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■8836 / inTopicNo.13)  Re[31]: 言語ゲーム
  
□投稿者/ knowing itself -(2020/11/08(Sun) 15:50:39)
    パニチェさんへ


    No8811に返信(パニチェさんの記事)
    > ■No8798に返信(knowing itselfさんの記事)
    >>永井的なウィトゲンシュタインでは、倫理も、美も、宗教も、神秘も、超越性も、死も言語ゲームが届く領域だとされています。それらは言語ゲームそのものだと。言語ゲームを超えるものは〈無い〉のだと。
    >
    >>しかし語りえぬものはなお残るとされている。個人的な永井読書体験からいえば、語りえぬものとは〈私〉のことだとしか考えられません。その〈私〉を最も端的に表現しているのが第五図だと、永井さん本人が主張しているのは、いままでカキコしてきたとおりです。
    >
    > 第五図と〈私〉が同じものであるかどうかは今の私には分かりませんが、その箇所以外は同意です。
    > 〈私〉と表記した時点で言語ゲームに乗っかってます。

    そういう捉え方もできるでしょう。個人的には、第四図が言語ゲームで、第五図が語りえぬものと捉えています。すべてが言語ゲームであるが、語りえぬものは残りそれは言語ゲーム内にはないということがはっきりします。


    > でもその内包は言語ゲームの網目をすり抜ける。
    > 言語ゲーム外と言語ゲーム内を行ったり来たりする永井さんが言うところの「独在と頽落の終わることなき拮抗運動」です。
引用返信/返信 削除キー/
■8833 / inTopicNo.14)  Re[22]: 言語の限界は言語ゲームの限界
□投稿者/ パニチェ -(2020/11/08(Sun) 11:40:35)
    2020/11/08(Sun) 11:43:35 編集(投稿者)

    おはようございます、ななしさん。レスありがとうございます。

    No8831に返信(ななしさんの記事)

    > パニチェさんとしては、何が、あるいは、どこが『中論に似ている』と感じられたのでしょうか。
    > <縁起の法>の「縁起」とは、<相互依存関係>を意味し、これは<空の思想>にいう「空」と同義で、<相互依存関係>のため<実体がない!>のであり、「縁起」すなわち「空」とは、<意味上のつながり>というか<意味のネットワーク>のようなもので「実体が無い」ということでしょうか。
    > これは、後期ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」による言葉とは、<言語の使用上のつながり>のルールがあるだけで、ルールが変われば当然、意味も違ってくる。
    > このように「言語ゲーム」とは、「実体が無い」ことを意味するものと、龍樹も「言語ゲーム」という言葉は使っていませんが考えていたのかなと思ったりしますが、如何でしょうか。

    鋭いですね。^^
    全くその通りで、同意です。
    言語ゲームは語り得るもの一切は言語的存在(意味的存在)であり、言語を離れて固定的かつ実体的なものはないということ。
    中論は全ての存在(色)は相依性的なものであり、これを離れて固定的かつ実体的なものはないということ。

    さらに言語不可能(不立文字)な対象については帰謬法的な(○○は○○ではない)記述でしか示し得ないとしていることも共通していると思います。

    少し帰謬法とは離れますが、以下の二つの考察。

    『ひとつの風景画、幻想風景を考え、その中に家が一軒あり ―― 誰かが「この家は誰のものか」と尋ねたとせよ。 ―― これに対する答えはさらに「その前の台に腰かけている農夫のものだ」といったものでありえよう。でも、その場合、この農夫は、自分の家にたとえば足を踏み入れることができない。(哲学探究 398)』

    『まず、すでに去ったもの(己去)は、去らない。まだ未だ去らないもの(未去)も去らない。さらに<すでに去ったもの>と<未だ去らないもの>とを離れた<現在去りつつあるもの>(去時)も去らない。(中村元著「龍樹 中論第二章運動の考察」より引用)』

    言語は表現した瞬間に固定化してしまうため、無常なる対象については厳密には捉えきれないところに言語ゲームの限界があるということ。

引用返信/返信 削除キー/
■8831 / inTopicNo.15)  Re[21]: 言語の限界は言語ゲームの限界
□投稿者/ ななし -(2020/11/08(Sun) 10:44:55)
    パニチェさん、横失礼します。

    > 生を含めた全てが言語ゲームであり、これをもって語り尽くしたとすれば上の考察はでてこないように思う。上記は言語ゲームの限界と言語批判を含みつつ語り得ないことは語らずして示すものであることを暗黙のうちに示している。
    >
    > なんかほんと> 生を含めた全てが言語ゲームであり、これをもって語り尽くしたとすれば上の考察はでてこないように思う。上記は言語ゲームの限界と言語批判を含みつつ語り得ないことは語らずして示すものであることを暗黙のうちに示している。
    >
    > なんかほんと中論に似ている。
    > そういえば黒崎宏著「ウィトゲンシュタインから龍樹へ」という書籍もあります。

    パニチェさんとしては、何が、あるいは、どこが『中論に似ている』と感じられたのでしょうか。

    <縁起の法>の「縁起」とは、<相互依存関係>を意味し、これは<空の思想>にいう「空」と同義で、<相互依存関係>のため<実体がない!>のであり、「縁起」すなわち「空」とは、<意味上のつながり>というか<意味のネットワーク>のようなもので「実体が無い」ということでしょうか。

    これは、後期ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」による言葉とは、<言語の使用上のつながり>のルールがあるだけで、ルールが変われば当然、意味も違ってくる。

    このように「言語ゲーム」とは、「実体が無い」ことを意味するものと、龍樹も「言語ゲーム」という言葉は使っていませんが考えていたのかなと思ったりしますが、如何でしょうか。


引用返信/返信 削除キー/
■8828 / inTopicNo.16)  Re[20]: knowing itselfさんへの質問
□投稿者/ パニチェ -(2020/11/08(Sun) 09:26:27)
    おはようございます、knowing itselfさん。レスありがとうございます。

    No8789に返信(knowing itselfさんの記事)
    >>上記の内容から察するにknowing itselfさんは〈私〉とスクリーンは同類ではなく、むしろ〈私〉は映画内容にあるようなイメージでしょうか。
    > 〈私〉はスクリーン上から映画内容を意識しているその意識それ自体ですから、〈私〉とスクリーンは同類です、というかスクリーンそのものです。

    なるほど、knowing itselfさんにとっては、やっぱそうなんですね。
    私はまだスクリーンについてよく分かってないので、ペンディングです。

    > スクリーンは不二ですが、映画内容は70億個それぞれ違います。個人はその一つだけしかわからない。この意味で私秘性があります。映画はスクリーンに上映されて初めてリアルになりますが、私秘性の体感はスクリーン以外のいかなる場所にもありえないという意味です。70億のそれぞれに私秘性をもつ映画がたった一つのスクリーンに上映されるというイメージです。

    私秘性の位置は上記の説明で分かりました、が。。。。
    映画内容は70億個それぞれ違い、個人はその一つだけしかわからないとすれば間主観性はどのようにしてありえますか?

引用返信/返信 削除キー/
■8826 / inTopicNo.17)  knowing itselfさんへ
□投稿者/ minori -(2020/11/08(Sun) 09:06:21)
    knowing itselfさん、こんにちは。

    デカルトのコギトについて、質問したい内容を私のトピに書いてみましたので、お手数をお掛けして申し訳ないのですが、よかったら教えていただけますでしょうか。
引用返信/返信 削除キー/
■8819 / inTopicNo.18)  Re[20]: 言語の限界は言語ゲームの限界
□投稿者/ パニチェ -(2020/11/07(Sat) 21:11:46)
    2020/11/08(Sun) 10:59:57 編集(投稿者)

    No8784に返信(パニチェさんの記事)

    > そして前期の「5.6 私の言語の限界が私の世界の限界を意味する」と「7.語りえないことについては沈黙しなければならない」は後期も有効だと思います。
    > 探究の395以降はそのことを示していると思います。


    No8791に返信(パニチェさんの記事)
    > もしよければ帰宅後に探究の395以降を引用してみます。

    No7942で既に引用していました。

    **** 以下、「哲学探究 398」より引用 *****

    398.「でも、何かを想像したり、あるいは実際に対象を見ているとき、わたくしは隣人の感じていない何かを感じている。」 ―― あなたの言うことは分かる。あなたは自分のまわりを見渡して、「わたしだけがこれを感じている」と言いたいのだ。 ―― こうしたことばは何のためか。それは何の役にも立っていない。 ―― そこで、ひとはまたこうも言えないか、 「ここでは<見る>ことも ―― それゆえまた<〔感じを〕もつこと>も ―― そして主体も──それゆえまた自我も、話題にはなっていないのだ」と。 私はこう尋ねることができないだろうか、あなたがそれについて語っているもの、自分だけしかもっていないと言っているもの、── これをあなたはそれではどの範囲でもっているのか、と。あなたはそれを所有しているのか。あなたはそれを見ることすらないのだ。そう、あなたはそれについては、何人もそれをもっていない、と言わなくてはならないのではないか。じっさいにまた、はっきりしているのは、他人が何かをもっている、ということをあなたが論理的に排除するのであれば、あなたがそれをもっていると言うこともまた意義を失う、ということ。 ・・<中略>・・ 言い換えれば、わたくしがまさに、自分の坐っている物質的な部屋に対するのと同様、それに対しても同じ表現形式を適用したいと思っている限り、それはわたしに所属していないのである。この前者の記述は、所有者に言及する必要がないし、またたしかに所有者のいる必要もない。しかし、そのときには、この視覚上の部屋には所有者などありえないのである。 「なぜなら、その外部にも、内部にも、主人などいないからである」── とひとは言うことができよう。ひとつの風景画、幻想風景を考え、その中に家が一軒あり ―― 誰かが「この家は誰のものか」と尋ねたとせよ。 ―― これに対する答えはさらに「その前の台に腰かけている農夫のものだ」といったものでありえよう。でも、その場合、この農夫は、自分の家にたとえば足を踏み入れることができない。

    ***************** 引用終わり ****************

    生を含めた全てが言語ゲームであり、これをもって語り尽くしたとすれば上の考察はでてこないように思う。上記は言語ゲームの限界と言語批判を含みつつ語り得ないことは語らずして示すものであることを暗黙のうちに示している。

    なんかほんと中論に似ている。
    そういえば黒崎宏著「ウィトゲンシュタインから龍樹へ」という書籍もあります。
引用返信/返信 削除キー/
■8811 / inTopicNo.19)  Re[30]: 言語ゲーム
□投稿者/ パニチェ -(2020/11/07(Sat) 20:16:02)
    No8798に返信(knowing itselfさんの記事)
    > 永井的なウィトゲンシュタインでは、倫理も、美も、宗教も、神秘も、超越性も、死も言語ゲームが届く領域だとされています。それらは言語ゲームそのものだと。言語ゲームを超えるものは〈無い〉のだと。

    > しかし語りえぬものはなお残るとされている。個人的な永井読書体験からいえば、語りえぬものとは〈私〉のことだとしか考えられません。その〈私〉を最も端的に表現しているのが第五図だと、永井さん本人が主張しているのは、いままでカキコしてきたとおりです。

    第五図と〈私〉が同じものであるかどうかは今の私には分かりませんが、その箇所以外は同意です。
    〈私〉と表記した時点で言語ゲームに乗っかってます。
    でもその内包は言語ゲームの網目をすり抜ける。
    言語ゲーム外と言語ゲーム内を行ったり来たりする永井さんが言うところの「独在と頽落の終わることなき拮抗運動」です。
引用返信/返信 削除キー/
■8810 / inTopicNo.20)  Re[20]: ハエ取り壺
□投稿者/ パニチェ -(2020/11/07(Sat) 20:06:54)
    横レス御免!^^

    No8792に返信(knowing itselfさんの記事)

    > 参考までに、「ウィトゲンシュタインはこう考えた」鬼界彰夫p255から引用します。小見出しは「言語と生の不可分性」

    これも私持ってます。
    〈私〉についてはP.167〜P.168で少しだけ取り上げられていますが全体のページに対して2ページで終わらせるほどウィトゲンシュタインはこのテーマについて軽視はしていないと思います。
    ちょっと鬼界氏の解説は物足りないところがあります。
引用返信/返信 削除キー/
■8805 / inTopicNo.21)  Re[30]: ハエとり壺
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/11/07(Sat) 19:02:24)
    ななしさん
    >ウィトゲンシュタイン自らの哲学の目的を語っているもので、「ウィトゲンシュタイン自身」の事だと思います。<
    ありがと。
引用返信/返信 削除キー/
■8804 / inTopicNo.22)  Re[29]: ゲーム
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/11/07(Sat) 18:33:13)
    「言語ゲーム」だっって。

    ウィトが言う「ゲーム」ってどういう意味でつかってるのかしら?
    「遊びごと」「遊戯」「競技」「試合」「勝負」みたいな?

    だとしたら、彼、「言語(言う語)」の意味を知らない人ね。
    こんな人の言語されたものはわたしには価値ない。

    彼も書いてる。
    【おそらく本書は、ここに表されている思想――ないしそれに類似した思想――をすでに自ら考えたことのある人だけに理解されるだろう。−―それゆえ教科書ではない。−―理解してくれたひとりの読者を喜ばしえたならば、目的は果たされたことになる。】(『論理哲学論考』)って。

    彼はね、
    「おはよ〜!」「きょうはいい天気ですね。」
    の意味がわかんないのよ。っていうか、そんなの理解する必要がないっていう類ね。

    いちおう読んだけど、理解しよとは思わなかったし、とってもじゃないけど彼のような栽培人間にはないりたくないものだわ、って思っただけ。

    かわいそうに・・・言語にプアーであわれな人だったみたいね。

引用返信/返信 削除キー/
■8801 / inTopicNo.23)  「ウィトゲンシュタイン入門」永井均
□投稿者/ minori -(2020/11/07(Sat) 17:06:08)
    No8790に返信(knowing itselfさんの記事)
    > パニチェさんとminoriさんはたしかおもちでしたね?
    >
    > 同書のp28とp216
    >
    > ここに言語ゲームと語りえぬものについての、永井的なウィトゲンシュタイン解釈の一端が表現されていますね。

    持ってはいるんですが、難しくて読めないでいます。
    でも、該当部分に後で目を通してみます。 ページを( ..)φメモメモ

    (理解できてないので、この話題でのやりとり参加は私はしません、というか、できません。)
引用返信/返信 削除キー/
■8798 / inTopicNo.24)  言語ゲーム
□投稿者/ knowing itself -(2020/11/07(Sat) 16:43:06)
    永井的なウィトゲンシュタインでは、倫理も、美も、宗教も、神秘も、超越性も、死も言語ゲームが届く領域だとされています。それらは言語ゲームそのものだと。言語ゲームを超えるものは〈無い〉のだと。

    しかし語りえぬものはなお残るとされている。個人的な永井読書体験からいえば、語りえぬものとは〈私〉のことだとしか考えられません。その〈私〉を最も端的に表現しているのが第五図だと、永井さん本人が主張しているのは、いままでカキコしてきたとおりです。
引用返信/返信 削除キー/

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