| 田秋総合研究所8でのディディモさんの投稿をトピ主の独断でここへ再掲いたします。埋もれるのが惜しいし、関連事項も書きたいので。 ディディモさん、ご本人の許可も取らずに申し訳ありません。お許しください。
□投稿者/ ディディモ -(2021/01/10(Sun) 23:00:28)
>1.「公現祭」ですが、この意味はなんですか? 単に東方の三博士がジーザス家に訪れお茶を飲んでいったというお話(爆)ではなくて、イエスの形を借りて主が公現したことを三博士によって確認された日ということですか?<
言葉の意味ということであれば、公現あるいは顕現は(英国等の聖公会では顕現という言葉の方を使っているそうです。宗教祭に使う場合は両方同義)原語のギリシャ語で言えば「エピファーニ」です。その原意は突然起きる激しい覚醒感・・・ああ、そうだったのか!と、目覚めるような・・激烈な感覚をいうそうです。目覚めといえば、梵語の「Buddha ブッダ」は(真理に)目覚めた人、覚者の意ですから・・見性とか悟りに至った時の感覚に近いのか知らん・・と、これはいま突然思い付きを口にしました。(^0^) 一神教に戻って・・神に出会った時のことを「神の顕現」と表現しますね。と言うことは「エピファーニ」はやはり宗教的なものであって、特にキリスト教の回心(conversion)の時なども(パウロの回心が有名です・あるいはミラノでのアウグスティヌスの例も)それに近い意識・境涯であるのかも、ですね。 ただ、オリエントの歴史好きであれば、エピファーニ(顕現)という言葉は公現祭よりも、シリアのアンティオコス4世エピファーネスの名を思い浮かべる筈です。この王は若いころにローマで教育を受けてヘレニズム文化の絶対的信奉者になり、ユダヤ人を徹底的にヘレニズム化しようとしました。エルサレムの神殿を占領し、そこにゼウスの像を建て、ユダヤ人が忌避する豚を神に捧げるようなことまでやらかしました。またユダヤ人の律法を禁止し、当然割礼も禁止し、従わない者を徹底的に弾圧し女も子供も殺戮しまくりました。この王の名前をそのまま読むと「アンティオコス家の顕現王」ということになります。しかし当時のユダヤ人たちはエピマーネス(基地外)つまり狂人王と呼んでいたそうです。ことの詳細はヨセフスの「ユダヤ古代誌」に、また聖書には外典の「マカバイ記」に、このことがおどろおどろしく報告されております。
またお尋ねが祭りの意味ということであれば・・公現祭は、元々初期の東方教会では、1月6日にイエスの生誕の日として祝っていたようですが、現代の西方教会ではそれはクリスマスの12月25日に譲り、1月6日の主旨は「東方の三博士」が幼子イエスのもとを訪れて礼拝したことを記念する日となっています。 それで・・三博士が幼子イエスの処に来訪したことが、安気に茶を飲みながら四方山話をしたことではなく^^なぜ祝うべき事柄になるかと言うと、これ以降のカキコミは全く私見になりますが・・このことは東方の三博士、つまり異邦人が幼子イエスを礼拝したということであり・・見方を変えるとこれは救い主イエス・キリストが、異邦人に初めて顕現した日ということになります。その意味は、異邦人も救われる者となった・・ということですよ・・このことは結構重要なことです。 ユダヤはBC5世紀の中頃にエズラ・ネヘミヤの宗教改革によって本格的な律法体制を採り、清浄潔白で純な神権政治を目指していたんですが、いわばその政策の副作用としてそうなったんでしょうが・・異邦人との婚姻を禁ずる等のことをやったため、排他主義的なともあるいは狭量な民族主義とも外からは見られるようになっていたんです。ですから当然異邦人とはぎくしゃくした関係になります。まぁそれでも異邦人との接触も干渉もなく、ユダヤ教が一民族宗教として、その内部で孤立して存在するのなら良いですが・・。しかし後には先程言ったエピファーネス4世や、さらにはローマの干渉を受けて、そうは言ってられなくなりました・・。ところがユダヤ教の中の一セクトとして出発したキリスト教の場合は、イエスの死後に使徒会議を開いて、異邦人には抵抗あるであろう・・律法にある食物禁忌と割礼の問題をクリアーにし、異邦人に対する宣教に大きく道を開いたんです。 つまり大げさな言い方をすると・・東方の三博士の説話は、オリエントの辺鄙な一隅で産声を上げたキリスト教が、一民族宗教から世界宗教になるという、そのことの預言であり、その暗喩を含んでいる話なのではないかと私は思うんですね。・・。キリスト教史からいえば、実際は・・異邦人への伝道の成果は、パウロの三回に及ぶ地中海世界に向けての宣教旅行に因るところが大きいのですが、これはおそらく史実で、使徒書という散文の世界で表されているものです・・ですから「東方の三博士」の話のようにメルヘンチックな衣を被せていないのですね。これでは後の世に祭儀や礼典のようなセレモニーのなかに取り入れにくく、実効のあったパウロよりも「東方の三博士」の説話の方が祭儀にマッチしやすく、後に公現祭へと発展していたのではないかと・・。
後は簡単に・・。^^;
>2.三位一体、三博士、3という数字はキリスト教にとって特別な意味を持つものでしょうか?
これについては田秋さんがナイスフォローしていただきました。同意です。
>3. 映画『オーメン』にも出て来る666という数字、これは悪魔の数字として聖書にあるものですか?
あります、「ヨハネの黙示録」13章です。ただし、7つの頭と10本の角を持つ野獣の数字もしくは名前としてですが。 この章にるる野獣の描写が続きますが、最後の18節にその数字が現れます。解釈はご自由に。^^;黙示録は、もともと解釈の仕方によっては如何とでもとれるものですから。ちなみに、ルターもカルヴァンも黙示録は重要視していません。パウロのような特別の思想があるわけではないからです、ただキリスト教系新興宗教は大喜びします。(呵々大笑)
【−−略ーーさらに、第一の獣の前で行うことを許された数々のしるしによって、地上に住む人々を惑わせ、また、剣の傷を負ったがなお生きている第一の獣の像を造るように、地上に住む人たちに命じた。第二の獣は、獣の像に息を吹き込んで、獣の像がものを言うことさえできるようにし、獣の像を拝もうとしない者があれば、皆殺しにさせた。また、小さな者にも大きな者にも、富める者にも貧しい者にも、自由人にも奴隷にも、すべての者にその右手か額に刻印を押させた。そして、この刻印のある者でなければ、物を買うことも、売ることもできないようにした。この刻印とはあの獣の名、あるいはその名の数字である。ここに知恵がある。理解ある者は、獣の数字の持つ意味を考えるがよい。数字は人間を指している。そして、その数字は六百六十六である。】(同13章14〜18)
>(追記)下はジョット―の絵画ですが、左側にいる光の輪をつけている人は誰でしょうか?
これは私にも分かりません。絵画や図像についてはステルスさんが詳しいのでは?^^;
PS マタイの本文を読み返すと、この場面の登場人物は母マリアと、義父ヨセフ、幼子イエスと、三博士、それに主の天使だけですから、引き算するとヨセフかな?
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