえない。
    > それは空間内のものが変化したとしても空間が無色透明であり続けることと同じではないか?
    >
    >
    > 。。。。ってな解釈をしてみました。^^
    >
引用返信/返信 削除キー/
■7591 / inTopicNo.55)  Re[27]: Wのハエとり壺の喩え
□投稿者/ knowing itself -(2020/10/10(Sat) 08:31:42)
    おはようございます ななしさん レスありがとうございます。

    > 確かに「言語ゲーム」は、もはや当たり前の今更感が満杯ですが、
    > 実は、画期的なことだったのかもしれませんね。
    >
    > ウィトゲンシュタインは、ひとに考えさせる著作を描いていたようで、
    > ある意味、言葉の問題集のようなものだったらしいです。
    >
    > それから、『論理哲学論考』について面白い動画があったので
    > あげておきますね。
    >
    > https://www.youtube.com/watch?v=r6bDORQDMQc

    「論理哲学論考」の言語観と言語ゲームは、別な相貌をしていますが、もしかしたらヴィトゲンシュタインの中では本質は同じではないか?と思いました。


    カルヴァン派の予定説と「論理哲学論考」の組み合わせは面白いですね。カルヴァン派はすべてを前もって完全に決定している神を外側に置くようでいて、結果的に神を無化して現世至上の資本主義を帰結している、逆説的なところがありますね。浄土教的な他力本願や来世のお浄土とは異質なような気がしますが、どうでしょうかね。

    ヴィトゲンシュタインとカルヴァン派は違うようにも思います。キリスト教とヴィトゲンシュタインなら、キリスト教神秘主義かトルストイ的な福音書のイエスに戻れ、こういったのと相性がいいのではと。
引用返信/返信 削除キー/
■7587 / inTopicNo.56)  永井氏とパニチェの違い
□投稿者/ パニチェ -(2020/10/10(Sat) 07:42:41)
    ここにきてハッキリしつつあること、同時に永井氏への疑問が生じた。

    何故、永井氏は第五図イコール〈私〉と断言できるのか?

    世界に属さない、あるいは世界の極点である独在的位置に〈私〉が存在するというところは共通するが、自他の境界が喪失することはない。

    〈私〉は無色透明であっても『独我論的=無我的な自己(「〈仏教3.0〉を哲学するT P.113」)』とするのは強引過ぎるのではないか?

    「〈仏教3.0〉を哲学するT P.153」でも述べている通り『ここもまた強引に言ってしまいますけど』が正直なところのように思う。

    リップサービスではないか?

    〈私〉は言語によって生じた「私」ではないが、無我ではありえず、これ以上確たる存在がないほどの〈有我〉である。

    〈我〉在り、故に我思う。

引用返信/返信 削除キー/
■7570 / inTopicNo.57)  語りえないこと
□投稿者/ パニチェ -(2020/10/09(Fri) 21:56:32)
    前期ウィトゲンシュタイン哲学の言語論「写像理論」の網の目もすり抜け

    後期ウィトゲンシュタイン哲学の言語論「言語ゲーム」の俎上にも載らないもの

    比類なき先言の<私>
引用返信/返信 削除キー/
■7565 / inTopicNo.58)  Re[26]: Wのハエとり壺の喩え
□投稿者/ パニチェ -(2020/10/09(Fri) 21:38:49)
    2020/10/10(Sat) 06:20:33 編集(投稿者)

    こんばんは、knowing itselfさん。レスありがとうございます。

    No7547に返信(knowing itselfさんの記事)
    > パニチェさん こんばんは 引用ありがとうございます。

    >>もしよければ、knowing itselfさんが上記の「独我論者はハエ取り器の壁の中でぱたぱたし続ける。壁にぶつかってまたぱたぱたする。彼を静かにさせるにはどうすればよいのか」をどのように読解されたのか教えていただければ有難いです。

    > この間、夢にこの場面が出てきました(笑)。

    デジャビュ?まさか悪夢とか。。。(笑)

    > どのように読解したかという明確な形はまだ示せませんが、このアフォリズムにヴィトゲンシュタインのすべてが凝縮しているのではという強烈な印象があります。

    確かに。同意です。

    > 永井=ヴィトゲンシュタイン的に解釈するとどうなるかという、興味もそそられます。
    > 永井さんは、このアフォリズムに内山興正の第五図につながるものを見ているはずです。

    永井さんは〈私〉イコール第五図と考えていることからして同意します。
    以下は永井さん解釈は横に置くとして。。。
    パニチェの「比類なき先言の<私>」から解釈するとどうなるかをカキコしてみます。
    横レス、異論、反論、疑問、歓迎します。

    > 以下、探究309
    > 『哲学におけるあなたの目的は何か。──ハエにハエとり壺からの出口を示してやること。』

    独我論者、つまり独在論者をその独在的存在や世界から解放させるのがウィトゲンシュタイン哲学の目的でもある。
    これを解決するひとつの可能性としては〈私〉の底を抜くしかないように思う。
    但し、底を抜いたからと言っても独在論的〈私〉から解放されないこともありえる。


    > 以下、ウィトゲンシュタイン『「個人的経験」および「感覚与件」について』より

    > 『それにしても、今私が見ているもの、この部屋の光景は比類のない役割を果たしている。それは〔私のみが眼にできる〕視覚的世界なのだ!

    マッハ的光景のことであり、世界の特異点である比類なき位置からこの部屋の光景を見ている。
    つまり比類なき先言の<私>のみが眼にできる視覚的世界であるが故に、この部屋の光景が比類のない役割を果たしているということ。


    > (独我論者はハエ取り器の壁の中でぱたぱたし続ける。壁にぶつかってまたぱたぱたする。彼を静かにさせるにはどうすればよいのか)

    独在論者にとっての独在論性的世界はハエにとってのハエ取り器のようなものであり、出口を捜して、もがけばもがくほど言語の限界、つまり論理や思考の限界にぶちあたり、さらなるもがきを生む。
    独在論者を静かにさせるためには出口捜しを諦めるか、〈私〉を見究めるしかない。


    > しかし私の根本問題は、私というものはどう定義されるのか、である。この特別なものは誰なのか?私である。しかしすれが誰なのかを示すために私は手を挙げればいいのか。──かりに私も私の周囲も絶えず変わってゆくものとすると、そこにもなお何かの連続性、それによって変わっていくものは私であり私の周囲であると言える連続性があるのだろうか。
    > (これは、空間の中のものがすっかり変わってもなお一つだけ変わらないものがある、すなわち空間だ、と考えるのに似ていないか。)(入れるもの〔ルーム〕と間違えられた空間。)』

    〈私〉は言語化不可能である故に定義不能であり、〈私〉は無色透明であるが故に変わりようがないが独在的存在であるがために連続性も保持している、あるいは保持せざるをえない。
    それは空間内のものが変化したとしても空間が無色透明であり続けることと同じではないか?


    。。。。ってな解釈をしてみました。^^

引用返信/返信 削除キー/
■7561 / inTopicNo.59)  Re[26]: Wのハエとり壺の喩え
□投稿者/ パニチェ -(2020/10/09(Fri) 21:11:09)
    こんばんは、ななしさん。レスありがとうございます。

    No7516に返信(ななしさんの記事)
    > knowing itselfさん、パニチェさん、こんばんは。

    > 「お前の哲学の目的は何か? それはハエにハエ取り器から脱出する出口を示してやることだ」

    > これは、言葉という一義的な意味に呪縛された視点を再考させて
    > 新たな意味、出口を見出させる言語論的転回のことだと認識しています。

    > つまり、「語の意味はその使用である」その使われる場面によって
    > 意味が全く変わってしまう「言語ゲーム」だからかなと思っています。

    私の解釈はknowing itselfさん宛てのレスでカキコすることにして。。。
    上記の言明はさまざまな意味を含んでいると思うので、ななしさんの解釈もありだと思います。

    言語論に関しては前期の世界と言語を対応させる写像理論から後期の言語ゲームへと展開します。
    「語りえないことについては沈黙しなければならない」は、前期後期通しての言明だと思います。

    『哲学はいかなるしかたにせよ、言語の実際の慣用に抵触してはならない。それゆえ、哲学は、最終的には、言語の慣用を記述できるだけである。(探究124)』

引用返信/返信 削除キー/
■7550 / inTopicNo.60)  Re[26]: Wのハエとり壺の喩え
□投稿者/ ななし -(2020/10/09(Fri) 19:17:55)
    knowing itselfさんレスありがとうございます。

    確かに「言語ゲーム」は、もはや当たり前の今更感が満杯ですが、
    実は、画期的なことだったのかもしれませんね。

    ウィトゲンシュタインは、ひとに考えさせる著作を描いていたようで、
    ある意味、言葉の問題集のようなものだったらしいです。

    それから、『論理哲学論考』について面白い動画があったので
    あげておきますね。

    https://www.youtube.com/watch?v=r6bDORQDMQc
引用返信/返信 削除キー/

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