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■6884 / inTopicNo.85)  pipitさんへ
  
□投稿者/ knowing itself -(2020/09/20(Sun) 15:05:34)
    こんにちは。引用ありがとうございます。初めて読む文章です。


    No6848に返信(pipitさんの記事)
    > 興味深かった、永井均先生の文章を引用します。
    > 出版社のサンガが発行している『サンガジャパンVol 30』という雑誌の、永井先生と禅僧のネルケ無方さんの対談に載っていました。p372より引用
    >
    > 第五図の話題の中での発言です。
    > 『永井 (略)
    > 逆に言えば、こちら側からすべてがただあるがままに見えているということですね。こっちの観点からぜんぶ見えているというのが、いわゆるマインドフルネスということですね。
    > 気づきとかサティとかヴィパッサナーとか、そういうこと。パノラマ的な世界です。

    う〜ん、永井さんヴィパッサナーを誤解されていると思います。ヴィパッサナーはあるがままに見えることではなく、見えるているものが瞬間ごとに生滅することに立ち会うことではないでしょうか。あるがままに見えることの虚偽性が見えなくちゃならない。パノラマも違うと思います。たーぼーさんじゃないけど、一点から見ることになってしまうと思います。

    > そこで体には体の補助的な役割はあると思います。
    > 体の感覚をそれとして捉えることが世界そのものをそれとして捉えることの練習みたいな、あるいは模型みたいな形で役立つ。
    > 体は大事だけど、物的な意味での体が大事なんじゃなくて、むしろ身体感覚というものの独在性が重要で、その独在性の側から世界、私秘的な世界も、この悪い繋がりの世界も、あるいは良き繋がりの世界も、ぜんぶここから見て、捉え直すことができる。
    > これは、ある意味では、いつも現にそうしていますから、そうと気づくだけで簡単にできるとも言えます。
    > しかし同時に効力があるんですね、そこに立ち戻るだけで。
    > 内山老師はある時、ある点では、間違いなくそれを掴んで、世界像と効力の両方を、その繋がりを掴んだのだろうと思います。「一切分の一切」とか「見渡す限りの自己」とか。(略)』

    永井〈私〉哲学を瞑想でそのまま実践されているという感じですね。永井さんならこうなると思います。

    > ■No6752に返信(knowing itselfさんの記事)
    >>第五図というのは、坐禅する身体の上に第四図がそのまま乗っかっています。第四図が単に反面教師的な貪りの人生の寓意ではなく、純粋理性批判における感性と悟性による共同作業を漫画化したと読めるなら、坐禅する身体も、認識を触発する究極の源泉としての物自体とみる方が面白いと思う。第五図の本体が坐禅する身体なら、第四図と結局は同じになる。<
    >
    > 永井先生も、knowing itselfさんと同じ捉え方なのかな?

    違うと思います。藤田一照さんや山下良道さんとも、明らかに永井さんの瞑想は違いますね。


引用返信/返信 削除キー/
■6870 / inTopicNo.86)  第五図について
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/20(Sun) 11:36:27)
    2020/09/20(Sun) 11:54:03 編集(投稿者)

    こんにちは、knowing itselfさん。
    以下は興味本位からものものであり議論を目的としたものではなく、他意のない質問です。

    No6855に返信(knowing itselfさんの記事)
    > 前にもいっていますがカント哲学の仏教バージョンも十分ありかなと思うのは、物自体が涅槃だとして、人間が涅槃に帰属していることの唯一の証しは、生きとし生けるものへの無条件の慈悲の念を発するときと置き換えることは?否定することが逆に困難?少なくとも、生きとし生けるものへの慈悲なしに涅槃に入ろうとすることは虫がよすぎるとはいえそう。

    良道さんは第五図の主体を超越的としているのに対して、一照さんは超越論的としています(バージョンUP170〜P171)。

    上記のレスからするとknowing itselfさんも第五図の主体は超越的と解釈されているということでしょうか。

    ちなみに第五図はともかく、パニチェにとって〈私〉は超越論的存在であることは確かです。
引用返信/返信 削除キー/
■6856 / inTopicNo.87)  Re[7]: 第五図の認識についての差異
□投稿者/ たーぼー -(2020/09/19(Sat) 22:42:02)
    No6847に返信(knowing itselfさんの記事)
    > 夢ひとつみない完全熟睡状態であることに、その場で気づける状態X。
    > その同じXの上に第四図が乗っかっていることを認識する。第五図の認識をこのように捉えているのが山下良道さんだと思います。藤田一照さんとは明確に違います。
    >
    > Xというのは仏教用語では涅槃になるでしょう。

    違いますね。 藤田一照さんは普通の仏教者だと思います。
    藤田一照さんの会にも入ってるけど、私の感覚に近いです。
    道が涅槃であるという考えで、それはそれでいいと思うけど違う本を読みたい感じです。
    私が今思ってるのは、各自の仏教者がバラバラに涅槃を主張してて何が涅槃なのかわからないんですよ(笑)
    一体何処がゴールなんだよと(笑)
    藤田さんは曹洞宗だから、あまり奇抜なこと言ったりやったり出来ないのかもしれませんね。
    山下良道さんは、曹洞宗と喧嘩して海外あちこち放浪して自分のスタイルを作り上げたそうです。
    涅槃の解釈としてあるのは、その二個だけですか?
引用返信/返信 削除キー/
■6855 / inTopicNo.88)  慈悲の念と涅槃
□投稿者/ knowing itself -(2020/09/19(Sat) 21:51:31)
    前にもいっていますがカント哲学の仏教バージョンも十分ありかなと思うのは、物自体が涅槃だとして、人間が涅槃に帰属していることの唯一の証しは、生きとし生けるものへの無条件の慈悲の念を発するときと置き換えることは?否定することが逆に困難?少なくとも、生きとし生けるものへの慈悲なしに涅槃に入ろうとすることは虫がよすぎるとはいえそう。
引用返信/返信 削除キー/
■6853 / inTopicNo.89)  knowing itselfさんへ
□投稿者/ pipit -(2020/09/19(Sat) 21:45:03)

    > 第五図であることを覚知した方が、第四図でもラクになれるということだと思います。
    >
    > 第四図がすべてと思うのが苦悩や葛藤の根源だと。<

    了解です、納得できます、
    いつも本当にありがとうございます (^人^)
引用返信/返信 削除キー/
■6852 / inTopicNo.90)  pipitさんへ
□投稿者/ knowing itself -(2020/09/19(Sat) 21:39:26)
    返信ありがとうございます。

    > どんなひどい第四図を作ってる人でも、本当は、第五図だよ、ってことで、
    > でも、自己が第五図であることを覚知すべき、というのが山下先生の説いているところなのでしょうか?

    第五図であることを覚知した方が、第四図でもラクになれるということだと思います。

    第四図がすべてと思うのが苦悩や葛藤の根源だと。
引用返信/返信 削除キー/
■6851 / inTopicNo.91)  Re[4]: たーぼーさんへ
□投稿者/ たーぼー -(2020/09/19(Sat) 21:37:50)
    No6843に返信(knowing itselfさんの記事)
    > 夢をまったくみない完全熟睡状態を想定してみます。それに対して目ざめて活動している日常があります。見性や悟りを前者に喩えることはよく行われると思います。ただ、夢ひとつみない熟睡状態にいたことは、覚めてみないとわからないといわれるでしょう。
    >
    > 他方、第五図のときに第五図を認識できるというのは、夢をまったくみない完全熟睡状態のときに、そのことに気づけることだと。山下良道さんはこの立場だと思います。当然のことながら、同意している人は極めて少数でしょう。
    >
    > この主張は、「仏教3・0を哲学するバージョンU」でもいわれています。この本はカント哲学とも関係しています。


    knowing itselfさん、ありがとうございますmom
    私も仏教界にそんなに詳しいわけではないですが、少数派のスタンスであることは間違いないと思います。
    面白そうだ(笑)
    当たり前の本なんかつまらない。バージョン2ですね。早速注文します。


引用返信/返信 削除キー/
■6850 / inTopicNo.92)  knowing itselfさんへ
□投稿者/ pipit -(2020/09/19(Sat) 21:30:43)
    返信ありがとうございます。m(_ _)m

    No6847に返信(knowing itselfさんの記事)
    > 夢ひとつみない完全熟睡状態であることに、その場で気づける状態X。
    > その同じXの上に第四図が乗っかっていることを認識する。第五図の認識をこのように捉えているのが山下良道さんだと思います。藤田一照さんとは明確に違います。
    >
    > Xというのは仏教用語では涅槃になるでしょう。

    どんなひどい第四図を作ってる人でも、本当は、第五図だよ、ってことで、
    でも、自己が第五図であることを覚知すべき、というのが山下先生の説いているところなのでしょうか?
引用返信/返信 削除キー/
■6849 / inTopicNo.93)  Re[3]: たーぼーさんへ
□投稿者/ たーぼー -(2020/09/19(Sat) 21:27:35)
    No6842に返信(pipitさんの記事)
    > すみません、公案の文章などが難しくて、わかりませんでしたが、
    > もしかして、牛の尻尾が世俗と思われてるのかな?
    >

    Pipitさん、こんばんわ。

    いや牛の尻尾が世俗だとは思っていません。
    公案の答えを公の掲示板に書くわけにいかないけども、牛の尻尾を
    差し障りないように言えば仏教ドラマの第一話と第二話の境目だと思います。

引用返信/返信 削除キー/
■6848 / inTopicNo.94)  knowing itselfさんへ
□投稿者/ pipit -(2020/09/19(Sat) 21:23:46)
    興味深かった、永井均先生の文章を引用します。
    出版社のサンガが発行している『サンガジャパンVol 30』という雑誌の、永井先生と禅僧のネルケ無方さんの対談に載っていました。p372より引用

    第五図の話題の中での発言です。
    『永井 (略)
    逆に言えば、こちら側からすべてがただあるがままに見えているということですね。こっちの観点からぜんぶ見えているというのが、いわゆるマインドフルネスということですね。
    気づきとかサティとかヴィパッサナーとか、そういうこと。パノラマ的な世界です。
    そこで体には体の補助的な役割はあると思います。
    体の感覚をそれとして捉えることが世界そのものをそれとして捉えることの練習みたいな、あるいは模型みたいな形で役立つ。
    体は大事だけど、物的な意味での体が大事なんじゃなくて、むしろ身体感覚というものの独在性が重要で、その独在性の側から世界、私秘的な世界も、この悪い繋がりの世界も、あるいは良き繋がりの世界も、ぜんぶここから見て、捉え直すことができる。
    これは、ある意味では、いつも現にそうしていますから、そうと気づくだけで簡単にできるとも言えます。
    しかし同時に効力があるんですね、そこに立ち戻るだけで。
    内山老師はある時、ある点では、間違いなくそれを掴んで、世界像と効力の両方を、その繋がりを掴んだのだろうと思います。「一切分の一切」とか「見渡す限りの自己」とか。(略)』


    No6752に返信(knowing itselfさんの記事)
    > 第五図というのは、坐禅する身体の上に第四図がそのまま乗っかっています。第四図が単に反面教師的な貪りの人生の寓意ではなく、純粋理性批判における感性と悟性による共同作業を漫画化したと読めるなら、坐禅する身体も、認識を触発する究極の源泉としての物自体とみる方が面白いと思う。第五図の本体が坐禅する身体なら、第四図と結局は同じになる。<

    永井先生も、knowing itselfさんと同じ捉え方なのかな?
    パノラマ的、という言葉を出されてましたね
引用返信/返信 削除キー/
■6847 / inTopicNo.95)  第五図の認識についての差異
□投稿者/ knowing itself -(2020/09/19(Sat) 21:19:36)
    夢ひとつみない完全熟睡状態であることに、その場で気づける状態X。
    その同じXの上に第四図が乗っかっていることを認識する。第五図の認識をこのように捉えているのが山下良道さんだと思います。藤田一照さんとは明確に違います。

    Xというのは仏教用語では涅槃になるでしょう。
引用返信/返信 削除キー/
■6846 / inTopicNo.96)  pipitさんへ
□投稿者/ knowing itself -(2020/09/19(Sat) 21:11:50)
    こんばんは

    >>永井さんによると、カントが「純粋理性批判」で使った考え方を借用して、内山興正は第四図を捉えているそうです。私見では、現象はすべて第四図だと思います。<
    >
    > 内山さんの文章で、第五図について、
    > 『この『自己』は、さきにいったような、アタマの展開した舞台のうえに、わが生命をただその一員として投げ込んでしまっている『たんなる人間としての自分』(第四図(A)(B))とは区別きておかねばなりません。』
    > (『〈仏教3.0〉を哲学する』p113より引用)
    > とあるそうですね。
    > 第四図は全て現象であり、自己も、時間空間に規定される現象として、一員として、投げ込んでいる。
    >
    >
    >
    >>第五図=物自体といっているのはわたしだけかもしれません。現象では捉えきれないより基底にある存在様式といえば、物自体しかないので、第五図=物自体でいいと考えます。
    >>物自体であれば、身体の部分がそれであることはありません。よって第五図=物自体であれば、身体と同一化できないなんらかの意識になると思います。<
    >
    > そうかぁ、
    > 頭の中の現象も合わせて肯定されてるのが、第五図なんですね。
    > 意識とか青空とか気づきとかスクリーンとか呼ばれてるものなのかなぁ。

    第四図が肯定されているというより、第四図が乗っかっている本体のいのち(第五図)をつかみさえすれば、アタマの中である第四図の内容はどうであろうと第五図が否定されることはない、というのが山下良道さんの考えだと思います。

    > それで、たーぼーさんが紹介してくださったポッドキャストで、山下さんが、柱も悟り、みたいな表現をされてたのかな、と思いました。
    >
    >
    >>第五図が物自体なら、物自体は感性と悟性の共同作業である認識の対象になることは不可能だというのかカントですね。善意志によって第五図が変わるのではなく、善意志だけが第五図から直接発しているのだと考えています。<
    >
    > knowing itselfさんがそうお考えになられてること、了解しました。
    > (って、誤解してたらすみませんm(_ _)m)

    カントがそう考えているだろうとknowing itselfは考えています。
引用返信/返信 削除キー/

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