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■10978 / inTopicNo.1)  悪魔ちゃんへ
  
□投稿者/ pipit -(2021/02/12(Fri) 20:42:33)
    長〜〜〜いタイピングありがとう! おつかれさま m(_ _)m

    中ちゃん先生の、読解にチャレンジしてみよっか

    気が向いたら、一緒に読んでみてねん (^ ^)

    (今日はテレビで『カイジ』見るかもやから、ちょっとずつ進ませてもらうね!)
引用返信/返信 削除キー/
■10973 / inTopicNo.2)  Re[78]: 超越論的
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/02/12(Fri) 18:45:17)
    ■10972のつづき

    〔周辺用語との区別について
    ここで、補足的に多くの研究者が誤用している「超越論的主観」(transzendentales Subjekt)という言葉の原意に触れておく。カントの場合、いまだ「主観」という言葉には「基体」(Substratum)という意味が残っており、それは実体としての不滅の魂という意味を呼び起こす危険性を持っている。そこで、彼は自我についてはこうした「超越論的主観」という側面を徹底的に批判し、「作用体」という側面だけをあらわす「超越論的統覚」を採用した。つまり、カントにとって、自我とは「超越論的統覚」であって「超越論的主観」ではないのである。
     次に、「超越論的」と「純粋」(rein)と「ア・プリオリ」(a priori)との区別に触れておく。
    「純粋」は、カントの場合、経験的(empirisch)ではないという否定的意味が基本であるが、積極的に理性だけからという意味を担って「根源的」(ursprünglich)と言い換えられることもある。例えば「純粋統覚」とはいかなる経験的なものも含まない統覚であるが、「超越論的統覚」とは「経験を可能にする諸条件」を含むような統覚である。「純粋総合」とは経験的な混入物を洗い流した純粋な線のような総合であるが、「超越論的総合」とは「経験を可能にする諸条件」を含む「時間」という特有の線のような総合である。
    また「ア・プリオリ」は「ア・ポステリオリ」に対する言葉であるが、カントの場合、同じように「経験的」に対立する言葉として「純粋」と重なる。しかし、違いが強調される場合もあり、「すべて変化は原因をもつ」という判断は経験に由来しないという意味でア・プリオリであっても「変化」という物質に関する判断だから、経験的なものが混入しており「純粋」ではないとされる。一方、「7+5=12」のような数学的判断は経験的なものが混入していなから、ア・プリオリであってかつ純粋な判断ということになる。だが、この用語法が常に守られているわけではない。そして、再確認すれば、「超越論的」とは単に「経験的な混入物がない」ことではなく、「経験的な混入物がない」にもかかわらず経験に適用されるのはなぜか、という問いの全体に関わることである。
     これに関連して、「超越論的」という言葉(カントの原意)は「相互主観的」(intersubjektiv)とは相容れないことを強調しておく。「超越論的」とは「事実問題」(quid facti)ではなく「権利問題」(quid juris)であり、カントは地上の上の人間すべてが事実合意しても客観性は保証されない、と考える。客観性とは、こうした「相互主観性」を超えたところにあり、しかも単なる「目的」や「理念」ではないものとして了解されている。それは独自の要請である。言い換えれば、「超越論哲学」を求めるか否かは「ひとつの客観的な実在世界」を求めるか否かの問題であり、これは(フィヒテが強調するように)「関心」の問題であり、究極的には各人の「生き方」の問題である。〕

    「相互主観的」っていうのはフッサールのだと思う。

    ごめんね100にしちゃったかも。

    わたしの勝手なのはWhatのところにします。



引用返信/返信 削除キー/
■10972 / inTopicNo.3)  Re[77]: 超越論的
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/02/12(Fri) 18:40:11)
    pipitさま、いろいろとありがとうございます。

    カントの「アプリオリ」っていうのはなんとなくわかったんだけど、「超越論的」っていうの、何言ってるかほとんどわかんない。

    わたしが読んだ中島義道さんの超越論的のを書きうつして見ます。

    少し長いけど

    〔超越論的transzendental 

    この言葉は、スコラ哲学において、「一」「有」「善」「美」などアリストテレスのカテゴリーの区別を超えるあり方を表す言葉“transcendentalia”に由来する。それが、カントにおいて“transzendent”という言葉との関連において、豊かな内実をもって展開されることになった。だが、カント以降この言葉を使用しながら、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルを経てとりわけフッサールさらにアペール、ブプナーなどが本来の意味を単純化・平板化してしまった。ここでは、カントの原意に沿って述べてゆく。〕

    〔超越的と超越論的
    まず強調されねばならないこと(そしてほとんどの人が無視していること)は、「超越論的」と「超越的」(transzendent)と不可分の概念だということである。神や死後の魂の永遠などの人間の認識を超えるものに関することを「超越的」と呼ぶが、「超越論的」とはこの基本構図をのこしたまま、積極的意味と消極的意味とをあわせ持っている。積極的意味はさらに二局面に分かれる。第一は、人間の認識の限界を定めるという機能、そして第二は、その限界内でさらに夢や錯覚や妄想や印象から「客観的な実在世界」を区別する機能である。カントによると、この両機能は人間理性を探ることによりいっきょに見いだされる。つまり、各人がただただ理性を省みさえすれば、そのうちに「経験を可能にする諸条件」として時間・空間・(物の基本的あり方としての)カテゴリーを見出すことができ、これらによって構成できる限界が「可能な経験」の限界である。また、「経験を可能にする諸条件」とは、同時に時間・空間における物の基本的あり方なのだから、はじめからそのうちに夢や妄想などと区別された「客観的な実在世界」を抽出できる機能を含んでいる。すなわち、ただ人間理性のうちから「経験を可能する諸条件」を見いだし、それによって「可能な経験」(「客観的な実在世界」)を構成するという以上の手続きに関するすべてが「超越論的」と呼ばれる。『純粋理性批判』の「超越論的感性論」「超越論的論理学」「超越論的分析論」などのタイトル、またこの手続きにおいて主要な役割を演ずる「超越論的統覚」「超越論的構想力」「超越論的時間規定」「超越論的図式」などはこの意味で使われている。
    カント以降、「超越論的」という用語はこの意味に限定されてしまったと言ってよい。しかし、カントにおいてはこの積極的意味と表裏一体をなして、次の消極的意味が息づいているのである。
    人間の認識の限界を設定することができるためには、われわれはその外側に位置する「超越的なもの」に――認識できなくとも――何らかの仕方で関与できねばならない。カントによれば、人間理性は「超越的なもの」に「仮象」(Schein)というかたちで関与するのである。つまり、「超越的なもの」を捉えようとすると人間理性は必ず仮象に陥るが、その仮象への陥り方に関することすべてに消極的意味における「超越論的」という言葉が付される。『純粋理性批判』のうちで「超越論的弁証論」というタイトルはこれを直接示しているが、そこにおいて主導的な役割を演ずる「超越論的仮象」「超越論的理念」「超越論的自由」などは、こうした意味で使われている。また、『純粋理性批判』において以上の(積極的・消極的)二重の意味を含む方法論は「超越論的方法論」である。
    こうして、カントの認識論は(イ)人間の認識の限界を設定し、さらにそのうちで客観的な実在世界を構成する積極的意味と、(ロ)人間理性が「超越的なもの」を捉えようとすると仮象に陥ることを示す消極的意味とから成り、この二重の意味で「超越論的」である。こうした基本構図を有する哲学が「超越論哲学」であり、それは人間理性を超える実在論ではないから「超越論的観念論」である。〕

    2000文字以内っていうことなので、このつづきは次に。

引用返信/返信 削除キー/
■10969 / inTopicNo.4)  アプリオリ
□投稿者/ pipit -(2021/02/12(Fri) 10:54:38)
     西研さん『100分de名著 カント 純粋理性批判』のNHKテキストに、〈カント哲学を読むためのキーワード集〉が載っていたので、参考の一つとして引用します。

    『〈ア・プリオリ〉
       もともとラテン語で「〜より先に」の意味を持つ。カントはこの意をふまえ、「経験に先立つもの」「経験によらないもの」の意味で用いた。反対語は、ア・ポステリオリ(「〜より後に」が原義)で「経験から得られるもの」の意。カントは、経験のみでは普遍的な知識は得られないと考え、経験に先立つものとして、感性や悟性の働きを考察した。すなわち、人間が対象を客観的に認識するためには、感性と悟性それぞれにア・プリオリな形式が備わっていなければならないと考えた。』

    『〈超越論的〉
        カントは、経験を可能にする条件を吟味することを「超越論的」と呼び、経験可能な領域の外部に超え出ていることを意味する「超越的」と区別した。たとえば、神を認識できるかどうかは、超越的な認識の問いであって、超越論的ではない。経験を可能にする感性や悟性、統覚の働きを吟味することが、カントのいう超越論的な哲学の探究である。』

    p128.130より引用。





引用返信/返信 削除キー/
■10967 / inTopicNo.5)  超越論的と超越的の区分
□投稿者/ pipit -(2021/02/12(Fri) 10:30:25)
    超越的/超越論的  
    [transzendent : transzendental 独]
    の区別を、池松辰男さんが説明したページがありました。フッサールの名前も登場しますよ(^^)アドレスをご紹介します。

    https://imidas.jp/genre/detail/L-101-0119.html
引用返信/返信 削除キー/
■10966 / inTopicNo.6)  おくたがわさんへ
□投稿者/ pipit -(2021/02/12(Fri) 07:40:00)
    おはようございます。

    No10949に返信(pipitさんの記事)
    > 2021/02/11(Thu) 17:38:02 編集(投稿者)
    >
    > コメント嬉しいです、ありがとうございます(^^)
    >
    > ■No10941に返信(おくたがわさんの記事)
    >>カント自身が端的に説明しているのですね。ありがとうございます!
    >>
    >>>(カントの文章の中山元先生訳)
    >>『わたしは、対象そのものを認識するのではなく、アプリオリに可能なかぎりで、わたしたちが対象を認識する方法そのものについて考察するすべての認識を、超越論的な認識と呼ぶ。』
    >>『純粋理性批判1』中山元先生訳、光文社古典新訳文庫p57より引用<
    >>
    >>『アプリオリに可能なかぎりで』は『わたしたちが対象を認識する(方法)』にかかると考えていいのでしょうね? 御子柴さんの説明だとそうなりますね。他の人の説明でもそうなっているように思いますし。
    >>>(御子柴善之先生の解説文章)
    >>>対象そのものではなく、対象認識の仕方を対象とした認識、それもア・プリオリな認識仕方を認識するのが「超越論的」な認識です。<
    >>
    >>
    >>細かいことが気になる悪い癖ですみません。面倒でしたらスルーしてください。<
    >
    > 全然面倒ではありません。
    > わたし(も?)細かいところが気になってしまいます(^^;)
    > その文章を記した人を信頼してることでもあるかな、と、思う面もありますけどね。
    > その表現にした理由が、きっとなにかあるはず、それを知りたい、と思ってしまいます。
    >
    > >『アプリオリに可能なかぎりで』は『わたしたちが対象を認識する(方法)』にかかると考えていいのでしょうね?<
    >
    > そうだと思っています。<

    うーん、再度考えてみると、
    『アプリオリに可能なかぎりで』は『(方法そのものについて)考察する』にかかってると考えることもできるかも、と、思いました。
    おくたがわさんは、その可能性も思われてたのかな?
    いつも多様な可能性を考慮して、複眼的に物事を捉えられますよね。うらやましい!


引用返信/返信 削除キー/
■10965 / inTopicNo.7)  超越論的な認識とアプリオリな認識の区別
□投稿者/ pipit -(2021/02/11(Thu) 23:45:17)
    みなさまこんばんは〜
    カントによる、アプリオリな認識と超越論的な認識の区別を説明した文章を引用します。

    (カントの文章)中山元先生訳
    『ここで、以下の考察のすべてに影響するため、とくに注目すべき重要な点に注意を促しておきたい。
    それはアプリオリな認識がすべて超越論的な認識であるとはかぎらないということである。

    超越論的な認識と呼ばれるものは、あるアプリオリな認識のために、わたしたちが特定の像(直観や概念)をアプリオリに使わざるをえないか、あるいはアプリオリに使うことが可能であることを認識する場合にかぎられるのである。

    言い換えれば超越論的な認識とは、[アプリオリな認識そのものではなく]認識のアプリオリな利用にかかわるか、認識のアプリオリな可能性にかかわるものなのである。

    だから空間も、空間についての特定のアプリオリな幾何学の規定も[アプリオリな像や観念ではあるが]、超越論的な像や観念[=表象]ではない。
    こうした像や観念がまったく経験的な源泉から生まれたものではないという認識と、それにもかかわらずこうした像や観念が、経験の対象とアプリオリにかかわることができるという可能性だけを、超越論的な認識と呼べるのである。』
    『純粋理性批判2』中山元先生訳、p27.28より引用

    ********

    同じ箇所?を御子柴善之先生が解説された文章を引用します。カントの文章を御子柴先生が訳された箇所は【 】で囲っておきます。

    (御子柴善之先生の解説文章)
    『〈超越論的認識とア・プリオリな認識〉
    なお、カント自身が「超越論的論理学」という呼称に関連して、私たちの注意を喚起する文章を書いていますので、それを確認しておきましょう。

    【 ここでひとつ注意をしておこう。この注意は、以下に続くすべての考察に影響を及ぼすものであり、しっかり念頭に置かれねばならないものである。
    あらゆるア・プリオリな認識を超越論的と呼んではならない。
    超越論的(すなわち、ア・プリオリな認識の可能性あるいはア・プリオリな認識の使用)と呼ばれねばならないのは、なんらかの表象(直観あるいは概念)がもっぱらア・プリオリに適用されること、またいかにして適用されるか、あるいはその表象がア・プリオリに適用可能であること、またいかにして適用可能であるかを、それによって私たちが認識するア・プリオリな認識である。(A56/B80) 】

    これは複雑な文章なので、例を挙げて説明しましょう。三角形の内角の総和が二直角であることも、7+5が12であることも、ア・プリオリな認識ですが、これらは超越論的認識とは呼ばれません。
    超越論的認識とは、そうしたア・プリオリな認識が可能であること、またいかにして可能であるかを認識させるような、ア・プリオリな認識なのです。

    したがって、超越論的という形容詞が用いられるのは、認識の対象についてではなく、私たちのこころの表象についてなのです。
    私たちはやがて「超越論的対象」や「超越論的理念」という表現に出会うでしょうが、このことを忘れないことが大切です。
    もちろん「超越論的論理学」についても同様です。先に、超越論的論理学は対象にかかわる純粋思考を対象にしていると記しましたが、対象にかかわるからといって、この論理学は対象領域の側に論理を見出そうとするものではありません。』
    『カント純粋理性批判』御子柴善之先生著、p113.114より引用。



引用返信/返信 削除キー/
■10955 / inTopicNo.8)  Re[73]: 認識
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/02/11(Thu) 18:46:15)
    お邪魔しちゃう。

    >カント自身が、アプリオリな認識と超越論的な認識の区別について説明してるところがある<
    わたし、なんか楽しみ。
    pipitさま、よろしくおねがいしま〜す!
引用返信/返信 削除キー/
■10949 / inTopicNo.9)  おくたがわさんへ
□投稿者/ pipit -(2021/02/11(Thu) 17:34:55)
    2021/02/11(Thu) 17:38:02 編集(投稿者)

    コメント嬉しいです、ありがとうございます(^^)

    No10941に返信(おくたがわさんの記事)
    > カント自身が端的に説明しているのですね。ありがとうございます!
    >
    > >(カントの文章の中山元先生訳)
    > 『わたしは、対象そのものを認識するのではなく、アプリオリに可能なかぎりで、わたしたちが対象を認識する方法そのものについて考察するすべての認識を、超越論的な認識と呼ぶ。』
    > 『純粋理性批判1』中山元先生訳、光文社古典新訳文庫p57より引用<
    >
    > 『アプリオリに可能なかぎりで』は『わたしたちが対象を認識する(方法)』にかかると考えていいのでしょうね? 御子柴さんの説明だとそうなりますね。他の人の説明でもそうなっているように思いますし。
    > >(御子柴善之先生の解説文章)
    > >対象そのものではなく、対象認識の仕方を対象とした認識、それもア・プリオリな認識仕方を認識するのが「超越論的」な認識です。<
    >
    >
    > 細かいことが気になる悪い癖ですみません。面倒でしたらスルーしてください。<

    全然面倒ではありません。
    わたし(も?)細かいところが気になってしまいます(^^;)
    その文章を記した人を信頼してることでもあるかな、と、思う面もありますけどね。
    その表現にした理由が、きっとなにかあるはず、それを知りたい、と思ってしまいます。

    >『アプリオリに可能なかぎりで』は『わたしたちが対象を認識する(方法)』にかかると考えていいのでしょうね?<

    そうだと思っています。

    おくたがわさんがコップを認識するとして、
    [おくたがわさんがコップを認識する方法の中でも、方法の内に組み込まれているアプリオリでしか可能とならない認識の部分]を認識するのが、
    超越論的な認識、
    ということだと思っています。

    伝わるかなあ(>人<;)

    カント自身が、アプリオリな認識と超越論的な認識の区別について説明してるところがあるので、次の投稿で引用します。
    そのカントの文章を解説した、御子柴善之先生の文章も合わせて引用します。

    また後ほど投稿します。


    悪魔ちゃんにも、おくたがわさんにも、(もちろんパニチェさんにも!)感謝しています。




引用返信/返信 削除キー/
■10941 / inTopicNo.10)  Re[74]: 超越論的という語
□投稿者/ おくたがわ -(2021/02/11(Thu) 07:55:38)
    No10919に返信(pipitさんの記事)
    カント自身が端的に説明しているのですね。ありがとうございます!

    >(カントの文章の中山元先生訳)
    『わたしは、対象そのものを認識するのではなく、アプリオリに可能なかぎりで、わたしたちが対象を認識する方法そのものについて考察するすべての認識を、超越論的な認識と呼ぶ。』
    『純粋理性批判1』中山元先生訳、光文社古典新訳文庫p57より引用<

    『アプリオリに可能なかぎりで』は『わたしたちが対象を認識する(方法)』にかかると考えていいのでしょうね? 御子柴さんの説明だとそうなりますね。他の人の説明でもそうなっているように思いますし。
    >(御子柴善之先生の解説文章)
    >対象そのものではなく、対象認識の仕方を対象とした認識、それもア・プリオリな認識仕方を認識するのが「超越論的」な認識です。<


    細かいことが気になる悪い癖ですみません。面倒でしたらスルーしてください。
引用返信/返信 削除キー/
■10940 / inTopicNo.11)  Re[73]: おくたがわさんへ2
□投稿者/ おくたがわ -(2021/02/11(Thu) 07:45:36)
    No10906に返信(pipitさんの記事)
    > ■No10894に返信(おくたがわさんの記事)

    > おくたがわさんは、中山元先生の『純粋理性批判1』は読めますか?
    > p308、309に、中山先生の関連する解説があります。
    >
    > もし読めないよということなら、自分の勉強にもなりますので、引用しますのでおっしゃってくださいね(^^)

    1巻はアマゾンの読み放題に入っているのですが、今は解約しています。
    ただ、同じ中山元さんの「善悪の彼岸」も読み放題なので、また入会して読もうかと思っているところです。(ニーチェがなぜ先天的綜合判断を誤謬としたかという件面白く思うので。答えは書いてないのでしょうが、前後関係を読んでみたいと。)
    読めなかった場合はまたお願いするかもしれません(純粋理性批判1の方)、すみません。
引用返信/返信 削除キー/
■10939 / inTopicNo.12)  Re[72]: おくたがわさんへ
□投稿者/ おくたがわ -(2021/02/11(Thu) 07:37:42)
    No10904に返信(pipitさんの記事)
    返事ありがとございます!
    色々な情報を頂けて分かりやすいです。

    向こうの話を遡ってみたら、悪魔ちゃんもすでに以下のような引用をしていました。
    > 〔…最後に、翻訳について触れておく。「超越論的」は九鬼周造が昭和4(1929)年にはじめて使用したと言われており、意外に歴史は古い。それまで、そしてこれ以降も長く“transzendental”には「先験的」という訳が定着している。この訳語は、「経験的」(empirisch)との対語が明瞭であるだけ一面的な意味に引きずられ、「純粋」や「ア・プリオリ」と区別がつかなくなる。また、”transzendental”のもうひとつの意味である「超越するもの」との消極的連関を捉えきれていない。「先験的弁証論」では何のことかわからないであろう。そこで、近年特に現象学の隆盛と相まって、言葉としては硬いがむしろ「超越的」との連関も示しながらその複雑な意味を含むという利点をもった「超越論的」が支配的になってきた。だが、依然として「先験的」という訳語を使っている研究者もおり、個々の例について「先験的」と「超越論的」に訳し分けている研究者もいるのが実情である。〕<
    (中島義道「超越的と超越論的」)

    こういうところを読まないで返信していてすみませんでした。

    でも、もちろんpipitさんの情報はありがたいです。
引用返信/返信 削除キー/

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