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■10908 / inTopicNo.61)  器官
  
□投稿者/ pipit -(2021/02/09(Tue) 21:03:25)
    あー、生きること、だね!
引用返信/返信 削除キー/
■10907 / inTopicNo.62)  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2021/02/09(Tue) 21:02:47)
    No10905に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > pipitさまへ
    >
    > >人間は真理を知る器官を持ってないので、人間の器官に依存して現れる先天的(かどうかは別にして)総合判断も必然的に真理という定義から見ると誤謬と表現される判断となる<
    >
    > なんかわたしのとちがう感じ。
    >
    > 「人間は真理を知る器官を持ってない」って、なんかニーチェさん、うまい表現するのね〜、ってわたし思った。
    >
    > でね、pipitさま、人間の器官に依存してるのはなんだと思う?<


    意識とか認識なんじゃないの?
引用返信/返信 削除キー/
■10905 / inTopicNo.63)  Re[28]: 器官
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/02/09(Tue) 20:57:22)
    pipitさまへ

    >人間は真理を知る器官を持ってないので、人間の器官に依存して現れる先天的(かどうかは別にして)総合判断も必然的に真理という定義から見ると誤謬と表現される判断となる<

    なんかわたしのとちがう感じ。

    「人間は真理を知る器官を持ってない」って、なんかニーチェさん、うまい表現するのね〜、ってわたし思った。

    でね、pipitさま、人間の器官に依存してるのはなんだと思う?




引用返信/返信 削除キー/
■10903 / inTopicNo.64)  おくたがわさんへ
□投稿者/ pipit -(2021/02/09(Tue) 20:50:14)
    書き込みありがとうございます!
    長文の返信になりそうなので、『純粋理性批判を読んでみる』トピで返信させていただきますね。

    悪魔ちゃん、おじゃまでした〜
引用返信/返信 削除キー/
■10894 / inTopicNo.65)  Re[28]: 超越論的
□投稿者/ おくたがわ -(2021/02/09(Tue) 09:38:22)
    No10870に返信(pipitさんの記事)
    この「超越論的」の説明、自分にとっては分かりやすかった。
    単なる「≪メタ≫論的」とどう違うのかと以前思っていたので、
    「超越的」についてのメタ論という説明は、すっきりした感じ。
    (あくまで一見解にすぎないということはふまえて)


引用返信/返信 削除キー/
■10893 / inTopicNo.66)  Re[27]: アプリオリな総合判断
□投稿者/ おくたがわ -(2021/02/09(Tue) 08:18:45)
    No10869に返信(pipitさんの記事)
    おはようございます。

    pipitさんのトピでリンクされてる記事の中に

    > 「先験的」も「超越論的」も、ドイツ語transzendentalの訳語だ。昔は「先験的」と訳されていたが、最近は「超越論的」と訳されるようになっている。岩波文庫版『純粋理性批判』は、1960年代初めの訳なので、「先験的」と訳されている。<
    (『たぶん世界一簡単な『純粋理性批判』からの学び方。』より引用)

    とありますね。
    一方で、 「経験に先立つ」という意味の a priori は現状「先天的」と訳される?
    なのでアプリオリな総合判断は「先天的な総合判断」と訳される?

    意味を考えるとそこでの「先天的(=a priori)」は「先験的」でふさわしい気もするのですが、
    従来 transzendental「超越論的」の方を「先験的」と訳していた人がいた(字面的には誤訳っぽいというか誤解を招きやすい?)
    その訳を知っている人にとっては、 アプリオリを先験的と訳してしまうと混乱が生じるからまずいことになるのかな…

    そういうことを知らなかった自分は、アプリオリな総合判断→先験的総合判断=先天的総合判で問題ないと思ってしまっていた感じです。

    蛇足ですがついでに整理すると

    アプリオリ→経験によらない アポステリオリ→経験にもとづく
    総合的 → 知識が拡張される  分析的 → 知識が拡張されない

    通常は知識が拡張されるためには、経験が必要と考えられるので、
    アプリオリ・分析判断
    アポステリオリ・総合判断
    というセットが考えられるが、カントはアプリオリな総合判断が可能だと述べた


    (間違ったことを書いていたら指摘ください。蛇足の部分も含めて)

引用返信/返信 削除キー/
■10888 / inTopicNo.67)  ありがとうございます
□投稿者/ pipit -(2021/02/08(Mon) 20:50:19)
    パニチェさん、ありがとうございます(^ ^)

    というわけで悪魔ちゃん、

    人間は真理を知る器官を持ってないので、人間の器官に依存して現れる先天的(かどうかは別にして)総合判断も必然的に真理という定義から見ると誤謬と表現される判断となる、

    が、ニーチェさんの言の理由の一つかなと私は思ってて、パニチェさんも同意してもらえたよ。

    でも、悪魔ちゃんは悪魔ちゃんで考えることは、きっととても意味あることと思う。
    いろんな道があると思ってる。

    パニチェさん、悪魔ちゃん、ありがとうございます!
引用返信/返信 削除キー/
■10885 / inTopicNo.68)  pipitさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2021/02/08(Mon) 20:25:47)
    2021/02/08(Mon) 20:29:12 編集(投稿者)

    No10884に返信(pipitさんの記事)
    > こんばんは、お忙しいところすみません、ありがとうございます!

    こんばんは。どういたしまして。

    > 悪魔ちゃんは、ニーチェは先天的総合判断が何故誤りと言ったのか、を知りたいみたいなんですけど、

    > ニーチェの論としては、

    > 人間は真理を知る器官を持ってないので、人間の器官に依存して現れる先天的(かどうかは別にして)総合判断も必然的に真理という定義から見ると誤謬と表現される判断となる、みたいなかんじかな?と思ってるのですが、いかがでしょうか?

    その通りです。
    私としても先天的総合判断が何故無謬と言い切れるのか逆に分かりません。
引用返信/返信 削除キー/
■10884 / inTopicNo.69)  パニチェさんへ
□投稿者/ pipit -(2021/02/08(Mon) 20:16:47)
    こんばんは、お忙しいところすみません、ありがとうございます!


    悪魔ちゃんは、ニーチェは先天的総合判断が何故誤りと言ったのか、を知りたいみたいなんですけど、

    ニーチェの論としては、

    人間は真理を知る器官を持ってないので、人間の器官に依存して現れる先天的(かどうかは別にして)総合判断も必然的に真理という定義から見ると誤謬と表現される判断となる、みたいなかんじかな?と思ってるのですが、いかがでしょうか?
引用返信/返信 削除キー/
■10883 / inTopicNo.70)  pipitさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2021/02/08(Mon) 19:54:33)
    2021/02/08(Mon) 19:59:50 編集(投稿者)

    No10880に返信(pipitさんの記事)

    > 誤謬(仮象)でしか生きていけないよ、と、認めればいいやん、みたいな?

    > ???

    > パ、パニチェさ〜〜〜ん

    そそ。ニーチェにとって「生は認識の実験」ですから、誤謬や仮象を断念するということは生を否定することになるってことやと思います。

    自己超克とは常に上書きしていくことであり、不完全であるからこそ常に動的で創造的でもあるみたいな話です。^^
引用返信/返信 削除キー/
■10880 / inTopicNo.71)  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2021/02/08(Mon) 19:21:32)
    返信ありがとう!いろいろなことは私に関しては気にしないでね。(感謝してるよ)
    10670見てみたよ(^ ^)

    先天的総合判断とは、、、
    論理的な仮象であり、無制約者や自己自身に等しいものという純粋な虚構の世界に照らして現実を測る行為としての判断であり、また数によって世界をたえず偽造するような偽りの認識を作る判断であるので、、、
    誤った判断だ、と、ニーチェさんは言っているのかな?
    と、想像してみました。

    誤謬(仮象)でしか生きていけないよ、と、認めればいいやん、みたいな?

    ???

    パ、パニチェさ〜〜〜ん


    No10670に返信(パニチェさんの記事)
    > 2021/01/24(Sun) 08:14:40 編集(投稿者)
    >
    > 悪魔ちゃんがNo10632で引用した『善悪の彼岸 哲学者の先入観について2』のアフォリズムは以下のアフォリズムに集約される。
    >
    > 『──もっとも誤った判断(先天的綜合判断もその一つだが)はわれわれにとってもっとも不可欠なものであり、人間は論理的な仮象を承認することなしには、無制約者や自己自身に等しいものという純粋な虚構の世界に照らして現実を測ることなしには、また数によって世界をたえず偽造することなしには、生きることができないであろう、──つまり、誤った判断を断念することは生を断念することであり、生を否定することになるであろう、と。非真理を生の条件として容認すること…これはもちろん、危険な仕方で通常の価値感情に反抗することである。だから、このことをあえてする哲学は、ただそれだけですでに善悪の彼岸に立っているわけだ。(善悪の彼岸 哲学者の先入観について4)」
    >
    > 我々の五感には錯誤がつきものであるし、認識は誤謬によって成り立っているとも言える。
    > しかし「生」が認識の実験(既存価値の破壊と創造)である以上、誤謬があるからこそ新たな価値創造がなされ、その生成プロセスこそが「生」そのものとも考えられることから、「生」にとって誤謬は不可欠であり生産的な原動力でもある。
    > 真理は固定的かつ静的にあるのに対してニーチェにとっての生は混沌かつ躍動的なものである。
    >
    > 相対性理論はニュートン力学の上書きであるようにキリスト教はユダヤ教、仏教はバラモン教の上書きによる新たな価値創造と言える。この上書きのプロセスは、上書きされる対象が完全ではなく不完全であるからこそ成立する。
    >
    > 『われわれは認識のための、「真理」のための器官を、全く何ひとつ有(も)っていない。われわれは、人間群畜や種属のために有用だとされるちょうどそれだけを「知る」(あるいは信ずる・あるいは妄想する)のである(悦ばしき知識 第354番)』
    >
    > あるはずもない、もしくは誤謬があるが故に到達不可能な真理そのものに迫ることより、そのプロセスにこそ葛藤と闘争があり、それが「生」そのものの特性であるとニーチェは指摘する。
    >
    > 唯一無二の真理なるものをでっちあげない、またはそんなものは存在しない、あるいは存在しても不可知であるとする哲学は、万人に共通する尺度や絶対価値も有しないが故に、既存の形而上学や道徳(主にキリスト教的道徳)を地に落としめる(ニヒリズム)ばかりでなく、それらを幻想として断罪し、それらを超越している岸(善悪の彼岸)にあるとも言える。
    >
    > その反面、固定的なドグマを拠りどころとしている種族にとっては、これらの発想や見解は悪魔の誘惑としてしか捉えられないだろう。
    >
    > ニーチェがインモラリスト(固定的なキリスト教的善悪二元論の対岸に立つとしうスタンス)、実存主義(人間の存在や生を哲学の中心におく思想)、生の哲学と呼ばれる所以でもある。
    >
引用返信/返信 削除キー/
■10878 / inTopicNo.72)  Re[28]: アプリオリ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/02/08(Mon) 18:40:13)
    pipitさま、
    【synthetisches Urteil a priori】だったんですね。ありがとう!
    syntetisches=「総合」、Urteil=「判断」、a priori=「先天的」って訳して、「先天的総合判断」ね。
    「transzendental総合判断」じゃなかた。勝手にしちゃいました、反省。

    見なおして見ま〜す。
    [a priori]を〈より先なるもの〉ってしてるわたしは、「a priori総合判断」は「〈より先なるもの〉総合判断」、そこで〈より先なるもの〉を「“経験”〈より先なるもの〉」として「先験的総合判断」。「先天的」と「先験的」が同義なら「先天的総合判断」のどちらの訳しかたでもかまわない。
    ってなりました。


    コトバンクさん、wikiの、わかりやすかったです。

    >『純粋理性批判』においては、先天的総合判断が可能となる原因を神様とか言ってないみたいだよ。<
    なるほど。
    ちょっといいかえちゃう。「先験的総合判断というのは存在する。それが可能となる原因は、神のみぞ知る。」
    あるいは「神のみぞ知る先験的総合判断」さらに「神のような総合判断」を「先験的総合判断」と呼ぶ。
    こんな見方ダメかしら?

    どこからカントの「先天的総合判断」の話題になったんだっけ〜?
    ・・・・
    あ、そう、No10670の(善悪の彼岸4)に書いてあったのを見て、わたしが疑問に思った〈ニーチェは、どうして、どのようなことから、「《先天的》総合判断は、最も誤った判断に属する」って思ったのかしら?〉からだった。このわたしの自問はカントのとニーチェのをもっと見ないと行けない。

    わたしがカントのを知ろうとしてるのは、フッサールやメルポンの本にはデカルトややカントが登場するのね。ニーチェの『善悪の彼岸』のなかでもそうだけど。で、メルポンのを知ろうとするとき、カントのも知っとかないと、メルポンがなに言ってるのかわかんないからなのね。

    もうちょっとカントのについて見ていこうと思いました。
    pipitさま、またよろしくおねがいしま〜す。

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