| 悪魔ちゃんへ
>『わたしたちに与えられる最初のものは現象であり、この現象がわたしたちの意識と結びつくと、知覚と呼ばれるようになる。・・・<
wikiから原文のページに飛べるので、該当箇所みてみたよ。多分、
『Das Erste, was uns gegeben wird, ist Erscheinung, welche, wenn sie mit Bewußtsein verbunden ist, Wahrnehmung heißt, 』
だと思う。
グーグル翻訳にかけると、 『私たちが最初に与えられるのは、意識と結びついたときに知覚と呼ばれる外観です。』 って変換されたよ。
現象と訳されてるのは、Erscheinungという単語だと思う。 ネットのドイツ語辞典では『外観、外見、出現、現れ、現象、幻、風貌、幻影、見た目』という意味がのってたよ。
pipitの感覚では、カント文のこの箇所については、物自体に触発されて現れるもの、みたいな感覚じゃないかなと思ってる。
wikiで現象についてみてみたけど、哲学者で、あるいは文脈で、変わってくる可能性のある単語かもと思ったよ。
wikiより抜粋引用するね。 『現象(略)は、次のようにいくつかの意味で用いられている。
人間の知覚できる、すべてのものごと[1]。人間界や自然界に、形として現れるもの[2]。 (人にとって)見えるもの、つまり(外面的な)《現れ》のこと。出来事を、それが存在するかどうか、本当かどうか、といった、その見える<<現れ>>の背後にあるものは問題にせずに、その観察された<<現れ>>として扱うとき、それを「現象」と呼ぶ。対義語は本質。 (略) 近世の経験論のバークリーにおいては、観念や感覚所与を現象とみなして、現象主義に近い方向でそれを論じた。
ヒュームは懐疑論的にとらえ、客観性とは繋がり得ないと見なした。
カントにおいては、現象は物自体と対比され、物自体と主観との共同作業によって構成されるものと考えた。別の言い方をすると、現象というのは物自体に主観の構成が加わった結果のものであるとし、人は現象が構成される以前の物自体を認識することはできない、とした。
ゲーテは、「原現象」という名によって、学問的現象などの基底にある根本現象を呼びわけた。また一方で「現象の背後に何も探求してはならない。現象自体が教師なのだ」とも述べた。
ヘーゲルにおいては、「本質は現出する」と言われ、“「本質」は「現象」となることによってのみ存在する”とも言われた。
フッサールは、哲学や諸々の学問に確実な基礎を与えることをもくろみ、意識に直接的に現れている現象を直観し、その本質を記述する方法を追求した。そのために彼は、外界の実在性について判断を中止し(=エポケー)、それでもそのあとに残る純粋意識を分析し記述する、という方法を採用した[3]。この場合、フッサールは現象について、本体などの背後にあるものとの相関については想定しない[4]。( → 現象学)』
wikiの記述にも賛否両論、いろんな意見がありそうな気もするけどね。カント哲学の解釈はよく割れてる印象あるし。
とりあえず原文探したよ!
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