| もいちょっと、No10514 のつづきで、もうちょっとわたしが得た情報を抜粋しちゃうけど、ごめんね。
「統覚Apperzeption」について、「現象学事典」に、 〔…なお〈統覚〉の語はカントと深く関わる。カントは「純粋統覚」(根源的統覚)を「我思考するという表象を産み出すところの自己意識」だとしている。これによって、直観に与えられる多様な諸表象、一つの自己意識に属することが可能となる。ケルンによれば、フッサールは1916年夏学期以来カントの超越論的統覚の説をとり上げ、それを自我の「自己維持」の問題として展開した。しかし他方で、自己維持はフッサールにとって、世界の統一性に相関する「目的理念」でもあった。自我の超越論的な統一の問題はさらに展開し、〈習慣性〉や〈私はできる〉の分析に、さらには30年代の〈原自我〉の分析までつながる。〕 っていうところがあって、カントについてのところ、ぜんぜんわかんないので、わたし的にここにきてるっていうのもあるのかもしれない?
わたし、「表象」っていう語も出てくるとあたまに空欄ができてきちゃう。 で、 中島義道さんは「現象と表象」と題して、 〔また、現象については、しばしば「表象」という概念との異同が問題となる。その使われ方は混乱しており、現象が表象と同義であったり、また、表象が特に単なる主観的妥当性しかもたないような現象を意味することもある。日本語では区別がはっきりしないが、ドイツ語の“Erscheinung”(現象)と“Vorstellung”(表象)との区別は明確であり、前者は何ものかの現れという自動詞の名詞化であるが、後者は私が私の前に何ものかを立てるという他動詞の名詞化である。前者は物理現象とも心理現象とも言うように語自体に存在論的な限定はないが、後者は私が私の前に立てるものであり、その操作の限り「ある」という主観的存在の色合いが濃厚になる。ショーペンハウアーは『意志と表象としての世界』の冒頭で「世界は私の表象である」と宣言するが、こう語ることによって彼は、世界は何ものかの「現れ」であると言いたかったのではなく、私が私の前に立てるものにすぎない、したがって私を離れて無かもしれない、と言いたかったのである。 カントにおいては、表象は物自体との対比で図式的に使用されている。私に現れる世界(現象)はそれ自体として存在するもの(物自体)ではなく、私の思考と直観との協同によって構築したもの(表象)だ、というのがカントにおける両概念の基本的な使用法である。つまり、表象は特に物自体の絶対的実在性というあり方に対する「超越論的観念性」というあり方を強調するときに使われる。〕 って、書いてる。 っていうこと見たい。
カントの、にかんするところを書いて見ました。
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