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■10001 / inTopicNo.61)  無我と真我
  
□投稿者/ パニチェ -(2020/12/13(Sun) 09:26:55)
    2020/12/13(Sun) 11:15:07 編集(投稿者)

    「私は〇〇である」

    上記のような表現(述語)つまり言語で語られる「私」は私そのものだとは言えない。他者が私を分別するところの私ではあるが、〇〇であるのは私以外でもありえるし、〇〇でない状態もありえる。〇〇でない状態であっても、私ではないってことはない。

    言語で表現される私は無常(常にその状態でありえるものはない)の対象であり、生滅を繰り返す対象でしかない(三法印:諸行無常)。

    四苦(生苦・老苦・病苦・死苦)

    無常のものに常住不変を願う(執着する)ところに苦が生じる。
    病気になった時にかつて健康であった身体に執着する限り苦は続く。身体も他者の心も地位や名誉や財産もこれに同じ。無常なる対象に常住不変を執着する限り、また喜びも楽しみもその対象が変ずれば苦に転ずるという意味において、一切は苦(四法印:一切皆苦)であるということ。あるがままをあるがままに(大乗一実相印:諸法実相)認め受け入れた時に苦は軽減されていく。

    言語で表現される、あるいは言語によって生ずる(もの心ついた時に言語とともに言語的に形成される)無常なる私は真の私ではない。それは他者や私以外のものとの関係性(中論:相依性縁起)上に生じては滅する無常の存在であり、真の私はではありえない(三法印:諸法無我=非我)。

    言語は他者とのコミュニケーションツールとして便利な反面、世界(空間)や時間を分断化する。私と貴方、私と私以外、過去・現在・未来などなど。時間を言葉によって分断化するため常に今に生きているにもかかわらず(道元禅師:而今)今ここにありもしない過去への後悔や未来への不安という時間的な苦も生み出す。経験を活かし、将来への準備をするという思考によるメリットもあれば、それに伴う苦も生ずるということ。言語は思考であり、思考によって理性的判断が可能な反面、苦も生ずるということ。

    「私とは何か?」

    この問いを突き詰めた先に顕現する真の私は(真我)如何なる〇〇も背負わない無垢なる存在である。そこには言語による自他の境界も私以外との関係性も無い(無分別智=仏智)。ただそこから世界を観ずる、非言語的(不立文字、言語道断、勝義諦 )かつ世界と不可分な一体化して存在する根源的なもの。

    四苦(生苦・老苦・病苦・死苦)もなく、般若心経の六不(不生、不滅、不垢、不浄、不増、不減)なる如来(三法印:涅槃寂静=悟りの境地)、ヴェーダーンタのアートマン(真我)即ブラフマンがその先、いや、あるがままに今ここにある(顕現する)ことを体得するらしい。

    ほんとかな。。。^^
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■9964 / inTopicNo.62)  真理への意志
□投稿者/ パニチェ -(2020/12/12(Sat) 09:50:14)
    哲学はあらゆる可能性を排除しない、同時にあらゆる対象を懐疑する。

    生と同じくプロセスが目的でもありうる。

    固定的なものをでっちあげるのは哲学でなく宗教脳の仕事。

    真理への意識は哲学に非ず。


    『あるべき世界が実在しているという信仰は、あるべき世界を創造しようとする意欲を欠いた非生産的人間の信仰であり、彼らはその世界が実在するものだとし、その世界に到達するための手段や手法を探しはじめる。──「真理への意志」とは──創造への意志の喪失なのだ。(1887年秋遺稿)』

    『真理への意志とは、固定的なものをでっちあげること、真なる・持続的なものをでっちあげること、あの偽りの性格を度外視すること、このものを存在するものへと解釈し変えることである。それゆえ「真理」とは、現存する或るもの、見出され、発見されるべき或るものではなく、──つくりだされるべき或るもの、過程に代わる、それのみならず、それ自体では終わることのない征服の意志に代わる名称の役目をつとめる或るもののことである。すなわち、真理を置き入れるのは、無限過程、能動的に規定するはたらきとしてであって──それ自体で固定し確定しているかにみえる或るものの意識化としてではない。それは「権力への意志」の代名詞である。(力への意志 第552番)』
引用返信/返信 削除キー/
■9957 / inTopicNo.63)  非対称性
□投稿者/ パニチェ -(2020/12/12(Sat) 08:10:36)
    2020/12/12(Sat) 08:14:51 編集(投稿者)

    以下、無縁さんへの返信のかたちをとっていますが自己レスに近いものですので返信はお気遣いなく。
    もちろん、他の方も含めて異論、反論は歓迎します。

    No9950に返信(無縁仏三郎さんの記事)
    > 永井の指摘でなぜ我々は過去・現在・未来の現在にいるのかという問題とパラレルであることが
    > 薄ぼんやりとわかりました。

    > ただそこから広げることがどうしてもできずあきらめたのは覚えてます。

    > カントの自我論に入ると永井問題の真意がわかってくるのではという予感がします。
    > いまのところ物自体に関心が集中しているのでまだまだ先ですね。

    カントは真面目に取り組んでいないのでカントの自我論は知りません、〈私〉は何の教材もなしで探究可能な最も身近で当たり前過ぎるテーマです。^^
    当たり前で自明過ぎて分かりにくいのかもしれません。

    過去にも幾多の「今」があったにもかかわらず、今は今のみである。
    無数にあった今から今を選んでいるのではなく、今は根拠も理由もなく今である、あるいは今でしかない。

    これと同じくこの世界に数多く存在するであろう自我意識のなかで、どれが自分の自我意識かを探したり選択する必要もないのは「私は〈私〉でしかない」からであり、そこに何の根拠も理由もない。
    ただ「私は〈私〉でしかない」ということ。ただ今、あるがままに存在しているだけ。

    〈私〉と他者の〈私〉つまり〈〈私〉〉は対称性がない、非対称性であることが〈私〉の本質でもある。
    他者にあって「私」にしかないものが〈私〉であり、「自我」や「私」、「自意識」など万人に共通する言語では表せない、言語の根本的な機能であるラベリングによる共通化の網目をすり抜ける唯一無二の存在が〈私〉。

    自然の斉一性や再現性が成立しない、つまり物理的な属性や特性ではありえないことを〈私〉の存在自体が示している。
    もちろん魂のような身体性を伴わないものであったとしても、このことをもって意識の超難問(何故、私はこの私なのか?)は解決しない。
    「何故、この魂は私なのか?」という問いに変わるだけでしかない。

    〈私〉が物理的存在でないとするなら、〈私〉の存在に身体性が必要不可欠とは限らない。
    要するに心脳(心身)問題は解決するが意識の超難問は未解決のままとなる。

    意識の超難問は解を見出すための問題ではなく、テーマを理解するための問題である可能性が大。
    「私とは何か?」という問いと同じく、探究テーマであるということ。

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■9956 / inTopicNo.64)  底抜け脱線ゲームw
□投稿者/ パニチェ -(2020/12/12(Sat) 06:26:42)
    生に伴う苦を軽減させたり滅する必要なんてあるのか?
    苦を苦として受け止め苦しめばいいんでないの?
    苦も苦痛も喜怒哀楽や痛みと同じく生きてる証し。

    苦しみ抜いて仮に耐えれなくなれば誇りをもって死ねばいいいのではないか?
    それがニーチェ的な誇りある生き方であり死に方でもある。

    苦を滅したり軽減させる目的で無我とか真我なんて追い求めることをやめてもよい。
    〈私〉以外の存在や真理や神仏や道や法など絵空事であり、避難所か防空壕のようなもの。
    〈私〉以上の確たる存在や真理はない。

    このような底の抜き方は仏道からの脱線ではあるが運命愛のレールには乗る。
    上記もひとつの選択肢としてありうる。
    究極のコギト・エルゴ・スム

引用返信/返信 削除キー/
■9940 / inTopicNo.65)  非難囂囂
□投稿者/ パニチェ -(2020/12/11(Fri) 20:59:23)
    2020/12/11(Fri) 21:11:58 編集(投稿者)

    以下、非難囂囂を覚悟でカキコします。
    異論、反論、批判歓迎!

    遠い昔、幼稚園から小学校の低学年ぐらいまで、何かの拍子で短時間ではあるが、何か身体と意識。あるいは魂、または〈私〉が微妙にズレていたかのような体験をしていた。

    もちろん、当時は語彙も少なく変な気分くらいにしか思えなかったが、後から思い出すとそんな表現がしっくりするような体験で、自分も世界もなんかリアリティーがなく遠目から見ているような奇妙な直接経験。

    ***********************

    〈私〉、「気づき」(みのりさんに紹介いただいて未だ読書中の書籍「悟りを生きる」より)、見性体験

    これらは離人症と共通する脳の活動および意識状態が関与してるのではないか?ということ。

    幻覚とか幻影を伴うような変性意識(オルタードステイツ)状態とは異なる、意識状態。

    その状態は非日常的ではあるがひょっとすると日常が絵空事である可能性もあるし、その逆が真でもありえる。

    「気づき」と見性体験は体得していないため無責任なカキコではあるが、〈私〉に関しては離人症であろうが脳の状態でどうであろうが、これ以上のリアルはない、というステージで尚且つ懐疑あり。

引用返信/返信 削除キー/
■9546 / inTopicNo.66)  マトリックス
□投稿者/ パニチェ -(2020/11/28(Sat) 08:01:16)
    2020/11/28(Sat) 08:43:15 編集(投稿者)

    横レス失礼します、というかknowing itselfさんの投稿に触発された自己レス(考察)です。

    No9490に返信(knowing itselfさんの記事)

    > 〈私〉というのはそこからだけ唯一世界が開闢される原点ですから、〈私〉の内部に多数の開闢点が並列的に存在するとしたら、唯一の開闢点であることと相容れなくなります。しかし、開闢点が開かれる人間個体には隣人が沢山存在するので、その人たちにも同じように開闢点が開かれているだろうという予想が浮上せざるをえない。ところがその隣人たちに開闢点性を認めようとすると、そもそも開闢点にならなくなる、複数並列は開闢点性に反するからです。
    > このような背理の往復運動を繰り返さざるをえないということのようです。
    > 〈私〉というものは、二つとありえない他の開闢点の存在を暗に措定した場合にだけ語りうるので、他の開闢点である他者を予想せざるをえない。そういうことのようです。

    永井さんの〈私〉とパニチェの探究対象である〈私〉が同類のものだとすれば。。。。
    <<私>>(他の開闢点の存在)を暗に措定した場合にだけ語りうる、そして語りうることは変質を意味するということですね。
    つまり〈〈私〉〉イコール変質した<私>ということになる。

    <私>は直接経験であり、〈〈私〉〉はあくまでも想像でしかない。
    〈〈私〉〉はデカルトの方法的懐疑やフッサール現象学のエポケーの対象となるが、<私>は懐疑やエポケーの網の目をくぐりぬけ最後まで残る確たる存在。
    <私>と〈〈私〉〉の差異の構図は、永井さんも述べるように「今現在」と「過去の今」に近い。

    現実の世界は映画マトリックスで描かれている世界に等しい。
    異なる点は以下の二点。
    ひとつはリアルな身体がどこか別の場所の培養カプセルにある(「桶の中の脳(水槽の脳)」も含め)かどうかは判定不能ではあるが、<私>が世界の接点に存在することにおいては構図的には同じ。
    さらに映画マトリックスを観ている観客はありえない視点(全てを客体視できるような神も視点、といっても神も〈〈私〉〉を有するため矛盾が生じるが)であること。

    客体として描かれる第五図や印可を認める見性体験は万人に共有可能な対象であることが前提とされていないか?
    だとすれば〈私〉ではなく〈〈私〉〉を想定した仮象である可能性も拭いきれない。

    同様に他の哲学用語(仏教用語)で<私>を説明あるいは記述しようとすればするほど原点である<私>が遠ざかり変質していく。最近の永井さんの書籍を読むかぎり、この傾向にあるのではないか?と思わせる記述が多い。


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■9411 / inTopicNo.67)  みのりさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2020/11/23(Mon) 21:47:55)
    このトピにもいつでも何なりと気の向くままにカキコして下さい。

    今後ともよろしくお願いします。
引用返信/返信 削除キー/
■9396 / inTopicNo.68)  永井哲学
□投稿者/ パニチェ -(2020/11/23(Mon) 18:34:46)
    〈私〉に関してパニチェは永井哲学を解釈あるいは取り入れようというスタンスにない。

    あくまでも参考にするだけ。

    そういう意味でパニチェが探究している〈私〉からすれば違和感があるということを指摘しているということ。

    それは永井哲学学ではないということ。

    ここ分かりにくいかも。。。^^
引用返信/返信 削除キー/
■9381 / inTopicNo.69)  非形而上学的主体
□投稿者/ パニチェ -(2020/11/23(Mon) 11:49:42)
    2020/11/23(Mon) 12:14:44 編集(投稿者)

    『…前略…探究は、個別的なものから普遍的なものへ、感覚的なものから超越的なものへ、究極的な原因・原理へと遡源する。それはアリステレスがしばしば説いたように、「我々にとって先なるもの」から、「本性上先なるもの」へと遡ることである。ここで探究されている学が、感性界の事様にかかわる自然科学的諸巻の後に置かれたのは、このようなアリストテレスの精神に従ってのことである。究極的なものへの探究は、哲学の様々な分科的諸部門を超えて、「第一の哲学」を求める。アリストテレスによれば「すべての学は、ある特定の存在および類を抽き出して、その研究に専念しているが、存在を端的に、存在を存在として研究することがない」「存在としての存在」の原因・原理を研究する。それは最も普遍的な、最も究極的なもの、その故に、永遠のものであって最も尊いものである。…以下、略…(講談社現代新書『現代哲学事典 形而上学』より引用)』

    東洋哲学に対して西洋哲学の後進性は形而上学の定義や分類にある。
    それはユダヤ・キリスト教的なドグマ、つまり創造主による創造論や根本的存在が哲学に長い影を落とした結果と言える。自己探究に関して西洋哲学が疎かであった理由と同じ。
    もうそろそろ世界標準として、形而上学なんて分野は哲学から排除し、信仰や諸宗教に任せればよい。
    科学哲学のように宗教哲学として宗教や宗教的ドグマ(神や根本存在等々)を哲学する分野とすればよい。

    〈私〉に関して形而上学的主体とか、形而上学とする西洋哲学的感覚?には違和感がある。
    何故なら、これ以上の確たる形而下的存在がありえないからである。
    そもそも感覚ないし経験を超え出でた世界を人間は探究することができない。

    『われわれは認識のための、「真理」のための器官を、全く何ひとつ有(も)っていない。われわれは、人間群畜や種属のために有用だとされるちょうどそれだけを「知る」(あるいは信ずる・あるいは妄想する)のである。(ニーチェ著『悦ばしき知識 第354番』より)』

    『真理への意志とは、固定的なものをでっちあげること、真なる・持続的なものをでっちあげること、あの偽りの性格を度外視すること、このものを存在するものへと解釈し変えることである。それゆえ「真理」とは、現存する或るもの、見出され、発見されるべき或るものではなく、──つくりだされるべき或るもの、過程に代わる、それのみならず、それ自体では終わることのない征服の意志に代わる名称の役目をつとめる或るもののことである。すなわち、真理を置き入れるのは、無限過程、能動的に規定するはたらきとしてであって──それ自体で固定し確定しているかにみえる或るものの意識化としてではない。それは「権力への意志」の代名詞である。(『力への意志 第552番』より)』

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■9270 / inTopicNo.70)  風車に挑むドンキホーテ
□投稿者/ パニチェ -(2020/11/21(Sat) 08:48:46)
    No9255に返信(パニチェさんの記事)
    > 独在論をもって梵我一如とするのは違和感がある。
    > 底が抜けての梵我一如ではないか?
    > 独在論は抜ける底がない。

    > 『哲学におけるあなたの目的は何か。──ハエにハエとり壺からの出口を示してやること。(探究309)』
    > 哲学はハエにハエとり壺からの出口を示しえない(パニチェw)。

    でも、これを試そうとするのが、わしのライフホビーでもある「論理と言語による見性悟道」なんだけどねw

    ところがどっこい、どうやら現代哲学という狭い領域だけでは無理みたい。
    哲学、仏教、脳科学、場合によって量子力学や認知科学なんかも必要かな。
    とにかくジャンルを横断するパラダイムとかブレイクスルーがなければ突破できそうもない。

    風車に挑むドンキホーテの気分(笑)
引用返信/返信 削除キー/
■9255 / inTopicNo.71)  独在論と梵我一如
□投稿者/ パニチェ -(2020/11/20(Fri) 21:55:00)
    独在論をもって梵我一如とするのは違和感がある。

    底が抜けての梵我一如ではないか?

    独在論は抜ける底がない。


    『哲学におけるあなたの目的は何か。──ハエにハエとり壺からの出口を示してやること。(探究309)』


    哲学はハエにハエとり壺からの出口を示しえない(パニチェw)。
引用返信/返信 削除キー/
■8814 / inTopicNo.72)  深くて遠い溝>minoriさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2020/11/07(Sat) 20:27:02)
    No8799に返信(minoriさんの記事)

    > 観ていただいたんですね。^^
    > 質問者は、「すごい・・。」と言ってルパートスパイラの話に感心してますね。
    > そんなに簡単に納得できるんか〜い♪と、初めて観た時に思いました。(笑)

    あっ、そうですか。同じ印象を持たれたんですね。

    > 私は、ノゥイングさんからの説明を受け、急遽、理屈としては納得できるようにはなったかな、というところです。

    私はまだダメです。頭固いんでしょうね。

    > ニーチェクラブには、意味もなく荒らすだけの人や極端に偏屈な人がやってこないので、毒は要らないのかもしれないですね。^^
    > パニチェさんのおかけで、ニーチェクラブでいろいろと考察させていただけて、考える楽しさを感じています。

    私も同じです。
    ここに集う皆さんのお陰で心地よい知的刺激を受けてます。

    > そうなんですね。内臓などと違い、脳の仕組みや働き方についての研究は難しいということなんでしょうね。

    内部観察(内観)と外部観察(俯瞰的視点)の間に横たわる深くて遠い溝ですね。
    甘さを感じている被験者の脳をマッドサイエンティストが舐めてみても、被験者の感じている甘さを体験できない。^^


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