| たーぼーさん こんにちは
> 私は心解脱は内山図に照らし合わせると第五図ではなく、第七図だと思います。 > 仏教3.0バージョン2には第六図までしかないですが、心解脱はその先だと思ってます。
内山図はあくまでも単純なモデルであって、それだけで仏教のすべて、奥深さ、微妙なところを語り尽くすことは難しいでしょうね。その先はもちろんあると思います。
> 主客のない意識で淡々と第四図を見ることが出来るというけど、見てるのは誰なのかというのがやっぱり分からない。 > それは第五図のところで第五図が認識出来ることがわからないのと同じで、私の感覚ではやはり忘我になるはずで、そこでは認識出来ないはずです。
ここが仏教3・0の最大のポイント・難所だと思います。仏教3・0が批判されたり、攻撃されるのもここの理解が難しいからですね。以下わたしなりに理解した範囲でカキコミします。
忘我が基本であることは確かだと思います。浅い日常的な自我はどっかに消えてしまう体験がなければはじまらないですね。ただ、その忘我の中でも働いていた主体と日常に戻ってきたときの主体がまったく同じ主体だという、そういう意味もあると思っています。普通人が日常で生きるときは自我の殻で覆われていて、瞑想の時の深い体験とは別の主体としか思えないものですが、実は同じ主体なんだと。 第五図体験で、精神と身体が消滅してもなお働いている意識があることがわかれば、人間としての肉体寿命が死によって終わりを迎えても、第五図意識は死ぬことがないことに納得できる。人間としての肉体寿命に張り付いてそれと運命を共にするしかないのが、第四図ということだと思います。第五図と第四図の二重構造ですね。
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