| こんばんは
>>永井さんによると、カントが「純粋理性批判」で使った考え方を借用して、内山興正は第四図を捉えているそうです。私見では、現象はすべて第四図だと思います。< > > 内山さんの文章で、第五図について、 > 『この『自己』は、さきにいったような、アタマの展開した舞台のうえに、わが生命をただその一員として投げ込んでしまっている『たんなる人間としての自分』(第四図(A)(B))とは区別きておかねばなりません。』 > (『〈仏教3.0〉を哲学する』p113より引用) > とあるそうですね。 > 第四図は全て現象であり、自己も、時間空間に規定される現象として、一員として、投げ込んでいる。 > > > >>第五図=物自体といっているのはわたしだけかもしれません。現象では捉えきれないより基底にある存在様式といえば、物自体しかないので、第五図=物自体でいいと考えます。 >>物自体であれば、身体の部分がそれであることはありません。よって第五図=物自体であれば、身体と同一化できないなんらかの意識になると思います。< > > そうかぁ、 > 頭の中の現象も合わせて肯定されてるのが、第五図なんですね。 > 意識とか青空とか気づきとかスクリーンとか呼ばれてるものなのかなぁ。
第四図が肯定されているというより、第四図が乗っかっている本体のいのち(第五図)をつかみさえすれば、アタマの中である第四図の内容はどうであろうと第五図が否定されることはない、というのが山下良道さんの考えだと思います。
> それで、たーぼーさんが紹介してくださったポッドキャストで、山下さんが、柱も悟り、みたいな表現をされてたのかな、と思いました。 > > >>第五図が物自体なら、物自体は感性と悟性の共同作業である認識の対象になることは不可能だというのかカントですね。善意志によって第五図が変わるのではなく、善意志だけが第五図から直接発しているのだと考えています。< > > knowing itselfさんがそうお考えになられてること、了解しました。 > (って、誤解してたらすみませんm(_ _)m)
カントがそう考えているだろうとknowing itselfは考えています。
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