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■7846 / inTopicNo.1)  Re[40]: 語りえぬこと
  
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/16(Fri) 17:29:26)
    No7842に返信(パニチェさんの記事)
    > ■No7841に返信(たーぼーさんの記事)
    >>返信しようとするとチャイルドツリーってなって返信出来ない投稿があります。
    >>そうならない投稿もある。どうしてなんでしょうか?
    >
    > 取り急ぎ。
    > トピ投稿数がフル101になってると、その表示になります。
    > 他のトピにコピペして返信下さい。


    パニチェさん、こんにちは。
    お忙しいところありがとうございます。
    了解しました。
引用返信/返信 削除キー/
■7842 / inTopicNo.2)  Re[39]: 語りえぬこと
□投稿者/ パニチェ -(2020/10/16(Fri) 16:09:38)
    No7841に返信(たーぼーさんの記事)
    > 返信しようとするとチャイルドツリーってなって返信出来ない投稿があります。
    > そうならない投稿もある。どうしてなんでしょうか?

    取り急ぎ。
    トピ投稿数がフル101になってると、その表示になります。
    他のトピにコピペして返信下さい。
引用返信/返信 削除キー/
■7841 / inTopicNo.3)  Re[38]: 語りえぬこと
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/16(Fri) 09:39:10)
    返信しようとするとチャイルドツリーってなって返信出来ない投稿があります。
    そうならない投稿もある。どうしてなんでしょうか?

引用返信/返信 削除キー/
■7838 / inTopicNo.4)  Re[37]: 語りえぬこと
□投稿者/ knowing itself -(2020/10/16(Fri) 07:33:49)
    たーぼーさん おはようございます

    No7793に返信(たーぼーさんの記事)
    > ■No7767に返信(knowing itselfさんの記事)
    >>永井さんがいうには、言語ゲームの訳語より言語演劇のほうがしっくりくると。
    >>10代のときから周りがみんな演劇をやっているようにしかみえなかったと。
    >>
    >>大学の卒論が「言語行為の重層的演技性」。いかにもヴィトゲンシュタインにインスパイアされた題名です。
    >>
    >>演劇というのも、強烈な情動性をもった心の叫びこそが演劇だと。
    >>
    >>人間の行うすべては言語演劇である。こう言い換えたら、わかりやすくないですかね。
    >>
    >>生々しい言語演劇は語りえぬものです。他人がおおざっぱな言語的要約をしたところでかすりもしない。
    >
    >
    > プラトンがいうイデアとは、そういった人間の行う全ては言語活劇だという意味の方にある。
    > イデアとは言葉の方ではなくて言葉の意味の方にある。
    > 過去の諸々の出来事の意味の方にある。日常で起きる諸々の出来事の意味の方にある。
    > つまり意味はこの世界とは違う次元にある。

    たしかに、永井さんはプラトン的なものの対極です。言語演劇からいかに自由になるかをプラトン的に求めているのが山下さん、言語演劇で幸福になる道を求めるのご藤田さんということはいえるでしょう。永井さんは、言語演劇で幸福になるも不幸になるも、この言語演劇しかない、そのしかなさ性に哲学的にこだわる。
引用返信/返信 削除キー/
■7795 / inTopicNo.5)  stay free
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/14(Wed) 14:40:53)
引用返信/返信 削除キー/
■7794 / inTopicNo.6)  アインシュタイン
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/14(Wed) 14:24:03)
    アインシュタイン

    これが最後です。これがゴールなのです。私は神のパズルを全て説いてしまいました。アインシュタインはアインシュタインでいたいのです


    神のパズルを解くためには言語活劇の意味の方に焦点を当てるべき
引用返信/返信 削除キー/
■7793 / inTopicNo.7)  Re[36]: 語りえぬこと
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/14(Wed) 14:00:26)
    No7767に返信(knowing itselfさんの記事)
    > 永井さんがいうには、言語ゲームの訳語より言語演劇のほうがしっくりくると。
    > 10代のときから周りがみんな演劇をやっているようにしかみえなかったと。
    >
    > 大学の卒論が「言語行為の重層的演技性」。いかにもヴィトゲンシュタインにインスパイアされた題名です。
    >
    > 演劇というのも、強烈な情動性をもった心の叫びこそが演劇だと。
    >
    > 人間の行うすべては言語演劇である。こう言い換えたら、わかりやすくないですかね。
    >
    > 生々しい言語演劇は語りえぬものです。他人がおおざっぱな言語的要約をしたところでかすりもしない。


    プラトンがいうイデアとは、そういった人間の行う全ては言語活劇だという意味の方にある。
    イデアとは言葉の方ではなくて言葉の意味の方にある。
    過去の諸々の出来事の意味の方にある。日常で起きる諸々の出来事の意味の方にある。
    つまり意味はこの世界とは違う次元にある。
引用返信/返信 削除キー/
■7777 / inTopicNo.8)  Re[39]: 言語ゲーム
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/13(Tue) 20:31:45)
    No7774に返信(ななしさんの記事)
    > たーぼーさん、こんばんは。
    >
    > 真俗二諦の話、大変興味深いと思います。
    >
    > 勝義諦は、仏教において、言葉を超え、世俗・世間の判断を超えた究極的な最高の真理で仏教の目ざす悟り、涅槃を指すとウキペディアには説明がありました。
    >
    > 世俗諦・勝義諦とも,法(dharrna)全体を〈実体として存在するもの〉と規定した上で勝義諦を実体存在として別立てにし,実体存在であり分割不可能な自立的な法が勝義諦で「超越的」であるため「語りえぬもの」ということかなと思います。
    >
    > 「超越的」「超越論的」に話を戻すと、一般に、ある領域を超えてその外にあることが「超越的」で、その反対が「内在的」です。
    >
    > つまり、経験可能な領域を超え出ていること、また、それにかかわる認識、たとえば「神」とか「霊魂」にかかわる認識について「超越的」といわれる。
    >
    > これに対して、「超越論的」とは、「経験の可能性の条件にかかわる」という意味で、認識が成り立つプロセス、仕組を外部から眺める外観したらどうなのかということです。
    >
    > すると、言語ゲームは、言語活動が執り行われることを「超越論的」に外観するならば、言葉とは、話がされる場において一定のルールでプレイされるゲームのようなものです。
    > 言葉が使われる場所、場所で同じ言葉をしゃべっても意味が異なってくるからです。
    >
    > 前にパニチェさんも書かれていましたが、例えば、「私はキツネ」と突然話したら「あなたの知らない世界」のような、何か怨霊にでも取りつかれた感じがしますが、それを、蕎麦屋で話したら、注文の意味になり、何も不思議なことはありません。
    >
    > このように、言語ゲーム内での言葉であれば「超越論的」であり、一方、経験可能な領域を超え出ているものは、「超越的」であり、言語ゲームの外にあることなので「語りえぬもの」ということになるのです。
    >
    > 後者の「超越的」なものについては、ヴィトゲンシュタインは、一貫して「語りえぬもの」としていたと思います。


    ななしさん、こんばんわ。返信ありがとうございます。
    おそらくknowing itselfさんのいう非二元の会話って波動みたいなことを言ってるのだと思います。
    普通に私達が使う言語ではないと思います。
    まぁ色々な道があることは間違いないですね。

    > ■No7756に返信(たーぼーさんの記事)
    >>■No7744に返信(ななしさんの記事)
    > >>たーぼーさんの疑問は、おそらく、「超越的」と「超越論的」との違いなのかなと思います。永井氏も「語りえぬもの」を二つの種類に分けています。
    > >>
    > >>言語ゲームの「語りえぬもの」は、あくまで「超越論的」であり「超越的」ではないからです。
    >>
    >>
    >>ななしさん、初めまして。
    >>超越的なら語り得ぬものが、語り得るものになるのですか?
    >>私は言語そのものが持つ性質に限界があると思っています。
    >>つまり言語とは二元に属するツールだと思うんです。
    >>パソコンと言ったらパソコン以外を意味しない。
    >>携帯と言ったら携帯以外を意味出来ない。
    >>しかし、空とは無常であり固定しないということですよ。
    >>何処にも留まるところがないんです。
    >>ですから空とはこれこれですと、言葉で表現したそばからレッテルを貼っている(固定)ことになり間違いを犯すことになる。
    >>ではどうして世俗諦なら相違性縁起だと表現出来るかと言えば、世俗諦では自分を固定してみるから。世俗諦の見方は既に空と自分を別個のものと分けているんです。
    >>具体的には肉体に同化して空を向こうに見て二元対立の見方をすると相違性縁起になるということです。
    >>十二縁起で説明すると、無明→行→識→名色→-------
    >>名色とは、名(精神的要素)受、想、行、識   色(物質的要素)
    >>ここでおかしいと思いませんか?三番目に識があるのに四番目の名色にも識がある!
    >>この三番目の識が西田幾多郎のいう認識以前の認識=純粋認識なんです。
    >>この三番目の識は言語を越えている。言語以前の認識です。
    >>この三番目の識では相依性縁起という認識は持てないんです。
    >>四番目の名色のなかで最初に働くのは受(感受)と色(物質的要素)です。
    >>しかし、三番目の識と四番目の名色の受と色までのところは、言葉にならないところですよ。
    >>言葉という二元ツール以前のとこです。だからここまでが勝義諦ですよ。
    >>四番目の名色の想、行、識に至って相依性縁起だと認識出来るがその時にはもう空と自分を分けてる。
    >>物質の根源が物自体だと認識するのも受と色で感受したものを言葉で認識するのは想、行、識の働きがないと無理です。
    >>
    >>
    >>
    >>
引用返信/返信 削除キー/
■7775 / inTopicNo.9)  Re[39]: 言語ゲーム
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/13(Tue) 20:14:53)
    No7770に返信(knowing itselfさんの記事)
    > たーぼーさんこんばんは 横レス失礼します。
    >
    >>十二縁起で説明すると、無明→行→識→名色→-------
    >>名色とは、名(精神的要素)受、想、行、識   色(物質的要素)
    >>ここでおかしいと思いませんか?三番目に識があるのに四番目の名色にも識がある!
    >>この三番目の識が西田幾多郎のいう認識以前の認識=純粋認識なんです。
    >>この三番目の識は言語を越えている。言語以前の認識です。
    >>この三番目の識では相依性縁起という認識は持てないんです。
    >>四番目の名色のなかで最初に働くのは受(感受)と色(物質的要素)です。
    >>しかし、三番目の識と四番目の名色の受と色までのところは、言葉にならないところですよ。
    >>言葉という二元ツール以前のとこです。だからここまでが勝義諦ですよ。
    >>四番目の名色の想、行、識に至って相依性縁起だと認識出来るがその時にはもう空と自分を分けてる。
    >
    > ヴィトゲンシュタインは別として、仏教瞑想における重要なターニングポイントだと思うのでカキコミします。
    >
    > ヴィパッサナー瞑想で特に重要な関門が、四番目の名色を分離して捉える名色分離智とされています。ヴィパッサナーとは絶えずマインドフルに気づきを入れていく方法ですが、受に対する反応で名色分離智が達成されないとそれ以上深いところに進めません。
    >
    > 他方、すわりこんで無になって禅定に入ろうという禅は、たーぼーさんのいう三番目の識にいきなり入ろうとする。見性とはそういうものでしょう。
    >
    >
    > まったく正反対です!



    正反対でもいいんですよ(笑)
    みんなが見てるんだから正反対だということが分かればいいんですよ(笑)
    お互いもう人の為になる投稿をしなきゃいけない。どっちの道がいいか選ぶ参考になる。
    落ちるといわゆる身心脱落すると十二縁起の識から始まる。
    だから無明と行は前世になる。
    もう母親の子宮から生まれたんじゃなく、前世の自分が生んでるからもう輪廻はないとラジニーシの著書には書いてありました。
    太陽見ると目がやられて、月を見ると耳がやられる。
    だからknowing itselfさんの言う非二元の会話が分からないのかもしれないです。


    https://m.youtube.com/watch?v=VoMFGt94_XQ
引用返信/返信 削除キー/
■7774 / inTopicNo.10)  Re[38]: 言語ゲーム
□投稿者/ ななし -(2020/10/13(Tue) 20:12:59)
    たーぼーさん、こんばんは。

    真俗二諦の話、大変興味深いと思います。

    勝義諦は、仏教において、言葉を超え、世俗・世間の判断を超えた究極的な最高の真理で仏教の目ざす悟り、涅槃を指すとウキペディアには説明がありました。

    世俗諦・勝義諦とも,法(dharrna)全体を〈実体として存在するもの〉と規定した上で勝義諦を実体存在として別立てにし,実体存在であり分割不可能な自立的な法が勝義諦で「超越的」であるため「語りえぬもの」ということかなと思います。

    「超越的」「超越論的」に話を戻すと、一般に、ある領域を超えてその外にあることが「超越的」で、その反対が「内在的」です。

    つまり、経験可能な領域を超え出ていること、また、それにかかわる認識、たとえば「神」とか「霊魂」にかかわる認識について「超越的」といわれる。

    これに対して、「超越論的」とは、「経験の可能性の条件にかかわる」という意味で、認識が成り立つプロセス、仕組を外部から眺める外観したらどうなのかということです。

    すると、言語ゲームは、言語活動が執り行われることを「超越論的」に外観するならば、言葉とは、話がされる場において一定のルールでプレイされるゲームのようなものです。
    言葉が使われる場所、場所で同じ言葉をしゃべっても意味が異なってくるからです。

    前にパニチェさんも書かれていましたが、例えば、「私はキツネ」と突然話したら「あなたの知らない世界」のような、何か怨霊にでも取りつかれた感じがしますが、それを、蕎麦屋で話したら、注文の意味になり、何も不思議なことはありません。

    このように、言語ゲーム内での言葉であれば「超越論的」であり、一方、経験可能な領域を超え出ているものは、「超越的」であり、言語ゲームの外にあることなので「語りえぬもの」ということになるのです。

    後者の「超越的」なものについては、ヴィトゲンシュタインは、一貫して「語りえぬもの」としていたと思います。

    No7756に返信(たーぼーさんの記事)
    > ■No7744に返信(ななしさんの記事)
    >>たーぼーさんの疑問は、おそらく、「超越的」と「超越論的」との違いなのかなと思います。永井氏も「語りえぬもの」を二つの種類に分けています。
    >>
    >>言語ゲームの「語りえぬもの」は、あくまで「超越論的」であり「超越的」ではないからです。
    >
    >
    > ななしさん、初めまして。
    > 超越的なら語り得ぬものが、語り得るものになるのですか?
    > 私は言語そのものが持つ性質に限界があると思っています。
    > つまり言語とは二元に属するツールだと思うんです。
    > パソコンと言ったらパソコン以外を意味しない。
    > 携帯と言ったら携帯以外を意味出来ない。
    > しかし、空とは無常であり固定しないということですよ。
    > 何処にも留まるところがないんです。
    > ですから空とはこれこれですと、言葉で表現したそばからレッテルを貼っている(固定)ことになり間違いを犯すことになる。
    > ではどうして世俗諦なら相違性縁起だと表現出来るかと言えば、世俗諦では自分を固定してみるから。世俗諦の見方は既に空と自分を別個のものと分けているんです。
    > 具体的には肉体に同化して空を向こうに見て二元対立の見方をすると相違性縁起になるということです。
    > 十二縁起で説明すると、無明→行→識→名色→-------
    > 名色とは、名(精神的要素)受、想、行、識   色(物質的要素)
    > ここでおかしいと思いませんか?三番目に識があるのに四番目の名色にも識がある!
    > この三番目の識が西田幾多郎のいう認識以前の認識=純粋認識なんです。
    > この三番目の識は言語を越えている。言語以前の認識です。
    > この三番目の識では相依性縁起という認識は持てないんです。
    > 四番目の名色のなかで最初に働くのは受(感受)と色(物質的要素)です。
    > しかし、三番目の識と四番目の名色の受と色までのところは、言葉にならないところですよ。
    > 言葉という二元ツール以前のとこです。だからここまでが勝義諦ですよ。
    > 四番目の名色の想、行、識に至って相依性縁起だと認識出来るがその時にはもう空と自分を分けてる。
    > 物質の根源が物自体だと認識するのも受と色で感受したものを言葉で認識するのは想、行、識の働きがないと無理です。
    >
    >
    >
    >
引用返信/返信 削除キー/
■7770 / inTopicNo.11)  Re[38]: 言語ゲーム
□投稿者/ knowing itself -(2020/10/13(Tue) 17:41:42)
    たーぼーさんこんばんは 横レス失礼します。

    > 十二縁起で説明すると、無明→行→識→名色→-------
    > 名色とは、名(精神的要素)受、想、行、識   色(物質的要素)
    > ここでおかしいと思いませんか?三番目に識があるのに四番目の名色にも識がある!
    > この三番目の識が西田幾多郎のいう認識以前の認識=純粋認識なんです。
    > この三番目の識は言語を越えている。言語以前の認識です。
    > この三番目の識では相依性縁起という認識は持てないんです。
    > 四番目の名色のなかで最初に働くのは受(感受)と色(物質的要素)です。
    > しかし、三番目の識と四番目の名色の受と色までのところは、言葉にならないところですよ。
    > 言葉という二元ツール以前のとこです。だからここまでが勝義諦ですよ。
    > 四番目の名色の想、行、識に至って相依性縁起だと認識出来るがその時にはもう空と自分を分けてる。

    ヴィトゲンシュタインは別として、仏教瞑想における重要なターニングポイントだと思うのでカキコミします。

    ヴィパッサナー瞑想で特に重要な関門が、四番目の名色を分離して捉える名色分離智とされています。ヴィパッサナーとは絶えずマインドフルに気づきを入れていく方法ですが、受に対する反応で名色分離智が達成されないとそれ以上深いところに進めません。

    他方、すわりこんで無になって禅定に入ろうという禅は、たーぼーさんのいう三番目の識にいきなり入ろうとする。見性とはそういうものでしょう。


    まったく正反対です!
引用返信/返信 削除キー/
■7767 / inTopicNo.12)  Re[35]: 語りえぬこと
□投稿者/ knowing itself -(2020/10/13(Tue) 13:06:58)
    永井さんがいうには、言語ゲームの訳語より言語演劇のほうがしっくりくると。
    10代のときから周りがみんな演劇をやっているようにしかみえなかったと。

    大学の卒論が「言語行為の重層的演技性」。いかにもヴィトゲンシュタインにインスパイアされた題名です。

    演劇というのも、強烈な情動性をもった心の叫びこそが演劇だと。

    人間の行うすべては言語演劇である。こう言い換えたら、わかりやすくないですかね。

    生々しい言語演劇は語りえぬものです。他人がおおざっぱな言語的要約をしたところでかすりもしない。
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