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■11075 / inTopicNo.25)  Re[41]: 旧約聖書は三位一体という名画
  
□投稿者/ 勿忘草 -(2021/02/17(Wed) 12:19:44)
    knowing itselfさん こんにちは。
    いつも、意味の深い書き込みありがとうございます。

    > 神の愛と、人間の神への愛の関係について、トマスアクィナスはおもしろいことを言っています。人間の神への愛は、神の愛の徴だと。例えば、煙があがっていれば、煙は原因としての火を指し示します。人間の神への愛は火に対する煙のようなものだということです。人間の神への愛が原因となって、神の愛が生まれたということはありえない。人間の神への愛と神の愛は、対価関係、条件関係に立つことはない。

    > あるのは無条件で一方的な神の愛だけ。人間の愛は徴だと。無償の愛に応えて愛し返す、それは火に対する煙のようなものだと。

    これって親鸞の歎異抄の阿弥陀様から戴いた信心の記載と似ていて興味深いです。
    神仏から戴かないと人って愛することも出来ないように思えます。

    神から貰わないと駄目ということは、やはり二重予定説が正しいということなのでしょうか。
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■11073 / inTopicNo.26)  Re[40]: 旧約聖書は三位一体という名画
□投稿者/ knowing itself -(2021/02/16(Tue) 21:07:59)
    勿忘草さん こんばんは


    > この三位一体こそが神の愛なのであり、そこに我々も置いてくれる有難さ、
    > まさに感謝です。

    神の愛と、人間の神への愛の関係について、トマスアクィナスはおもしろいことを言っています。人間の神への愛は、神の愛の徴だと。例えば、煙があがっていれば、煙は原因としての火を指し示します。人間の神への愛は火に対する煙のようなものだということです。人間の神への愛が原因となって、神の愛が生まれたということはありえない。人間の神への愛と神の愛は、対価関係、条件関係に立つことはない。

    あるのは無条件で一方的な神の愛だけ。人間の愛は徴だと。無償の愛に応えて愛し返す、それは火に対する煙のようなものだと。




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■11057 / inTopicNo.27)  Re[39]: 旧約聖書は三位一体という名画
□投稿者/ 勿忘草 -(2021/02/14(Sun) 18:41:36)
    knowing itselfさん、こんばんは。

    今日は、昨夜からの地震処理で徹夜で疲れたので昼間にベッドで休んでいたので
    書き込み出来ませんでした。

    > 勿忘草さん こんにちは。 震源地を聞いてビクッとしました。静かに収束していといいのですが。

    ありがとうございます。
    本当に昨夜から何回も余震が続き、そのたびにビクついているところです。
    今夜は、早々に風呂に入ってしまおうということになりました。

    > 親鸞会の人のようですね。宗教、とくにキリスト教の理解の仕方が間違っているようです。このひとは、人間は無力なまま、ひたすら神に依存し弱々しくすがりつくだけの存在のように思い込んでいます。違いますね。


    knowing itselfさんの御意見は、全く持ってその通りで、実は、私もこの点は、
    気になっていました。それなら阿弥陀様ならいいのかということになるのではと。

    > マルコによる福音書1・10ー11
    >
    > (イエスは)天が裂けて、霊が鳩のように自分の中へ降ってくるのを御覧になった。すると、「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」という声が、天から聞こえた。
    >
    > 三位一体の譬えでもあるこの箇所にあるように、人間というそれだけの理由で人間をイエスと同じ子のポジションに置いてくれるというのがキリスト教でしょう。三位一体の内部です。被造物宇宙にこれ以上の場所はありません。被造物宇宙の頂点といってもいいかもしれません。

    なるほど、そういうことなのですね。

    この三位一体こそが神の愛なのであり、そこに我々も置いてくれる有難さ、
    まさに感謝です。

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■11033 / inTopicNo.28)  浄土真宗とキリスト教
□投稿者/ knowingitself -(2021/02/14(Sun) 15:00:43)
    浄土真宗にキリスト教からの類似性をみるのはいいとして、浄土真宗からの連鎖でらキリスト教を理解すると、キリスト教を歪め、根本的なものを骨抜きにすることが多い。逆もいえて、キリスト教から浄土真宗を理解すると浄土真宗を歪める危険がある。


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■11032 / inTopicNo.29)  Re[38]: 旧約聖書は三位一体という名画
□投稿者/ knowing itself -(2021/02/14(Sun) 14:43:17)
    勿忘草さん こんにちは。 震源地を聞いてビクッとしました。静かに収束していくといいのですが。

    > それから、面白い動画がありました。
    > https://www.youtube.com/watch?v=b5Af2iNbm1E

    親鸞会の人のようですね。宗教、とくにキリスト教の理解の仕方が間違っているようです。このひとは、人間は無力なまま、ひたすら神に依存し弱々しくすがりつくだけの存在のように思い込んでいます。違いますね。

    マルコによる福音書1・10ー11

    (イエスは)天が裂けて、霊が鳩のように自分の中へ降ってくるのを御覧になった。すると、「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」という声が、天から聞こえた。

    三位一体の譬えでもあるこの箇所にあるように、人間というそれだけの理由で人間をイエスと同じ子のポジションに置いてくれるというのがキリスト教でしょう。三位一体の内部です。被造物宇宙にこれ以上の場所はありません。被造物宇宙の頂点といってもいいかもしれません。





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■11029 / inTopicNo.30)  Re[39]: 福島沖地震
□投稿者/ 勿忘草 -(2021/02/14(Sun) 11:42:38)
    地震と言えば、1755年11月1日、日曜日の朝9時30分過ぎに、カトリックの大主教の座があったリスボンの街に大地震が襲い、津波と火災による甚大な被害をもたらした「リスボン地震」があります。

    記録では、揺れは3分半から6分続いたと言われ街の中心部には幅5mの地割れができ、多くの建物85%が崩れ落ち、その後の火災と津波とにより被害は、津波による死者1万人を含む、5万5,000人から6万2,000人が死亡したということです。

    しかも、地震当日の 11月1日はカトリックの祭日(諸聖人の日(万聖節))で教会ではミサが行なわれていたが、時間が早かったため教会に参列する信者の数は多くなかったようですが、それでも、犠牲者は出ました。

    これって、神の怒りだったのでしょうか。

    それとも、気まぐれなのでしょうか。

    こうした災害についてヨブの喪失感と被災者の苦悩が重なりますが、ヨブに対する試練は、サタンがヨブの信仰に疑いを持ち、神に訴え出たことに起因するものでした(ヨブ記 1-2 章)。


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■11016 / inTopicNo.31)  福島沖地震
□投稿者/ 勿忘草 -(2021/02/14(Sun) 07:43:37)
    knowing itselfさん、おはようございます。

    昨日の地震は大丈夫でしたか。

    13日午後11時8分ごろ、宮城県南部、福島県の中通りと浜通りで震度6強の地震がありました。気象庁によると、震源地は福島県沖で、震源の深さは約60キロ。地震の規模はマグニチュード(M)7・1と推定されるとのこと。

    もうびっくりで、思わず飛び起きてしまいました。
    その後、すぐに職場へ駆けつけました。
    するとパソコンが床に落ち、書類が散乱していました。
    みんなで後片付けをしました。

    これまでのところ福島県や宮城県、それに関東地方で、合わせて102人がけがをしたということです。

    今後1週間程度、震度6強が起こる可能性があるとのことですが、今回の地震は、2011年の余震と考えられるということで、えーっ、まだ、続いているのという驚きで一杯になりました。

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■11006 / inTopicNo.32)  Re[37]: 旧約聖書は三位一体という名画
□投稿者/ 勿忘草 -(2021/02/13(Sat) 19:19:16)
    knowing itselfさん、またまた、素晴らしい書き込みありがとうございます。

    > 旧約聖書と三位一体はまったく別もの、旧約聖書には三位一体はないと考えるなら、それは間違い。
    >
    > 究極の名画が一枚あるとする。その名画を言語によって再現しようと、多くの書き手が共同で書物として記した。もちろんどれだけ書き手に言語表現力があろうと、究極の名画は言語を遥かに超越している。旧約聖書全巻は、三位一体の神という名画を表現するための聖典だというのが、キリスト教の旧約聖書理解。
    >
    > その三位一体のうちの、神のことばである子が受肉したのがイエス。だから、福音書はイエスの語る神のことばを書き記したというより、イエスそのものが神のことば。神のことばが人間になることで、ようやく名画を、直接体験できるようになった、感覚器官を通して味わうことができるようになった。人間がその実存の中で、名画体験を共有できるようになった、名画の中に入り込めるようになった。

    私も、イエス様は、神の言葉だと思います。
    もし、イエス様がいなかったら、自分自身、神を信じられなかったと思いますから。

    それから、面白い動画がありました。
    https://www.youtube.com/watch?v=b5Af2iNbm1E
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■11005 / inTopicNo.33)  Re[38]: イエスの教え
□投稿者/ 勿忘草 -(2021/02/13(Sat) 19:14:18)
    knowing itselfさん、こんばんは。

    今日は、割と暖かく少しづつ春の足音が聞こえてきそうな一日でした。

    > もっとも江戸時代に比べればイエスは受け入れられていると思います。宗教の二大スーパースターはシャカとイエスだと内心では評価している人が多数ではないでしょうか。イエスだけ全否定というのは、よほどの無知か仏教原理主義者だけでしょう。

    確かに日本では、年末にキリスト教徒でもないのにクリスマスをして、大みそかには、仏教徒でもないのに除夜の鐘をきき、お正月には、日本神道なのか初詣元朝参りをしているのに、一般的に宗教には、胡散臭く敬遠する雰囲気があります。

    それでも、イエス様とお釈迦様に対しては、一目置いているようにも感じます。

    > ミッションスクールは幼稚園から大学院まで日本中にあってそれなりの評価を受けています。イエスの教えが広がる土壌は確実にできていると思います。

    そうですね。江戸時代よりは、ましになってきたのかな。
    ひとりでも幸せになってほしいと願うのですが、現実は、厳しいですね。

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■10994 / inTopicNo.34)  旧約聖書は三位一体という名画を指し示す
□投稿者/ knowing itself -(2021/02/13(Sat) 16:47:46)
    旧約聖書と三位一体はまったく別もの、旧約聖書には三位一体はないと考えるなら、それは間違い。

    究極の名画が一枚あるとする。その名画を言語によって再現しようと、多くの書き手が共同で書物として記した。もちろんどれだけ書き手に言語表現力があろうと、究極の名画は言語を遥かに超越している。旧約聖書全巻は、三位一体の神という名画を表現するための聖典だというのが、キリスト教の旧約聖書理解。

    その三位一体のうちの、神のことばである子が受肉したのがイエス。だから、福音書はイエスの語る神のことばを書き記したというより、イエスそのものが神のことば。神のことばが人間になることで、ようやく名画を、直接体験できるようになった、感覚器官を通して味わうことができるようになった。人間がその実存の中で、名画体験を共有できるようになった、名画の中に入り込めるようになった。
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■10988 / inTopicNo.35)  イエスの教え
□投稿者/ knowing itself -(2021/02/13(Sat) 07:58:49)
    勿忘草さん おはようございます

    > イエス様を信じない人に対しては、全くと言って話が合わないし、こちらがせっかく好意で勧めても、それは、よけいな迷惑としか感じてくれない。
    > 悲しいことですが、それが、現実なのだと思います。

    江戸時代あたりからの影響ですかね。超越的なもの、現世を超えたもの、霊性などはむしろ害があって、遊びにしろ仕事にしろ現世だけに一生懸命であることを社会の指針にする生き方。宗教には引くのが健康的なんだという価値観。

    もっとも江戸時代に比べればイエスは受け入れられていると思います。宗教の二大スーパースターはシャカとイエスだと内心では評価している人が多数ではないでしょうか。イエスだけ全否定というのは、よほどの無知か仏教原理主義者だけでしょう。


    ミッションスクールは幼稚園から大学院まで日本中にあってそれなりの評価を受けています。イエスの教えが広がる土壌は確実にできていると思います。



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■10956 / inTopicNo.36)  Reフィクションではなくノンフィクション
□投稿者/ 勿忘草 -(2021/02/11(Thu) 18:49:02)
    続きです。

    > 小説や物語、神話などのフィクションではなく、ノンフィクションであるというのが聖書に対するキリスト教信仰の立場でしょう。ノンフィクションにしても、作者の筆力で実際の人物を魅了的に書き込んでいるから愛読するというのではなく、ほんまんもんの神であり人間であったその存在が実際に凄かったから聖書を読むのがキリスト教。聖書は至高の書物だとしても、それ以上に、リアルのイエスとイエスを囲んだ共同体>聖書、となるのかなと。

    おっしゃる通りだと思います。
    それについては、まさに同意です。

    > もちろん上記を、イエスを信じない人に対して証明することは困難です。が、ことの本質からいって、上記の前提に立つことがキリスト教であることは否定できない。

    そこなんですよね。
    イエス様を信じない人に対しては、全くと言って話が合わないし、こちらがせっかく好意で勧めても、それは、よけいな迷惑としか感じてくれない。
    悲しいことですが、それが、現実なのだと思います。

    それでも、何かの機会があれば、伝道をし続けたいと思っています。
    もちろん、自分は、どこの教会や会派にも属していないのですけども。
引用返信/返信 削除キー/

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