| なんでチェーホフを読むのが遅れたかというとどうせ凡人しか出てこないんだろという思い込みのため。 凡人による人間観察なんて出るのはアクビだけ。ではカネを積まれても読みたくないよだれまみれの自分史や 捨て本屋の露台で叩き売りされる変色した資源ゴミとチェーホフの違いはなにか。
凡人が凡人を観察するとどうしても自分を投影しすぎてしまい土建屋の書いたハイデガー批判、 マリー・アントワネットが考えた農民の生涯、フグ養殖業者の書いた国際スパイアクション みたいな珍妙なものとなる。本人はドヤ顔で文芸誌に送りつけたりするが三文編集者により ゴミ箱直行。トンデモ本大賞で笑いを取れるくらいひどい本はプレミアがついてマニアに 珍重されることもあるけどね。
チェーホフの小説の場合は一見凡人なんだけどもラスコーリニコフやヒトラーがまぶしてあったりする。 これはなかなかできることじゃない。田吾作が突然ニーチェみたいなことを言い出したりするので スリルがある。こんな例は身の回りにもよくあり人生の最初から最後まで凡人に徹する なんてことは逆に少ないと思うね。人生の岐路で凡人が修道僧のように変貌するのも見た。 チェーホフは凡人が啓示を得る瞬間を含めて扱うので鼻垂れ小僧向け紙芝居にならない。
皆さんも家に眠る退屈そうな世界文学全集を中立的に読んでみたらどうですかな?
しかしチェーホフなら4行で伝えられる話なのに牛のよだれのように間延びししてしまうのは 悲しいもんだ。来年は丑年だからしかたないか。
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