| <<ツァラトゥストラの幻影を見たニーチェが、我が人生のこの苦悩、この不幸にどんな意味があるのか考えなかったはずはないと私は思います。
<ここまでは同意します
<ここに無理があります。 ニーチェの遺した多くのアフォリズムからして、ニーチェは自分の運命を神が作り上げたストーリーだとは考えていないはずです。
パニチェさん、返信ありがとうございます。 ストーリーだと考えてなければ苦悩や不幸の意味も考えないと思いますが。
<ニーチェは自分の生を無数度に繰り返したとしても(永劫回帰)、これに対して全肯定“然り!”という聖なる言葉をもって自らの運命を愛する(運命愛)でしょう。
まぁ確かに私は一冊のニーチェの著作も読んでませんが、そういう全肯定の“然り!”という聖なる言葉をもって自らの運命を愛する(運命愛)ニーチェがそれなら何故発狂したのか分かりません。 発狂するというのは精神が狂うということですね。 病魔に侵されて発狂するような柔な精神では仕方がないと思ってしまいます。 以下のようにパニチェさんが書いてくれてるから私なりの解釈を書いてみました。
<ニーチェは解釈の哲学という別名もあるので、どのように解釈するかは読者の裁量に委ねられ、それもニーチェの意図するところだと思います。むしろニーチェはニーチェから離れることすら推奨します。
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