| 2020/12/13(Sun) 11:15:07 編集(投稿者)
「私は〇〇である」
上記のような表現(述語)つまり言語で語られる「私」は私そのものだとは言えない。他者が私を分別するところの私ではあるが、〇〇であるのは私以外でもありえるし、〇〇でない状態もありえる。〇〇でない状態であっても、私ではないってことはない。
言語で表現される私は無常(常にその状態でありえるものはない)の対象であり、生滅を繰り返す対象でしかない(三法印:諸行無常)。
四苦(生苦・老苦・病苦・死苦)
無常のものに常住不変を願う(執着する)ところに苦が生じる。 病気になった時にかつて健康であった身体に執着する限り苦は続く。身体も他者の心も地位や名誉や財産もこれに同じ。無常なる対象に常住不変を執着する限り、また喜びも楽しみもその対象が変ずれば苦に転ずるという意味において、一切は苦(四法印:一切皆苦)であるということ。あるがままをあるがままに(大乗一実相印:諸法実相)認め受け入れた時に苦は軽減されていく。
言語で表現される、あるいは言語によって生ずる(もの心ついた時に言語とともに言語的に形成される)無常なる私は真の私ではない。それは他者や私以外のものとの関係性(中論:相依性縁起)上に生じては滅する無常の存在であり、真の私はではありえない(三法印:諸法無我=非我)。
言語は他者とのコミュニケーションツールとして便利な反面、世界(空間)や時間を分断化する。私と貴方、私と私以外、過去・現在・未来などなど。時間を言葉によって分断化するため常に今に生きているにもかかわらず(道元禅師:而今)今ここにありもしない過去への後悔や未来への不安という時間的な苦も生み出す。経験を活かし、将来への準備をするという思考によるメリットもあれば、それに伴う苦も生ずるということ。言語は思考であり、思考によって理性的判断が可能な反面、苦も生ずるということ。
「私とは何か?」
この問いを突き詰めた先に顕現する真の私は(真我)如何なる〇〇も背負わない無垢なる存在である。そこには言語による自他の境界も私以外との関係性も無い(無分別智=仏智)。ただそこから世界を観ずる、非言語的(不立文字、言語道断、勝義諦 )かつ世界と不可分な一体化して存在する根源的なもの。
四苦(生苦・老苦・病苦・死苦)もなく、般若心経の六不(不生、不滅、不垢、不浄、不増、不減)なる如来(三法印:涅槃寂静=悟りの境地)、ヴェーダーンタのアートマン(真我)即ブラフマンがその先、いや、あるがままに今ここにある(顕現する)ことを体得するらしい。
ほんとかな。。。^^
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