| カントは、判断とは対象を概念へ包摂する働きであり、この働きを悟性と言ってると私は今のところ思っています。
さて、正しい、と、正しくない、について。
正しい、と、判断するときは、二つ像がいりますね。 対象、と、正解像。 この二つを使って、対象を正しいと判断する。
ここで、カントの認識論の大枠。 感性により感じたものを、悟性により把握する。 思考(概念で整理する動き)は、全部、悟性に担わせている。
つまり、正しい、正しくない、は、思考の働きに分類されて、 感じたものは、正否の領域にあるものではないということだと思っています。
ここで孫引きになって申し訳ないけど、カントの文章を引用します。 『仮象は感官の責任ではなく悟性の責任である。現象に基づいて客観的な判断を下すのは、ひとり悟性である。(Ak291、中公65、岩波85)』 (『カント哲学の核心『プロレゴーメナ』から読み解く』御子柴善之先生著、p105より引用)
もし、あなたが、わたしが、アンドロイドだとして、 感官によって得られる主観的データは、ただ一つ。 それが、直観という場に現れた、カント的な『現象』なのかな、と、今のところ思っています。
主観的には正しいも正しくもない、得られるのは、そのデータ、ということがあるのみ。
その主観的データ、から、【『知る』の対象】を如何に規定(創造、とまでいうと言い過ぎなのかな?)していくのか? また、その主観的データ自体も既に規定が入っているのか?
そういうことも考えていたのがカントだと思っています。
とりあえずここまでを投稿します。
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