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■10870 / inTopicNo.73)  超越論的
  
□投稿者/ pipit -(2021/02/07(Sun) 22:50:19)
    いろんな意見があると推測されるけど、『超越論的』についての見解の一つとして、wikiの『超越論哲学』から抜粋引用するね。

    wikiより
    『「超越論的」(独:Transzendental、英:transcendental)という語彙は、「超越的」(独:Transzendent、英:transcendent)との対で考えると、分かりやすくなる。

    「超越的」(独:Transzendent、英:transcendent) - 「超越論的」(独:Transzendental、英:transcendental)
    西洋の哲学史においては、古代ギリシャのピタゴラス教団・エレア派(総じて「イタリア学派」)・プラトン以来、本質存在・真実存在は、知覚・経験の対象とはならない、それらを超えたもの、すなわち「超越的」なものであるという考え方が、主流の一角を占めてきた。

    (もちろん、「この世の摂理は人智を超える、神々のみぞ知る」といった発想自体は、(他の地域と同様に)哲学の登場以前、神話の時代から脈々と継承されてきた発想である。)

    これらの哲学者達は、こうした知覚・経験を超えた「超越的」な真実在には、理性・論理・数学などによってのみ接近・到達できると考えていた。

    こうした古代ギリシャ特有の「理性主義」「論理主義」的発想・作法は、キリスト教文化との混交・融合によって、中世の神学(スコラ学)へと受け継がれ、更には近代哲学の大陸合理論にも継承されるが、そもそも根拠となる「理性」自体の規定が曖昧なため、そこで生み出される認識内容は「独断論」のそしりを免れないものであった。また他方で、経験に依拠するイギリス経験論においては、端から経験を超えた「超越的」な真実在についての認識など期待できるはずもなく、ヒュームの懐疑論に至ってそれは決定的なものとなった。

    こうした状況を目の当たりにしたカントは、「理性自体の吟味・批判」を通じて、「人間の適正な理性的認識は、どこまで可能なのか」「人間の理性は、経験を超えた(先験的な)「超越的」真実在(すなわち物自体)と、どのように関わるべきなのか、関わり得るのか」についての、境界策定・基準設定(メタ規定)を行うことで、「超越的」なものに対する考察・関与(すなわち形而上学)の余地を、適正な形で復興しようと試みた。これがカントの「批判哲学」であり、「超越論哲学」(先験哲学)である。

    したがって、ここでいう「超越論的」(独:Transzendental、英:transcendental)哲学という表現は、

    「経験を超えた(先験的な)「超越的」真実在(すなわち物自体)- にまつわる適正な理性関与 (- の境界策定・基準設定(メタ規定)) - についての、事前的な/先行的な/自覚的な」
    哲学ということであり、「超越(についての)≪前提≫論的」「超越(についての)≪メタ≫論的」等とも言い換えることができる。』

    少なくもと『純粋理性批判』においては、先天的総合判断が可能となる原因を神様とか言ってないみたいだよ。
    なんでそうなってるのかわからないところは、わからない、としてるみたい。

    なんでそうなってるのか、を、考えるのは、理性だね。

    理性を批判(吟味)してるのが、純粋理性批判みたいだね。




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■10869 / inTopicNo.74)  アプリオリな総合判断
□投稿者/ pipit -(2021/02/07(Sun) 22:24:12)
    No10858
    悪魔ちゃん、こんばんは

    >わたしひとまず[a priori]を「先天的」ってしとくけど、どうやらカントが使ってるのは[a priori]じゃなくて、[transzendental]みたい。だから「《先天的》総合判断」じゃなくて「超越論的総合判断」って訳した方がいいのかもね。で、「a priori先天的」と「transzendental超越論的」とを区別することにした。わたし前者の方で見てきてたみたい。<

    多分だけど、先天的総合判断と訳されてるところは、
    カントの言葉としても、アプリオリが使用されてると思うよ。
    コトバンクさんの記述では、【synthetisches Urteil a priori】とされてるね。多分、カントの原文から引用されてると思ってるんだけど。

    コトバンクさんの『先天的総合判断』から引用するね。

    [カント]
     カントは合理論と経験論の争点となった諸問題を深く考察し,近世における認識問題の解釈としては決定的ともいえる緊密な理論体系を築いた。カント認識論の根本課題は〈先天的総合判断synthetisches Urteil a prioriはいかにして可能であるか〉という問いに要約されている。平易に述べなおせば,なんらかの仕方で経験と実在にかかわり,しかも〈知識〉の名に値する普遍的・必然的な判断はいかにして成立するのか,またその客観的妥当性すなわち実在との適合性はどのように立証されるのか,というのがカントの根本問題であった。…』

    お望みなら、原文探してみるから、原文でどうなってるのか知りたい時は言ってね〜(^ ^)
引用返信/返信 削除キー/
■10865 / inTopicNo.75)  Re[25]: What do?
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/02/07(Sun) 21:02:00)
    ふと。

    キリストっていう人の教えを唯信する人って、 What do I want to do?っていうのあるのかな〜?っていうのが前から疑問に思ってること。

    What do Khristos want to do?とか What do God want to do?から「私の物語り」を始めようとしてるのかな〜? よくわかんない。私の唯信の始まりが見えていうことがわたしにはよくわかんないところね。

    「誰々がこう言ってる。だから私はこうする。」に対して、どうして?っていうことをわたしは問うているの。もっとも”問うこと”は禁忌っていうこともあるけどね。

    悪魔ちゃんより




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■10864 / inTopicNo.76)  Re[24]: 本能と先天的
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/02/07(Sun) 19:55:01)
    きのうきょうで考えてのをもうちょっと書いとく。

    ここでちょっと、わたしの勝手なのを。

    カントの「超越論的」を「アプリオリ」から見て見たんね。

    中島さんによると、「transzendental超越論的」は「transzendent超越的」と対になっていて、〈人間の認識を超えるもの〉として「神や死後の魂の永遠」のようなものことみたいだから、transzendent=神ってしちゃうね。

    そこでね、わたし思って見たんだけど。カントのいう「超越論的」っていうの、人間〈より先なるもの〉として「神」、また、人間の「経験」〈より先なるもの〉っていう二重の意味をもってる、ってして見たのね。
    人間の“認識”を超えるもの=超越的transzendent=神、そして神に対して人間における「論」としての超越論的transzendental。カントが大前提としていた「神」は人間〈より先なるもの〉であって、その次にその“人間のうちで”の経験〈より先なるもの〉を、見つけ出そうとした。

    こんな感じになった。

    ところでね。transzendentからtranszendentalよね、[transzendent]を「神」ってしたら[transzendental]は「神的」とか「神のような」って訳してもいいんじゃないかしら。だから「transzendental総合判断」は「神的総合判断」とか「神のような総合判断」って訳されることになるんね。わたし「超越論的」を「神のような」って言いかえて見ることもある。
    中島さんの解説から、こんなことも思われたんだけど〜、あ、これわたしの勝手な、ね。

    あ、それと、transzendentは〈人間の認識を超えるもの〉らしいから、これって人間の“認識”についての話しなんだと思うし、わたし意識のうちに認識を含めてるから、やっぱ人の意識(精神)を話題としてるのだと思う。

    ほら、わたしのなか、ややこしくなってるでしょ。でも少しわたしのを整理できた感じ。

    わたし「アプリオリa priori」を〈より先なるもの〉、「アポステリオリa posteriori」を〈より後なるもの〉ってすることにしたんだけど、これって、○○より先なるもの、より後なるもの、っていうことよね。○○を何にするか、っていうことなんだけど。

    カントの場合、○○には「人間」「神」「経験」が入ってるんじゃないかって。
    人間より先なるもの―神。神より後なるもの―人間。経験より先なるもの。経験より後なるもの。みたいな。
    じゃないのかもしれないけど、わたしの問題は、わたしのはどうしようかな〜、っていうこと。

    わたし「神」を前提にしてないから、○○を、人(私)の「経験」とすることにした。
    経験より先なるもの、経験より後なるもの。「先験的」「後験的」ってなるのかな。
    だからわたしのばあい「アプリオリa priori」は〈人(私)における先験的なもの(経験より先なるもの)〉のことってする。「先天的」が同じような意味なら、これでもいいんだけど。ま、ひとまず、ね。

    これでカントの、の一部、私のうちに取り入れられたかも?


    あ〜、疲れちゃった〜。
    レーズンサンド食べちゃおっかな〜、それともパンにバター、はちみつ、マーマレードたっぷりのやつにしよっかな〜。でも太ちゃうし〜。いまのわたしにはこの誘惑が大問題。


引用返信/返信 削除キー/
■10859 / inTopicNo.77)  Re[23]: 本能と先天的
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/02/07(Sun) 18:26:19)
    んで、「アプリオリa priori」

    フッサールの『デカルト的省察』の訳注に、
    アプリオリとアポステリオリ:〔「より先なるもの」と「より後なるもの」という用語は、アリストテレスに由来し、「アプリオリ(より先なるものから)」と「アポステリオリ(より後なるものから)」もそこから派生した述語である。〕

    ネットでは、
    [a priori]「アプリオリ」=〈より先のものから〉、[a posteriori]「アポステリオリ」=〈より後のものから〉
    ってあった。

    そこでね、わたし「アプリオリa priori」を〈より先なるもの〉、「アポステリオリa posteriori」を〈より後なるもの〉ってすることにしたよ。

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■10858 / inTopicNo.78)  Re[22]: 本能と先天的
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/02/07(Sun) 17:24:31)
    コロナだし〜、家にこもって

    ■10810のつづき
    No10670、(善悪の彼岸4)の「先天的総合判断」の「先天的」についてなんだけど、
    これ、たぶん「超越論的」ね。このカントの用語、なんかややこしいいけど、ちょっとここらへん見て見る。わたしがいろいろ調べたり、pipitさまとお喋りしてたなかでなんとなく浮かんできたものをここで書けるようになれたらいいなって思ってる。

    中島義道さんが「超越的と超越論的」と題して書いているところを抜粋して見ます(これもどこかで書いたかも)。

    〔…最後に、翻訳について触れておく。「超越論的」は九鬼周造が昭和4(1929)年にはじめて使用したと言われており、意外に歴史は古い。それまで、そしてこれ以降も長く“transzendental”には「先験的」という訳が定着している。この訳語は、「経験的」(empirisch)との対語が明瞭であるだけ一面的な意味に引きずられ、「純粋」や「ア・プリオリ」と区別がつかなくなる。また、”transzendental”のもうひとつの意味である「超越するもの」との消極的連関を捉えきれていない。「先験的弁証論」では何のことかわからないであろう。そこで、近年特に現象学の隆盛と相まって、言葉としては硬いがむしろ「超越的」との連関も示しながらその複雑な意味を含むという利点をもった「超越論的」が支配的になってきた。だが、依然として「先験的」という訳語を使っている研究者もおり、個々の例について「先験的」と「超越論的」に訳し分けている研究者もいるのが実情である。〕
    『善悪の彼岸』でも、わたしが読んだ「カント」っていう本の中でも「先天的」って訳してあるけど、どうやらこの訳語は使わないみたい。
    また、
    〔まず強調されねばならないこと(そしてほとんどの人が無視していること)は、「超越論的」と「超越的」(transzendent)と不可分の概念だということである。神や死後の魂の永遠などの人間の認識を超えるものに関することを「超越的」と呼ぶが、「超越論的」とはこの基本構図をのこしたまま、積極的意味と消極的意味とをあわせ持っている。…〕
    ということみたい。

    わたしひとまず[a priori]を「先天的」ってしとくけど、どうやらカントが使ってるのは[a priori]じゃなくて、[transzendental]みたい。だから「《先天的》総合判断」じゃなくて「超越論的総合判断」って訳した方がいいのかもね。で、「a priori先天的」と「transzendental超越論的」とを区別することにした。わたし前者の方で見てきてたみたい。

引用返信/返信 削除キー/
■10849 / inTopicNo.79)  Re[21]: 知覚の現象学
□投稿者/ パニチェ -(2021/02/07(Sun) 08:12:24)
    No10841に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > ■10838、パ二さん、ありがと。

    どういたしまして。

    > 講談社刊鷲田清一著『メルロ=ポンティ 可逆性』、読んでみよかな?

    もし悪魔ちゃんが読むなら私も読み直してみますが、『知覚の現象学』の訳本も持ってて既に読み終えてるみたいなので、解説本は気が向いたらでいいですよ。^^
引用返信/返信 削除キー/
■10841 / inTopicNo.80)  Re[20]: 知覚の現象学
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/02/06(Sat) 19:30:33)
    ■10838、パ二さん、ありがと。

    講談社刊鷲田清一著『メルロ=ポンティ 可逆性』、読んでみよかな?
引用返信/返信 削除キー/
■10838 / inTopicNo.81)  知覚の現象学
□投稿者/ パニチェ -(2021/02/06(Sat) 18:56:34)
    No10837に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > ■10827、おことばにあまえて、
    > パ二さん、メルポンの『知覚の現象学』読んでるのね。びっくりポン!

    ごめん、ごめん。
    私が持っているのは『知覚の現象学』の訳本ではなくて、講談社刊鷲田清一著『メルロ=ポンティ 可逆性』です。
    興味が湧けば訳本を買おうかなとも思ってましたが、現象学は唯識とかぶるところがあり、そっちの方に向かいました。

    > わたし、パ二さんに作ってくれたここで、現象学の実践の場として試みてま〜す。

    楽しみにしています。
    また訳本を読む気になるかも。。。

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■10837 / inTopicNo.82)  Re[18]: What do I want to do?
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/02/06(Sat) 17:46:13)
    ■10827、おことばにあまえて、
    パ二さん、メルポンの『知覚の現象学』読んでるのね。びっくりポン!

    >ここで言う「関数的に」というのは相関関係という関係性のことだと思うよ<
    了解で〜す。なんか「関数」っていうと数学のイメージがあるのね。わたしのなかでは算数は科学。なにも科学的用語使わなくてもいいんじゃないかって思うんだけど。マッハさんて、科学から哲学へ、っていうタイプなのかしら?だとしたらわたしの好みじゃないからもう彼には問わないよ。
    それと仏教的なのもわたし、さっぱりなので、ごめんなさいね。

    >メルポンで言えば「経験への帰還」とか「共存」やないかな<
    どう見てるのかわかんない。ちょっとわたしの見方と違うのかも?

    パ二さんが抜粋してくれた(知覚の現象学 序文)のつづきの文を抜粋しするね。
    【−―だから、それを主観性と相互主観性とから分離することは許されない。私の現在の経験が過去の経験を引き継ぎ、私の経験が他人の経験を引き受けることによって、主観性と相互主観性とは統一される。哲学者の省察は今や初めて十分に自覚的となり、省察自身の成果を省察に先立って、世界のなかに実在化するようなことはもはやしない。哲学者は世界と他人と自己自身とを考察し、それらの関係を理解しようとする。…】

    たしかにメルポンのを読んでると「関係性」を見ようとしてたり、「キアスム(交叉配列とか絡み合い」っていうの出てくるけど、これって、何かと何かの関係性っていうことよんね。っていうことは、その関係性を見ようとする以前の”分節の仕方”っていうのが問題となるのね。なにをどのように分節するか、があって、その分節されたものにおいての関係性を、っていうことになるんだと思ってる。

    こういう意味で、
    >ニーチェもマッハも認識対象は我々の感覚器官と対象との関係性上(交叉点)にあらわれる、またその経験は他者との交叉点(間主観)でもあるということ<
    これ、わたしにはよくわかんなくなっちゃうのかも。

    わたし、パ二さんに作ってくれたここで、現象学の実践の場として試みてま〜す。






引用返信/返信 削除キー/
■10827 / inTopicNo.83)  プレ現象学>悪魔ちゃんへ
□投稿者/ パニチェ -(2021/02/06(Sat) 09:37:18)
    2021/02/06(Sat) 09:54:03 編集(投稿者)

    パニチェさまはくすぐったいからパニさん、とかパニと呼んでちょ。

    No10774に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > 「哲学全般・・・」のところの
    > No10759
    > パニチェさま、ここで書かせもらうね。いろんなところで書いちゃうと、わたしがどこで何を言ったのかごちゃごちゃになっちゃって、わたしのうちでわかんなくなちゃうから、ごめんなさいね。

    了解!

    > >ニーチェとマッハはフッサール〜メルポン現象学の先駆けだと思います。<
    > そうなの?でもわたしわかんない。

    > >「単なる現象」として軽視されてきた感性界こそ究極の実在<
    > このへんがフッサール〜メルポン現象学と共通するところなのかな?
    > でもね、わたし、ニーチェやメルロは「実在」じゃなくて、「実存」の方だと思ってるん。「単なる現象」っていうのがわかんない。「単なる現れ」って言うんだったらなんとなくだけど。それと「感性界」っていう表言もなんかイヤ。「性」に「界」を付けるんだったらマッハさんは「知性界」っていう表言をするのかしら?

    メルポンで言えば「経験への帰還」とか「共存」やないかな。
    『現象学的世界とは、なにか純粋存在といったようなものではなくて、わたしの諸経験の交叉点で、またわたしの経験とまた他者の経験との交叉点で、それら諸経験の絡みあいによってあらわれてくる意味なのである(知覚の現象学 序文)』
    ニーチェもマッハも認識対象は我々の感覚器官と対象との関係性上(交叉点)にあらわれる、またその経験は他者との交叉点(間主観)でもあるということ。

    > もうちょっと。マッハさんの、次のところはどうなのかな〜、って。
    > >この世界は「感性的諸要素」が相互に関数的に依属し連関しあいながら絶えず離合集散している<
    > 〈生〉において、「感性的諸要素」とか「関数的に」とか、生の「感性」にそんなのあるのかしら?

    ここで言う「関数的に」というのは相関関係という関係性のことだと思うよ。
    世界と認識器官としての感性的要素との関係性上に(我々に認識される対象が)あらわれるということ。

    無実体なる現象が相互の因果関係によって生滅するという仏教的な考え方や、近代の自然科学にみられる現象を実体から説明するのではなく、実体相互の因果的な依存関係によって説明しようとする函数(関数)思想(参考:現代哲学事典)みたいな意味での「関数的」、余計に分かりにくいかな(笑)

    > >われわれの感覚器官が進化すれば、いまとは違った関数的依属関係のうちにあらわれてくるかもしれない<
    > 「われわれの感覚器官が進化すれば」 ん? マッハさん、誰のこと言ってるのかしら?

    人類全般のことでしょう。

    > パニチェさま、”メルポン“って、なんかかわいい呼び方だから、使わせてもらうね。

    了解!

引用返信/返信 削除キー/
■10810 / inTopicNo.84)  Re[17]: 本能と先天的
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/02/04(Thu) 18:11:29)
    デカルトさんのが、ひとまずになったので、ニーチェの、まえに途中になっていたことに戻って見ます。
    「哲学全般・・・」のところ、
    No10670で、パニチェさま抜粋してくれた「善悪の彼岸 哲学者の先入観について4」。
    で、わたしがNo10682で、
    >ニーチェは【最も誤った判断(それには《先天的》綜合判断も属する)】って言っているけど、これをわたしが言いかえると「《先天的》総合判断は、最も誤った判断に属する」ってなります。<
    って言って、ニーチェはどうして、カントの《先天的》綜合判断が最も誤った判断に属するって、見ているのかな〜?ってわたし思って、わたしがふと思ったのが、
    >「先天的」っていうのが問題なんかな?この「先天的」については「哲学者の先入観について4」の前の「3」から見て見ようと思ってます。<
    だったんだけど、どうして?っていうことについてちょっと考えていって見ま〜す。

    で、「善悪の彼岸 哲学者の先入観について3」を抜粋して見ます。
    【十分に長い間、虱(しらみ)つぶしに監視てきた挙句、私は自分に言うのだが、意識的な思惟の大部分をなお本能活動のうちに数えなければならない。しかも哲学的な思惟の場合でさえもそうなのである。遺伝や「生得性」に関して学び直したように、ここでも再び学び直さなければならない。分娩の作用が遺伝の進行や継続の全過程において問題とならないように、「意識している」ということも何か決定的な意味で本能的なものと対立したものではない。――或る哲学者の大概の意識的な思惟は、その本能によって秘かに導かれ、一定の軌道を進むように強いられている。あらゆる論理とその運動の外見上の自主性の背後にも、評価が、もっと明瞭に言えば、或る一定の生の保存のための生理的な要求が存している。例えば、確定したものは不確定なものより以上の価値があり、仮象は「真理」より以下の価値をもつ。このような評価は、われわれにとってどれほど重要な規制力をもっていようとも、やはり単に前景的な評価にすぎないもので、われわれの如き生物の保持のためにこそ必要な一定の《愚かさ》でしかない。もっともこれは、格別に人間が「事物の尺度」なのではない、と仮定してのことであるが…‥】(N-c)

    ここでは人の「意識」について語ってるとわたし思うんだけど、気になったのは【意識的な思惟の大部分をなお本能活動のうちに数えなければならない】っていうこと。
    「本能」っていうの、なんかわたし“生の欲望”や“自然的なもの”と近い感じがしてる。生の根源的なものみたいな。

    【或る哲学者の大概の意識的な思惟は、その本能によって秘かに導かれ、一定の軌道を進むように強いられている。】って言ってる。わたしこれを「意識において、思惟も、なにか本能的なものによって秘かに導かれている」って見たのね。

    ここでのわたしの問題は、このような〈本能的なもの〉と〈先天的〉っていうのがわたしのなかでどう結びついたのか、っていうこと。
    で、〈先天的〉っていうのが問題となるんだけど、これについてはなんかややこしくなりそうなので、あとで。

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