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■7099 / inTopicNo.25)  knowing itselfさんへ
  
□投稿者/ pipit -(2020/09/26(Sat) 17:15:13)
    ありがとうございます!

    バージョン2、読んでみようと思いました p(^_^)q
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■7093 / inTopicNo.26)  Re[20]: たーぼーさんへ
□投稿者/ knowing itself -(2020/09/26(Sat) 15:44:23)
    たーぼーさん こんにちは

    > 私は心解脱は内山図に照らし合わせると第五図ではなく、第七図だと思います。
    > 仏教3.0バージョン2には第六図までしかないですが、心解脱はその先だと思ってます。

    内山図はあくまでも単純なモデルであって、それだけで仏教のすべて、奥深さ、微妙なところを語り尽くすことは難しいでしょうね。その先はもちろんあると思います。

    > 主客のない意識で淡々と第四図を見ることが出来るというけど、見てるのは誰なのかというのがやっぱり分からない。
    > それは第五図のところで第五図が認識出来ることがわからないのと同じで、私の感覚ではやはり忘我になるはずで、そこでは認識出来ないはずです。

    ここが仏教3・0の最大のポイント・難所だと思います。仏教3・0が批判されたり、攻撃されるのもここの理解が難しいからですね。以下わたしなりに理解した範囲でカキコミします。

    忘我が基本であることは確かだと思います。浅い日常的な自我はどっかに消えてしまう体験がなければはじまらないですね。ただ、その忘我の中でも働いていた主体と日常に戻ってきたときの主体がまったく同じ主体だという、そういう意味もあると思っています。普通人が日常で生きるときは自我の殻で覆われていて、瞑想の時の深い体験とは別の主体としか思えないものですが、実は同じ主体なんだと。
    第五図体験で、精神と身体が消滅してもなお働いている意識があることがわかれば、人間としての肉体寿命が死によって終わりを迎えても、第五図意識は死ぬことがないことに納得できる。人間としての肉体寿命に張り付いてそれと運命を共にするしかないのが、第四図ということだと思います。第五図と第四図の二重構造ですね。




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■7091 / inTopicNo.27)  pipitさんへ
□投稿者/ knowing itself -(2020/09/26(Sat) 15:09:16)
    こんにちは

    > たーぼーさんとの対話、興味深く拝見してます
    > カント関係なくても、ご自由に対話されてくださいね(^ ^)
    >
    > バージョン2に、永井先生のカントについての記述があるなら、買おうかな〜
    >
    > knowing itselfさんは、把握力がすごいですね。
    >
    > 私はカントの幅広さに、少々疲れ気味です(^_^;)

    ありがとうございます。

    この鼎談本は、朝日カルチャーセンターの鼎談を本にしたものだそうですが、永井さんは実際の喋りに対して大幅な加筆、推敲を加えているそうです。出席していた藤田さんと山下さん、聴衆の方、その場では理解できなかったと思います。さすがの藤田さんにもその旨の発言がありました。本というメディアの長所、利点ですね。ゆっくり納得できるまで読み返せるわけです。仏教3・0とカント哲学の関係について理解するためには、読む価値が大いにあると思います。なんといっても、こんなことを言う人は永井さんしかいませんから。永井さんは哲学の教授を40年くらいやっているので、カント読書会は何度かやっているはずで、カント理解の基本は当然押さえているでしょう。
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■7088 / inTopicNo.28)  Re[22]: たーぼーさんへ
□投稿者/ たーぼー -(2020/09/26(Sat) 13:21:23)
    <一照さんが言うように〈私〉(第五図の主体)が「私」(第四図の「私」)に作用することで慈悲が芽生えるということならパニチェ的には理解できるのですが、第五図が慈悲の根拠となるというところは、もし第五図が〈私〉とイコールであるとするなら違和感があります。〈私〉は無色透明(無覆無記)、あるいは有覆無記だと現時点では思っていますので。。。。


    これパニチェさんの書き込みだけど、私は両方分かりますよ。
    八正道の正見はまさにこれ。智慧です。↓

    一照さんが言うように〈私〉(第五図の主体)が「私」(第四図の「私」)に作用することで慈悲が芽生えるということならパニチェ的には理解できるのですが


    第五図が慈悲の根拠となるというところは、もし第五図が〈私〉とイコールであるとするなら違和感があります

    これはそこから更に進んだところです。↑
    見性がこれに当たる。見性して第五図が<私>とイコールになる。

    更に言うと、山下さんのいう第五図で外に出ないとこれは分からないと思います。↓
    外に出ると本当に体が無色透明になる。
    〈私〉は無色透明(無覆無記
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■7057 / inTopicNo.29)  Re[21]: たーぼーさんへ
□投稿者/ たーぼー -(2020/09/26(Sat) 06:07:34)
    第五図が慈悲そのものだから、第五図に触れただけで慈悲が涌き出てくるんです。
    第四図の自分の意思とは全く無関係に頬が綻ぶような慈悲。
    ですから第五図に入ると、とてつもない慈悲と至福感に包まれる。
引用返信/返信 削除キー/
■7055 / inTopicNo.30)  Re[20]: たーぼーさんへ
□投稿者/ たーぼー -(2020/09/26(Sat) 06:01:20)
    <沈黙・静寂が沈黙・静寂を聴く。これがデフォルト。完全なる沈黙・静寂を聴ければ、音がある状態を聴くことはわけがない

    日本にヨーガを伝えた中村天風さんという方がいます。
    もう亡くなっているけど、その天風さんが若い頃結核にかかり、当時はまだ医療が整ってなくて結核が不治の病だったんですが、ひょんなことからヒマラヤでインドの大聖者のカリアッパ師について修行して結核を治したという話があります。
    その中村天風さんが天の声とは何かと聞かれ、[天の声とは絶対の静寂(しじま)である]
    と言ったそうです。正見とはこれだと思います。
    中々八正道の本質が伝わらないのは、この正見の真意が分かりにくいのがあると思う。
    第四図にいながら第五図から智慧を降ろしてくるのが正見であり、そこに慈悲もある。
    中村天風さんの[ヨーガに生きる]という本は名著なので機会があれば皆さん読んでみてください。
引用返信/返信 削除キー/
■7054 / inTopicNo.31)  Re[19]: たーぼーさんへ
□投稿者/ たーぼー -(2020/09/26(Sat) 04:46:37)
    No7028に返信(knowing itselfさんの記事)

    おはようございます


    > 説得力のあるご説明だと思います。ご説明の内容を前提として、第四図と第五図に関連づけをすると、心解脱は第五図ということでしょうか。山下さんの第五図の理解は、すべての想念と身体感覚が抜け落ちて、第五図の中なる第四図が真っ白になった状態だそうです。それを経験した後なので、第四図に映像が映ったとしても、主客の対立のない意識で淡々と第四図を観ることができる。
    >


    私は心解脱は内山図に照らし合わせると第五図ではなく、第七図だと思います。
    仏教3.0バージョン2には第六図までしかないですが、心解脱はその先だと思ってます。
    主客のない意識で淡々と第四図を見ることが出来るというけど、見てるのは誰なのかというのがやっぱり分からない。
    それは第五図のところで第五図が認識出来ることがわからないのと同じで、私の感覚ではやはり忘我になるはずで、そこでは認識出来ないはずです。
    バージョン2の藤田、山下、永井の三氏の中では、私が感覚的に一番共感出来るのは山下さんですが、そこが分からない。
    山下さんが第五図で外に出るという言葉に藤田さんが違和感を持ってて、かなり長いページそれでやり合っていますが、私は山下さんの出るというニュアンスはとても良く分かります。
    第五図自体が慈悲であるという山下さんの言葉も共感出来ます。
    第五図は慈悲と智慧の源泉だと思います。
    永井さんが第五図は憎悪でもいいとか言ってましたが、全くトンチンカンな発言だと思います。
    こんな発言が出るということは永井さんは第五図に入ってないと思う。
    もう一つ分からないのは第五図というのは、点だと思ってて第五図に入ると忘れようとしなくても自然に自己を忘れてしまって第六図にいってしまうと思います。
    第五図で止まっているというのが分からない。
    自分を忘れようと意図しなくても勝手に忘れて忘我になってしまう。
引用返信/返信 削除キー/
■7045 / inTopicNo.32)  Re[29]: 生は認識の実験である
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/25(Fri) 20:23:31)
    こんばんは、ピピットさん。

    No7035に返信(pipitさんの記事)
    > パニチェさん、こんばんは〜

    >>パニチェかく語りき「生は認識の実験である。そしてこの実験は失敗はない。」なんちゃって。^^

    > パニチェさんの、前半にめっちゃ同意します!!
    > 後半は、目的を設置すると成功失敗がでてきてしまうのかもですね〜
    > パニチェさんは、前向きですね〜 (^ ^)

    ありがとうございます。

    No7038に返信(pipitさんの記事)

    > 何も置かなかったら、方向もないか〜
    > 禅ってそんなかんじなのかな〜
    > 予想つかない風景だな〜

    認識の実験は失敗しようがないと思います。
    どのような認識であっても我が認識していることに変わりないのですから。。。
    誤謬でも錯覚でも認識の実験は成功です。^^

    認識とは自己の世界を創造することであ〜る!なんちゃって(笑)。

引用返信/返信 削除キー/
■7043 / inTopicNo.33)  Re[20]: 記憶
□投稿者/ pipit -(2020/09/25(Fri) 20:14:21)
    悪魔ちゃん、こんばんは (^ ^)

    > 記憶には二つあると思ってる。
    > 短期記憶と長期記憶。
    >
    > フッサールのいう内的時間意識―〈過去把持―原印象―未来予持〉―は〈今〉ので、これにかかわる記憶は短期記憶。〈想起−予期〉はにかかわる記憶は長期記憶。
    > こんな感じ。
    >
    > エピソード記憶っていうの、3歳ぐらいからみたいだし、認知症で問題となっているのは短期記憶の方みたい。<

    記述、ありがとう。
    きっと、これから見る情報とかに対する、アンテナになると思う。



    > >メルロさんの言説読むとき、悪魔ちゃんどうなってる?ほんとかな?って、自分の体験見ない?<
    > わたしもそう思いながら読んでるよ。
    > ん〜、そだな〜、っていうところもあるけど、ん〜、そうなのかな〜?みたいな感じで。<

    答えてくれて嬉しいよ。
    興味あったん。
    自分のことしかわからないから、悪魔ちゃんはどうなんかなあ?って。
    ヤスパース哲学好きの宿題さんは、どうなんだろうね (o^^o)
    いろんな読み方があるのかなあ、それともみんな基本的に一緒なんかなあ?


    > >生存欲が認識を創造する<
    > 生存欲にかぎらず、「欲」がないと能動が発動しないんじゃないかって、わたしも思ってるよ。<

    あーおもしろいね、能動、かぁ。




    > わたし「欲望」っていうの、〈したい〉っと〈のぞみ〉って見てる。
    > アリストテレスの『形而上学』に、【すべての人間は、生まれつき、知ることを、欲する】って書いてある(あ、前にも書いたっけ?)。わたし、これ、そうだな〜、って思う。「知ることを欲する」よね。〈知りたい〉っていう欲望。しかも、「生まれつき」にね。<

    うん、多分生まれ落ちたときから、そうやね。知ることに対する欲が起動してそうやわ。


    > 「性欲」っていうのあるよね。これないと人間、存在しなくなちゃうんじゃない?
    > 性欲を否定する人、その人も性欲によって存在できてるはずなのに、そういう人、自分自身の存在を否定すべき、っていう信念なんじゃないかしら?生については語ろうとしないよね。<

    宗教や教義体系によって、それぞれの理由があって、一面的には捉えられないかもだけどね。



引用返信/返信 削除キー/
■7039 / inTopicNo.34)  Re[20]: 善意志
□投稿者/ pipit -(2020/09/25(Fri) 19:59:28)
    knowing itselfさん、こんばんは!
    たーぼーさんとの対話、興味深く拝見してます
    カント関係なくても、ご自由に対話されてくださいね(^ ^)

    バージョン2に、永井先生のカントについての記述があるなら、買おうかな〜

    knowing itselfさんは、把握力がすごいですね。

    私はカントの幅広さに、少々疲れ気味です(^_^;)



    No7032に返信(knowing itselfさんの記事)
    > こんばんは。
    >
    > 見えないものと見えるものだったら、カントはやはり見えないものに価値を置く派でしょうか。
    >
    > 例えば、意志として不純なものをもっていた人間が巨大な慈善事業に成功して、挙句はノーベル平和賞をもらったとします。一方、100パーセントの善意志をもって行動を始めたのに一日で倒れて失敗し、死後誰からも忘れてしまった人間がいるとする。物自体にいたことが確証されたのは後者だと思う。カントからすると。
引用返信/返信 削除キー/
■7038 / inTopicNo.35)  Re[29]: 生は認識の実験である
□投稿者/ pipit -(2020/09/25(Fri) 19:54:29)

    > パニチェさんは、前向きですね〜 (^ ^)

    何も置かなかったら、方向もないか〜

    禅ってそんなかんじなのかな〜
    予想つかない風景だな〜
引用返信/返信 削除キー/
■7036 / inTopicNo.36)  Re[19]: 記憶
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/09/25(Fri) 19:50:46)
    ■7013、pipitさんへ

    記憶には二つあると思ってる。
    短期記憶と長期記憶。

    フッサールのいう内的時間意識―〈過去把持―原印象―未来予持〉―は〈今〉ので、これにかかわる記憶は短期記憶。〈想起−予期〉はにかかわる記憶は長期記憶。
    こんな感じ。

    エピソード記憶っていうの、3歳ぐらいからみたいだし、認知症で問題となっているのは短期記憶の方みたい。

    >メルロさんの言説読むとき、悪魔ちゃんどうなってる?ほんとかな?って、自分の体験見ない?<
    わたしもそう思いながら読んでるよ。
    ん〜、そだな〜、っていうところもあるけど、ん〜、そうなのかな〜?みたいな感じで。

    >生存欲が認識を創造する<
    生存欲にかぎらず、「欲」がないと能動が発動しないんじゃないかって、わたしも思ってるよ。
    わたし「欲望」っていうの、〈したい〉っと〈のぞみ〉って見てる。
    アリストテレスの『形而上学』に、【すべての人間は、生まれつき、知ることを、欲する】って書いてある(あ、前にも書いたっけ?)。わたし、これ、そうだな〜、って思う。「知ることを欲する」よね。〈知りたい〉っていう欲望。しかも、「生まれつき」にね。

    「性欲」っていうのあるよね。これないと人間、存在しなくなちゃうんじゃない?
    性欲を否定する人、その人も性欲によって存在できてるはずなのに、そういう人、自分自身の存在を否定すべき、っていう信念なんじゃないかしら?生については語ろうとしないよね。






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