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■7642 / inTopicNo.37)  Re[34]: 「哲学探究」Tー261
  
□投稿者/ パニチェ -(2020/10/11(Sun) 07:57:32)
    おはようございます、knowing itselfさん。レスありがとうございます。

    No7632に返信(knowing itselfさんの記事)
    > パニチェさん こんばんは。引用を続けますね。永井さんのどういう思考が展開されているかご覧ください。

    お手間かけました。ありがとうございます。
    以下は通して書き出してみますね。

    No7602に返信(knowing itselfさんの記事)
    > 「西田幾多郎 〈絶対無〉とは何か」永井均 p44〜46。ここで永井さんは上記「哲学探究」の該当箇所を引用しながら、永井=ヴィトゲンシュタイン的なものの核心を語っているように思われます。おそらく永井さんの内山興正理解はこの延長にある。仏教者二人との鼎談でズレていたのは、ヴィトゲンシュタインの永井解釈がわからないとピンとこないからだと思います。

    >>*************** 引用開始 ***************
    >>
    >>確信犯ヴィトゲンシュタインとの対決
    >>
    >>それゆえ西田は、デカルトが直面しなかった難問に直面していた。自分の哲学をどうして言葉で語れるのか、という問題である。彼は、この難局からどうやって脱出することができたのだろうか。
    >>前章の最後に私は「その後の西洋哲学史は、生の事実でない側を自立させる方向へと展開した」と書いたが、この方向の頂点に位置するのがヴィトゲンシュタインである。彼は、自分だけに起こる感覚を指す、自分にとってだけ意味を持つ語(E)というものを想定して、そういうものが言語として機能しうるかを自問し、ついにこう書いている。
    >>
    >>哲学探究261
    >>『「E」をある感覚の記号と呼ぶことに、どのような根拠があるのか。つまり、「感覚」というのは、われわれに共通の言語に含まれる語であって、わたしくしだけに理解される言語の語ではない。それゆえ、この語の慣用は、すべての人が了解するような正当化を必要とする、──だから、また、それが感覚である必要はあるまいとか、かれが「E」と書くときには何かを感じているのだとか言ったところで、何の役にも立たないであろう──しかも、それ以上のことをわれわれは何も言えないだろう。ところが、「感じている」とか「何かを」とかいうことばもまた、共通の言語に属している。──だから、ひとは哲学する際、ついにはいまだ不分明な音声だけを発したくなるような段階へと到達する。──しかし、そのような音声は、一定の言語ゲームの中にあってのみ、一つの表現になっているのである。いまや、その言語ゲームが記述されなくてはならない。』
    >>
    >>*************** 引用終わり ***************
    >
    > 「E」を、西田のいう「言語に言い現すことのできない」はずの「直接経験の事実」だけを特別に指す特製の語だと解釈してみよう。するとヴィトゲンシュタインはこう言っていることになる。ーいや、しかし、その「直接経験の事実」だって、われわれの共通の言語に含まれる言葉じゃないですか。だから、初めから「直接経験の事実」という言葉が位置を持つ言語ゲームに乗っかっているんですよ。もしそれを拒否しようとするなら、あなたは最後には分節化されていない音声だけを発したくなる段階に達してしまいますよ。そして、そのときでさえ、その音声がもし何らかの意味を持つなら、それはそれが意味を持つような言語ゲームの中に位置づけられているからなのですよ。もしそうでないとしたら、恐ろしいことに、あなたの叫び声は誰にも何の意味も持たないのです。

    > 引用終わり

    ********************************************

    上記の永井さんの言わんとしていることは、〈私〉や「直接経験の事実」が永井さんの言う「独在と頽落の終わることなき拮抗運動」に埋没してしまうのは、言語ゲームに乗せた瞬間に変質してしまうからであり、私的言語が不可能であることと同類の理由で〈私〉や「直接経験の事実」の内実は言語化不能であるということ、つまり慣用されることよって、その語の使用が適用か誤用かを判断できないために言語ゲーム外になるということだと思います。

    knowing itselfさんが上記で指摘されているのは、「独在と頽落の終わることなき拮抗運動」や「私的言語の不可能性」が良道さんや一照さんが理解していないために齟齬が生じているということでしょうか。

引用返信/返信 削除キー/
■7641 / inTopicNo.38)  個別のものは幻想
□投稿者/ minori -(2020/10/11(Sun) 06:36:48)
    タイトルの「個別のものは幻想」でひとりごと風に投稿です。

    実は、ニーチェクラブに来るようになって、いろんな方の投稿を拝見したり、やりとりさせていただいたり、話題に出ている本を読んだりすることによって、私が追求している(現在進行形なので)非二元についての理解も自分の中で深まったのです。

    カントの認識論は、なかでも大きかったです。
    それに加えて、第四図、第五図。
    私たちが認識している世界は、カントの言う現象世界であり、第四図であり、それは人間が共通して観ることのできている世界であるがゆえに学問研究や便利な生活を送れる大元になっているけれど、一方、分離という苦しみも起きる世界である、ということ。
    このあたりがすっきりと整理されました。
    ニーチェクラブに来なかったら、すっきりとは整理されなかったんです。
    こういうことからしても、「個別のものは幻想」とも言える、と思うのです。
    私が一人で本読みや考察してても、言葉では表現するのがちょっと難しいのですが、すっきりとはいかない部分が続いていたと思います。
    そういうわけで、ニーチェクラブと皆様に感謝を感じています。

引用返信/返信 削除キー/
■7636 / inTopicNo.39)  Re[35]: ヴィトゲンシュタイン
□投稿者/ minori -(2020/10/11(Sun) 05:21:55)
    パニチェさん、レスありがとうございます。

    No7617に返信(パニチェさんの記事)

    > 今度は私がminoriさんから「気づき」を教えてもらう番ですね。
    > 頑固頑迷で物分かりが悪いですが、よろしくお願いします。

    教えるというのはできない(私の能力の限界、扱うものが言語表現が難しい、という理由で)というか自信がないです。。が、可能な限りにおいて、それから、パニチェさんからの質問が続いて、minoriが答えられる限りにおいて続けてみる、というのをしたなら、伝わる何かがあるかもしれないです。
    パニチェさんは、先入観、偏見の少ない方だと思いますよ。
    でなければこうした話題に興味を持たれないと思います。

    そうだ・・元々のお題、ハエ取り壺の中でバタバタしているハエの比喩。
    それというのは、そもそもとしては、どういうことを言わんとしてる譬えなのかが、minoriは知らずにいました。
    (文章としてその譬えは、以前にも何かで見てはいたのですが、言わんとするものを追求していくところまではせず素通りしていましたので。)
    昨日のやりとりの最初の頃に、パニチェさんにお聞きすべきところでした。
    ということで、今更ながらで申し訳ないのですが、譬えの意味する元々のものについて教えていただいていいですか。

    >>「変化しない私」というのは、別の表現だとどう表されますか?
    >
    > 変化する物質的なモノも現象的なモノもないから変化しようがない〈私〉と言ったところですね。

    なるほど。

    >>とてもざっくりな表現で申し訳ないのですがminoriなりに表現すると、身体内にあるのではないかと考えられる「意識」を持つ独在的存在が〈私〉。
    >>それが「変化しない私」=〈私〉。
    >>このように想像したのですがいかがですか?

    > minoriさんには既に言うまでもないとは思いますが。。。
    > 半分は合ってますが半分は違います。
    > それは上記は言葉にすることで万人に共通する〈私〉になってしまうからです。

    あ〜、そうでしたね。頽落してしまう、というのでしたね。

    >>ただ言えるのは、「気づき」「スクリーン」は、身体内に閉じ込められたものではないんです。
    >>(パニチェさんは、意識は身体内にあるものと考えられますよね?)
    >
    > 身体の内か外かと問われれば内ですが、正確には世界の外ですね。
    > 身体性が世界内にあると考えれば、身体の外とも言えます。

    上記は、「意識」の存在する場所という意味で書かれたものでいいのですか?

    > > そもそも、「個」というものがない、というのが非二元でして、まさに第五図、カントの物自体の世界にも通じると思います。
    >
    >>それで・・・ほんとに、「個」はない、というのは言えるんです。
    >>机上の空論ではなく。
    >>ようは、「個」はなくて、逆に連続性だけがあるのが本質としての世界だと見るわけです。

    > ここ分からないのですが。。。
    > 「個」はなくて、逆に連続性だけがあるのが本質としての世界だと見れる理由というか根拠は何でしょうか。

    「個」だと分かりずらいかもですので、別の表現をします。
    個別のものは存在せず、分離がない世界 と言い換えます。
    (「個」はなくて、逆に連続性だけがあるのが本質としての世界 の言い換えです。)

    私たちが世界を観る時、思考、分析を介して観るなら、名前を持つ個別のものがそれぞれに存在する世界を観ますね。
    しかし、思考、分析を介さずに「ただ観る」時、観る世界に分離はあるでしょうか?
    パニチェさんが自宅の部屋にいらして室内を「ただ観る」されると、この意味がお分かりいただけると思います。

    >>時間・空間、カテゴリー分けは人間の都合で利便性追求の為に考えられたものであって、それらをぶっ壊して解体した世界を見るわけです。
    >>瞑想しなくても、考察でもできますよ。
    >
    >>「個」がある意味、幻想であるなら、意識も「個」に所属しているわけがない、だから、スクリーン、「気づき」という意識とは別の言葉で言い表すんです。
    >
    > 個が幻想であるというのは仮定でしょうか、それとも何かリアルな根拠がありますか?

    「個」がある意味、幻想であるなら、と表現したのは、
    世界は二通りの言い方で表現できる、といううちの一つのほうの表現をするなら、という意味です。

    一つ目は、世界は分離していない という観方。(非二元的観方)
    二つ目は、個別のものがそれぞれに存在している という誰でもしている普通の観方。
    その、一つ目のほうの観方でいくなら、「個」「個別のもの」は、ある意味、幻想とも表現できる、という意味です。

    そもそも。『「私」という実体はない』というフレーズも本当のこととして実感できるものですよ。
    実体を自分の内に探そうとすると「ない」んです。
    つまり、「私」は思考により立ち上がってくるものなんです。

    思考によって立ち上がってくる「私」がない状態で世界と接している、それが「ゾーンにいる」時です。
    これなら、実感として理解できると思います。
    「ゾーンにいる」というのは、西田哲学の純粋経験とも繋がると思います。
    そもそも本来、いつでも誰でも「ゾーンにいる」のだけど、思考によって立ち上がってくる「私」がそうは思わせなくしているのです。
    このことがリアルな根拠になると思います。


    >>意識っていうと、身体内にあるものと思ってしまいますから。
    >
    > その個に所属していない「気づき」と、私秘性や他の誰でもない自分の痛みを有する主体との関係性はどうなりますか?

    後者のほうを主体とはみません。
    それは、先に書いたように「思考によって立ち上がってくる言わば幻想とも言える主体」と非二元的には考えます。
    あくまで、「気づき」が主体です。 「気づき」に、ズキズキする歯の痛み、硬い食感、カラスの鳴き声などなど、次々にいろんなものが表れてきます。
    「私」と言われるminoriの話し声も、誰かと話していると聞こえてきます。

    非二元についての本はいろいろあるのですが、今、私も読んでいる『悟りを生きる 非二元へのシンプルなガイド』スコット・キルビー 著 は、いいですよ。
    非二元の本って、雲にまくかのような表現してるんじゃない?と思われても仕方ないような表現してる本もあるみたいなのですが、これはそういうのがないです。
    1600円で高くないですし。

引用返信/返信 削除キー/
■7632 / inTopicNo.40)  Re[33]: 「哲学探究」Tー261
□投稿者/ knowing itself -(2020/10/10(Sat) 21:48:52)
    パニチェさん こんばんは。引用を続けますね。永井さんのどういう思考が展開されているかご覧ください。

    > *************** 引用開始 ***************
    >
    > 確信犯ヴィトゲンシュタインとの対決
    >
    > それゆえ西田は、デカルトが直面しなかった難問に直面していた。自分の哲学をどうして言葉で語れるのか、という問題である。彼は、この難局からどうやって脱出することができたのだろうか。
    > 前章の最後に私は「その後の西洋哲学史は、生の事実でない側を自立させる方向へと展開した」と書いたが、この方向の頂点に位置するのがヴィトゲンシュタインである。彼は、自分だけに起こる感覚を指す、自分にとってだけ意味を持つ語(E)というものを想定して、そういうものが言語として機能しうるかを自問し、ついにこう書いている。
    >
    > 哲学探究261
    > 『「E」をある感覚の記号と呼ぶことに、どのような根拠があるのか。つまり、「感覚」というのは、われわれに共通の言語に含まれる語であって、わたしくしだけに理解される言語の語ではない。それゆえ、この語の慣用は、すべての人が了解するような正当化を必要とする、──だから、また、それが感覚である必要はあるまいとか、かれが「E」と書くときには何かを感じているのだとか言ったところで、何の役にも立たないであろう──しかも、それ以上のことをわれわれは何も言えないだろう。ところが、「感じている」とか「何かを」とかいうことばもまた、共通の言語に属している。──だから、ひとは哲学する際、ついにはいまだ不分明な音声だけを発したくなるような段階へと到達する。──しかし、そのような音声は、一定の言語ゲームの中にあってのみ、一つの表現になっているのである。いまや、その言語ゲームが記述されなくてはならない。』
    >
    > *************** 引用終わり ***************


    「E」を、西田のいう「言語に言い現すことのできない」はずの「直接経験の事実」だけを特別に指す特製の語だと解釈してみよう。するとヴィトゲンシュタインはこう言っていることになる。ーいや、しかし、その「直接経験の事実」だって、われわれの共通の言語に含まれる言葉じゃないですか。だから、初めから「直接経験の事実」という言葉が位置を持つ言語ゲームに乗っかっているんですよ。もしそれを拒否しようとするなら、あなたは最後には分節化されていない音声だけを発したくなる段階に達してしまいますよ。そして、そのときでさえ、その音声がもし何らかの意味を持つなら、それはそれが意味を持つような言語ゲームの中に位置づけられているからなのですよ。もしそうでないとしたら、恐ろしいことに、あなたの叫び声は誰にも何の意味も持たないのです。


    引用終わり
引用返信/返信 削除キー/
■7628 / inTopicNo.41)  Re[32]: 「哲学探究」Tー261
□投稿者/ パニチェ -(2020/10/10(Sat) 20:58:13)
    2020/10/10(Sat) 21:03:21 編集(投稿者)

    No7602に返信(knowing itselfさんの記事)
    「西田幾多郎 〈絶対無〉とは何か」永井均 p44〜46。ここで永井さんは上記「哲学探究」の該当箇所を引用しながら、永井=ヴィトゲンシュタイン的なものの核心を語っているように思われます。おそらく永井さんの内山興正理解はこの延長にある。仏教者二人との鼎談でズレていたのは、ヴィトゲンシュタインの永井解釈がわからないとピンとこないからだと思います。

    *************** 引用開始 ***************

    確信犯ヴィトゲンシュタインとの対決

    それゆえ西田は、デカルトが直面しなかった難問に直面していた。自分の哲学をどうして言葉で語れるのか、という問題である。彼は、この難局からどうやって脱出することができたのだろうか。
    前章の最後に私は「その後の西洋哲学史は、生の事実でない側を自立させる方向へと展開した」と書いたが、この方向の頂点に位置するのがヴィトゲンシュタインである。彼は、自分だけに起こる感覚を指す、自分にとってだけ意味を持つ語(E)というものを想定して、そういうものが言語として機能しうるかを自問し、ついにこう書いている。

    哲学探究261
    『「E」をある感覚の記号と呼ぶことに、どのような根拠があるのか。つまり、「感覚」というのは、われわれに共通の言語に含まれる語であって、わたしくしだけに理解される言語の語ではない。それゆえ、この語の慣用は、すべての人が了解するような正当化を必要とする、──だから、また、それが感覚である必要はあるまいとか、かれが「E」と書くときには何かを感じているのだとか言ったところで、何の役にも立たないであろう──しかも、それ以上のことをわれわれは何も言えないだろう。ところが、「感じている」とか「何かを」とかいうことばもまた、共通の言語に属している。──だから、ひとは哲学する際、ついにはいまだ不分明な音声だけを発したくなるような段階へと到達する。──しかし、そのような音声は、一定の言語ゲームの中にあってのみ、一つの表現になっているのである。いまや、その言語ゲームが記述されなくてはならない。』

    *************** 引用終わり ***************

    書き出してみましたが、knowing itselfさんの投稿の論旨が分かりましたと言えば嘘になります。
    私にはよく分かりませんでした。

    哲学探究261は私的言語の不可能性を語ったくだりであるとは思いますが。。。

引用返信/返信 削除キー/
■7622 / inTopicNo.42)  Re[31]: 「哲学探究」Tー261
□投稿者/ knowing itself -(2020/10/10(Sat) 19:07:46)
    >>「西田幾多郎 〈絶対無〉とは何か」永井均 p44〜46。ここで永井さんは上記「哲学探究」の該当箇所を引用しながら、永井=ヴィトゲンシュタイン的なものの核心を語っているように思われます。おそらく永井さんの内山興正理解はこの延長にある。仏教者二人との鼎談でズレていたのは、ヴィトゲンシュタインの永井解釈がわからないとピンとこないからだと思います。
    >
    > 興味あります。もし長くないなら時間のある時に引用いただければ有難いですが、もちろんスルーでも構いません。
    >
    > 哲学探究の261は。。。
    > 『「E」をある感覚の記号と呼ぶことに、どのような意味があるのか・・・・』で続く文章になりますが、これでしょうか?

    まったく同じですね。その「哲学探究261」の直前に置かれた永井さんの文章を、とりあえず今回は引用します。

    引用開始

    確信犯ヴィトゲンシュタインとの対決

    それゆえ西田は、デカルトが直面しなかった難問に直面していた。自分の哲学をどうして言葉で語れるのか、という問題である。彼は、この難局からどうやって脱出することができたのだろうか。
    前章の最後に私は「その後の西洋哲学史は、生の事実でない側を自立させる方向へと展開した」と書いたが、この方向の頂点に位置するのがヴィトゲンシュタインである。彼は、自分だけに起こる感覚を指す、自分にとってだけ意味を持つ語(E)というものを想定して、そういうものが言語として機能しうるかを自問し、ついにこう書いている。
引用返信/返信 削除キー/
■7617 / inTopicNo.43)  Re[34]: ヴィトゲンシュタイン
□投稿者/ パニチェ -(2020/10/10(Sat) 15:22:21)
    2020/10/10(Sat) 20:31:25 編集(投稿者)

    レスありがとうございます。
    今度は私がminoriさんから「気づき」を教えてもらう番ですね。
    頑固頑迷で物分かりが悪いですが、よろしくお願いします。

    No7611に返信(minoriさんの記事)
    > 「変化しない私」というのは、別の表現だとどう表されますか?

    変化する物質的なモノも現象的なモノもないから変化しようがない〈私〉と言ったところですね。

    > とてもざっくりな表現で申し訳ないのですがminoriなりに表現すると、身体内にあるのではないかと考えられる「意識」を持つ独在的存在が〈私〉。
    > それが「変化しない私」=〈私〉。
    > このように想像したのですがいかがですか?

    minoriさんには既に言うまでもないとは思いますが。。。
    半分は合ってますが半分は違います。
    それは上記は言葉にすることで万人に共通する〈私〉になってしまうからです。

    > すべてのものに対する唯一の主体という意味と、独在的な主体という意味が同じなのかがよく分からないんです。

    > ただ言えるのは、「気づき」「スクリーン」は、身体内に閉じ込められたものではないんです。
    > (パニチェさんは、意識は身体内にあるものと考えられますよね?)

    身体の内か外かと問われれば内ですが、正確には世界の外ですね。
    身体性が世界内にあると考えれば、身体の外とも言えます。

    > そもそも、」というものがない、というのが非二元でして、まさに第五図、カントの物自体の世界にも通じると思います。

    > それで・・・ほんとに、「個」はない、というのは言えるんです。
    > 机上の空論ではなく。
    > ようは、「個」はなくて、逆に連続性だけがあるのが本質としての世界だと見るわけです。

    ここ分からないのですが。。。
    「個」はなくて、逆に連続性だけがあるのが本質としての世界だと見れる理由というか根拠は何でしょうか。

    > 時間・空間、カテゴリー分けは人間の都合で利便性追求の為に考えられたものであって、それらをぶっ壊して解体した世界を見るわけです。
    > 瞑想しなくても、考察でもできますよ。

    > 「個」がある意味、幻想であるなら、意識も「個」に所属しているわけがない、だから、スクリーン、「気づき」という意識とは別の言葉で言い表すんです。

    個が幻想であるというのは仮定でしょうか、それとも何かリアルな根拠がありますか?

    > 意識っていうと、身体内にあるものと思ってしまいますから。

    その個に所属していない「気づき」と、私秘性や他の誰でもない自分の痛みを有する主体との関係性はどうなりますか?

    > 今の説明で何かしら理解していただけましたでしょうか。

    ごめんなさい、まだちょっと分かりません。

    > 西洋的自我の哲学と、今、書いた観方は、なんら矛盾することなく同席できると思います。
    > どちらから言っているのかを明確にしさえすれば。
    > ヴィトゲンシュタインは、頭の中の声は私の声 と考えていたのだと思います。
    > そうすると、頭の中の声(思考)に悩まされます。
    > しかし。そもそも「個」はない、意識も「個」に属さないとなれば、頭の中の声(思考)は、「思考が流れてきた」だけであり、その思考がくっつく主体は身体内にはない、ということで、そんなには悩まされない、ということになると思います。
    > 極端な話、人工知能が思考するぐらいの感じです。
    > もちろん、minori自身は人工知能化などしてなくて、人から良く思われたら喜んだりする人間です。(;^ω^)

    まだここまで理解は追いついてないです。^^;

引用返信/返信 削除キー/
■7611 / inTopicNo.44)  Re[33]: ヴィトゲンシュタイン
□投稿者/ minori -(2020/10/10(Sat) 14:22:13)
    No7601に返信(パニチェさんの記事)
    パニチェさん、レスありがとうございます。

    >>「変化していく連続性のない私」が「私」。
    >>「変化しない私」が〈私〉ということですよね。
    >>永井さんとパニチェさんにとって、今、私が書いたので合ってますか?
    >>同じようにヴィトゲンシュタインも考えた、というか感じたのではないか、とminoriは想像するのですが、そのあたりもいかがでしょう?

    > その通りです。
    > 「〈仏教3.0〉を哲学する」を読んでからは、どうも永井氏の〈私〉とパニチェの「比類なき先言の<私>」が同類項であるかどうか疑問に思えるところもありますが。。。^^

    「変化しない私」というのは、別の表現だとどう表されますか?

    とてもざっくりな表現で申し訳ないのですがminoriなりに表現すると、身体内にあるのではないかと考えられる「意識」を持つ独在的存在が〈私〉。
    それが「変化しない私」=〈私〉。

    このように想像したのですがいかがですか?

    >>変化しないものです。第五図の譬えとしてよく出されるスクリーンと同じ意味で「意識」という言葉を使用しています。
    >>非二元では、スクリーン、意識、気づき、というのは、「唯一の主体」の意味で同じものを表すのに使用されます。
    >
    > 了解しました。
    > スクリーン、意識、気づき、というのは「唯一の主体」とのことですが、これは〈私〉と同じく独在性的な主体ですか?

    すべてのものに対する唯一の主体という意味と、独在的な主体という意味が同じなのかがよく分からないんです。

    ただ言えるのは、「気づき」「スクリーン」は、身体内に閉じ込められたものではないんです。
    (パニチェさんは、意識は身体内にあるものと考えられますよね?)

    そもそも、「個」というものがない、というのが非二元でして、まさに第五図、カントの物自体の世界にも通じると思います。

    それで・・・ほんとに、「個」はない、というのは言えるんです。
    机上の空論ではなく。
    ようは、「個」はなくて、逆に連続性だけがあるのが本質としての世界だと見るわけです。
    時間・空間、カテゴリー分けは人間の都合で利便性追求の為に考えられたものであって、それらをぶっ壊して解体した世界を見るわけです。
    瞑想しなくても、考察でもできますよ。

    「個」がある意味、幻想であるなら、意識も「個」に所属しているわけがない、だから、スクリーン、「気づき」という意識とは別の言葉で言い表すんです。

    意識っていうと、身体内にあるものと思ってしまいますから。

    > 仮に独在性的とするなら、どのように非二元と結びつくのか、現段階のパニチェには分かりません。
    > 先にも投稿しましたが、〈私〉はこれ以上確たる存在がないほどの〈有我〉であって、一元ではあるが不二でありえません。

    今の説明で何かしら理解していただけましたでしょうか。

    西洋的自我の哲学と、今、書いた観方は、なんら矛盾することなく同席できると思います。
    どちらから言っているのかを明確にしさえすれば。

    ヴィトゲンシュタインは、頭の中の声は私の声 と考えていたのだと思います。
    そうすると、頭の中の声(思考)に悩まされます。
    しかし。そもそも「個」はない、意識も「個」に属さないとなれば、頭の中の声(思考)は、「思考が流れてきた」だけであり、その思考がくっつく主体は身体内にはない、ということで、そんなには悩まされない、ということになると思います。
    極端な話、人工知能が思考するぐらいの感じです。

    もちろん、minori自身は人工知能化などしてなくて、人から良く思われたら喜んだりする人間です。(;^ω^)
引用返信/返信 削除キー/
■7603 / inTopicNo.45)  Re[30]: 「哲学探究」Tー261
□投稿者/ パニチェ -(2020/10/10(Sat) 11:38:20)
    2020/10/10(Sat) 11:48:22 編集(投稿者)

    No7602に返信(knowing itselfさんの記事)
    > 「西田幾多郎 〈絶対無〉とは何か」永井均 p44〜46。ここで永井さんは上記「哲学探究」の該当箇所を引用しながら、永井=ヴィトゲンシュタイン的なものの核心を語っているように思われます。おそらく永井さんの内山興正理解はこの延長にある。仏教者二人との鼎談でズレていたのは、ヴィトゲンシュタインの永井解釈がわからないとピンとこないからだと思います。

    興味あります。もし長くないなら時間のある時に引用いただければ有難いですが、もちろんスルーでも構いません。

    哲学探究の261は。。。
    『「E」をある感覚の記号と呼ぶことに、どのような意味があるのか・・・・』で続く文章になりますが、これでしょうか?
引用返信/返信 削除キー/
■7602 / inTopicNo.46)  「哲学探究」Tー261
□投稿者/ knowing itself -(2020/10/10(Sat) 11:16:23)
    「西田幾多郎 〈絶対無〉とは何か」永井均 p44〜46。ここで永井さんは上記「哲学探究」の該当箇所を引用しながら、永井=ヴィトゲンシュタイン的なものの核心を語っているように思われます。おそらく永井さんの内山興正理解はこの延長にある。仏教者二人との鼎談でズレていたのは、ヴィトゲンシュタインの永井解釈がわからないとピンとこないからだと思います。


引用返信/返信 削除キー/
■7601 / inTopicNo.47)  Re[32]: ヴィトゲンシュタイン
□投稿者/ パニチェ -(2020/10/10(Sat) 10:31:17)
    minoriさん、レスありがとうございます。

    No7599に返信(minoriさんの記事)

    > 「変化していく連続性のない私」が「私」。
    > 「変化しない私」が〈私〉ということですよね。
    > 永井さんとパニチェさんにとって、今、私が書いたので合ってますか?
    > 同じようにヴィトゲンシュタインも考えた、というか感じたのではないか、とminoriは想像するのですが、そのあたりもいかがでしょう?

    その通りです。
    「〈仏教3.0〉を哲学する」を読んでからは、どうも永井氏の〈私〉とパニチェの「比類なき先言の<私>」が同類項であるかどうか疑問に思えるところもありますが。。。^^

    > 変化しないものです。第五図の譬えとしてよく出されるスクリーンと同じ意味で「意識」という言葉を使用しています。
    > 非二元では、スクリーン、意識、気づき、というのは、「唯一の主体」の意味で同じものを表すのに使用されます。

    了解しました。
    スクリーン、意識、気づき、というのは「唯一の主体」とのことですが、これは〈私〉と同じく独在性的な主体ですか?
    仮に独在性的とするなら、どのように非二元と結びつくのか、現段階のパニチェには分かりません。
    先にも投稿しましたが、〈私〉はこれ以上確たる存在がないほどの〈有我〉であって、一元ではあるが不二でありえません。

    PS.返信は急ぎませんのでお気遣いなく。^^
引用返信/返信 削除キー/
■7599 / inTopicNo.48)  Re[31]: ヴィトゲンシュタイン
□投稿者/ minori -(2020/10/10(Sat) 10:15:34)
    2020/10/10(Sat) 10:29:07 編集(投稿者)

    パニチェさん、レスありがとうございます。文章が長くなると読まれる方のスクロールも大変かなと思い、最低限だけ残させていただきました。

    ・・・・・・・・・・
    >>しかし私の根本問題は、私というものはどう定義されるのか、である。この特別なものは誰なのか?私である。しかしそれが誰なのかを示すために私は手を挙げればいいのか。──かりに私も私の周囲も絶えず変わってゆくものとすると、そこにもなお何かの連続性、それによって変わっていくものは私であり私の周囲であると言える連続性があるのだろうか。
    >>
    >>(これは、空間の中のものがすっかり変わってもなお一つだけ変わらないものがある、すなわち空間だ、と考えるのに似ていないか。)(入れるもの〔ルーム〕と間違えられた空間。)』
    >>
    >>********************************************
    >
    >>最後のあたりが主題ですよね。
    >>私や私の周囲、つまり私の身体、考え、私が見るもの、聞くもの、世界は変化していく。
    >>そこには連続性があるのだろうか?と、あります。
    >>一つだけ変わらないものって、第五図的スクリーンと同じ意味合いのもの?
    >>もしくは「意識」。 スクリーンと意識は同じですが。
    >>こんなふうに考えてみました。
    >>そして。ヴィトゲンシュタインは、「変化していく連続性のない私」と「変化しない私」の二種類の「私」を、自身のうちに感じていたのではないか、と想像します。
    >
    > 永井氏&パニチェ的には前者は「私」で後者は〈私〉です。

    「変化していく連続性のない私」が「私」。
    「変化しない私」が〈私〉ということですよね。
    永井さんとパニチェさんにとって、今、私が書いたので合ってますか?
    同じようにヴィトゲンシュタインも考えた、というか感じたのではないか、とminoriは想像するのですが、そのあたりもいかがでしょう?

    > 上記でminoriさんが言うところの意識というのは変化するものですか?それとも変化しないものですか?

    変化しないものです。第五図の譬えとしてよく出されるスクリーンと同じ意味で「意識」という言葉を使用しています。
    非二元では、スクリーン、意識、気づき、というのは、「唯一の主体」の意味で同じものを表すのに使用されます。

    > 脳が反応することで生じる意識は脳の可塑性に支配されますので、ひとつの状態が持続することはありえないものになると思いますが。。。
    > それはフッサールが言うところの志向性(意識とは何かについての意識である)であるところの意識だと思います。

    一人の人間の脳の中に閉じ込められた意識、もしくは脳でないとしても、一人の人間の中に閉じ込められた意識 として考えるなら、そのようになると思います。

    ヴィトゲンシュタインは、すべて自分の身体の中でのもの として考えていたと想像します。
    西洋的にはそれが普通だったと思いますから。それが自我を持つ一人の人間として当然というか。
    (今でこそ、非二元を扱う欧米人の哲学者というのもいますが・・・)

    > スクリーンは変化しないものの譬えだと思うので、その意味での意識とはminoriさんがよく言われる「気付き」というようなものでしょうか。

    はい。 あ、既に上に書いていますね。

    > もしそうであるなら「気付き」は変化しますか?それとも変化しないものでしょうか?

    変化しません。 
引用返信/返信 削除キー/

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