| pipitさま、 【synthetisches Urteil a priori】だったんですね。ありがとう! syntetisches=「総合」、Urteil=「判断」、a priori=「先天的」って訳して、「先天的総合判断」ね。 「transzendental総合判断」じゃなかた。勝手にしちゃいました、反省。
見なおして見ま〜す。 [a priori]を〈より先なるもの〉ってしてるわたしは、「a priori総合判断」は「〈より先なるもの〉総合判断」、そこで〈より先なるもの〉を「“経験”〈より先なるもの〉」として「先験的総合判断」。「先天的」と「先験的」が同義なら「先天的総合判断」のどちらの訳しかたでもかまわない。 ってなりました。
コトバンクさん、wikiの、わかりやすかったです。
>『純粋理性批判』においては、先天的総合判断が可能となる原因を神様とか言ってないみたいだよ。< なるほど。 ちょっといいかえちゃう。「先験的総合判断というのは存在する。それが可能となる原因は、神のみぞ知る。」 あるいは「神のみぞ知る先験的総合判断」さらに「神のような総合判断」を「先験的総合判断」と呼ぶ。 こんな見方ダメかしら?
どこからカントの「先天的総合判断」の話題になったんだっけ〜? ・・・・ あ、そう、No10670の(善悪の彼岸4)に書いてあったのを見て、わたしが疑問に思った〈ニーチェは、どうして、どのようなことから、「《先天的》総合判断は、最も誤った判断に属する」って思ったのかしら?〉からだった。このわたしの自問はカントのとニーチェのをもっと見ないと行けない。
わたしがカントのを知ろうとしてるのは、フッサールやメルポンの本にはデカルトややカントが登場するのね。ニーチェの『善悪の彼岸』のなかでもそうだけど。で、メルポンのを知ろうとするとき、カントのも知っとかないと、メルポンがなに言ってるのかわかんないからなのね。
もうちょっとカントのについて見ていこうと思いました。 pipitさま、またよろしくおねがいしま〜す。
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