| 〔それで、たとえば、「病気の現われ」といった言い方がなされる。そのさい指されているのは、肉体に生じた出来事のことであるのだが、このものは、おのれを示していながらも、こうした自己示現するものとして、おのれ自身を示さない或るものをその自己示現において「暗示している」。病気の現われといったような出来事の発生、つまり、そうしたものの自己示現は、なんらかの障害が実際に存在していることを伴っているのだが、その傷害はそれ自身おのれを示さないのである。したがって、「或るもの」の現われとしての現われは、おのれ自身を示すということを意味するのではけっしてないのであって、むしろ、おのれを示さない或るものが、おのれを示す或るものをつうじて、おのれを告げるということを意味する。現れることは、この場合には、おのれを示さないことなのである。だが、この「ない」は、仮象の構造を規定している欠性的な ない と混同されては、断じてない。現れるものというより、まさにそうした仕方においておのれを示さないものは、仮象することもけっしてできない。すべての暗示、表示、症候、象徴は、たとえそれらがたがいにさらに異なっているにしても、現われるということの前述の形式的な根本構造をもっているのである。〕
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