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■7885 / inTopicNo.85)  Re[8]: 神のパズル
  
□投稿者/ パニチェ -(2020/10/17(Sat) 11:32:17)
    レスありがとうございます。

    No7881に返信(たーぼーさんの記事)
    > <<ツァラトゥストラの幻影を見たニーチェが、我が人生のこの苦悩、この不幸にどんな意味があるのか考えなかったはずはないと私は思います。

    > <ここまでは同意します

    > <ここに無理があります。
    > ニーチェの遺した多くのアフォリズムからして、ニーチェは自分の運命を神が作り上げたストーリーだとは考えていないはずです。

    > パニチェさん、返信ありがとうございます。
    > ストーリーだと考えてなければ苦悩や不幸の意味も考えないと思いますが。

    > <ニーチェは自分の生を無数度に繰り返したとしても(永劫回帰)、これに対して全肯定“然り!”という聖なる言葉をもって自らの運命を愛する(運命愛)でしょう。

    > まぁ確かに私は一冊のニーチェの著作も読んでませんが、そういう全肯定の“然り!”という聖なる言葉をもって自らの運命を愛する(運命愛)ニーチェがそれなら何故発狂したのか分かりません。
    > 発狂するというのは精神が狂うということですね。
    > 病魔に侵されて発狂するような柔な精神では仕方がないと思ってしまいます。

    ここはたーぼーさんとは意見が違うところです。
    釈尊もチュンダが捧げたキノコの食中毒によって亡くなります。
    梅毒も治療しなければ脳までスピロヘータに侵され精神に異常をきたすでしょう。
    病魔に侵されて発病したり発狂する身体や精神が柔だとは私は思いません。

    > 以下のようにパニチェさんが書いてくれてるから私なりの解釈を書いてみました。

    > <ニーチェは解釈の哲学という別名もあるので、どのように解釈するかは読者の裁量に委ねられ、それもニーチェの意図するところだと思います。むしろニーチェはニーチェから離れることすら推奨します。

    了解しました。

引用返信/返信 削除キー/
■7884 / inTopicNo.86)  二つの意識か一つの意識か
□投稿者/ knowing itself -(2020/10/17(Sat) 11:30:55)
    洞窟の中にいる意識と洞窟の外に出た意識は二つ別の意識かといえば、究極的には同じ一つの意識だと考えています。

    この点については、ルパートスパイラという人の説明がシンプルで明晰だと感じます。

    彼が好きな喩えは、シェークスピア俳優と彼が演じるシェークスピアの戯曲上の人物。

    同じその人であるアイデンティティーは一つ。ただ戯曲上の人物になりきってその人物こそがアイデンティティーだと本人が本気で思い込んでしまうと、そちらの意識だけがリアルになってしまう。素顔の地の俳優本人に戻れば、分裂は終息する。
引用返信/返信 削除キー/
■7883 / inTopicNo.87)  たーぼーさんへ
□投稿者/ minori -(2020/10/17(Sat) 11:28:36)
    >病魔に侵されて発狂するような柔な精神では仕方がないと思ってしまいます。

    たーぼーさん、横レス失礼します。

    たーぼーさんご自身も、脳になんらかの病原菌なりが侵入して、精神に異常をきたす可能性はゼロとは言えないですよね。
    もしそうなるご自身というのを想像した際、引用させていただいたのと同じく思えますか?
    それだけ教えてください。
引用返信/返信 削除キー/
■7882 / inTopicNo.88)  Re[7]: 仏教3.0の本質
□投稿者/ knowing itself -(2020/10/17(Sat) 11:21:57)
    No7879に返信(たーぼーさんの記事)
    > ■No7869に返信(knowing itselfさんの記事)
    >> たーぼーさん おはようございます
    >>
    > >>ですから仏教3.0に置き換えると、永井さんが判断的一般者、山下さんが自覚的一般者、藤田さんが叡智的一般者になると思います。
    >>
    >>そうお考えになる理由はどういうところにあるのでしょうか。
    >
    > knowing itselfさん、おはようございます。
    > これは場所を何処に置くかということだと思います。
    > 仏教3.0を科学するバージョン2の174ページ
    > 藤田 だから僕には、慈悲と言われるようなものは、超越的ではなくてあくまでもこの世的なものなんです。この世で現実と触れて動くものです。
    > 永井 アリストテレス的なんですね。
    > 藤田 その通りかもしれません。
    > 山下 いや、やっぱり、もう一つの意識はあるんですよ。
    > 藤田 おお、プラトンよ(笑)
    > 山下 これがあったうえで、地上の私もいるんですよ。
    > (略)
    > 藤田 そうすると、僕は下から目線か(笑)僕は青空といわず、大地といいますからね。
    > 永井 だからアリストテレス的なんです。
    > 藤田 なるほど、これが哲学の二大潮流、プラトンとアリストテレス(笑)
    >
    >
    > これを見ても分かるように山下さんはもうひとつの意識ということに自覚的なわけです。
    > 場所で言えば青空を居住地にしてる。神に視点に立っているように思います。
    > これが超越的ということなんでしょう。
    > 一方で藤田さんは大地ということを言っている。つまり神の視点ではなく菩薩的なんだな。

    プラトンの洞窟の喩えがあるのでそれを使います。青空や神といっても、逆に大地や雲といっても、この場合は大差はないと思うので。

    山下さんは洞窟の外に確かに出たといってるわけです。間違いなく出て体験したと。他方で洞窟に閉じ込められていたときも知っている。だからとりあえず洞窟の外に出ようよ。洞窟の中にいるのに、出ていることにするごまかしはもうやめようと。確かに意識を二つにわけていますが、まだ出ていない人に対してはそう言わざるをえないと思います。

    他方で、洞窟の中の意識にある人には2通りあるはずです。1つは洞窟の中しかしらないのに、これは洞窟の外に出ているのと同じ意識だと、理屈や信仰や物語で同一化してしまう例。もう1つは、洞窟の外に確実に出た体験もしている例。後者であればいいんですが、二つの意識があるといおうと、一つの意識だといおうと、さほど問題ではないと思います。




引用返信/返信 削除キー/
■7881 / inTopicNo.89)  Re[7]: 神のパズル
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/17(Sat) 11:17:54)
    <<ツァラトゥストラの幻影を見たニーチェが、我が人生のこの苦悩、この不幸にどんな意味があるのか考えなかったはずはないと私は思います。

    <ここまでは同意します


    <ここに無理があります。
    ニーチェの遺した多くのアフォリズムからして、ニーチェは自分の運命を神が作り上げたストーリーだとは考えていないはずです。


    パニチェさん、返信ありがとうございます。
    ストーリーだと考えてなければ苦悩や不幸の意味も考えないと思いますが。

    <ニーチェは自分の生を無数度に繰り返したとしても(永劫回帰)、これに対して全肯定“然り!”という聖なる言葉をもって自らの運命を愛する(運命愛)でしょう。

    まぁ確かに私は一冊のニーチェの著作も読んでませんが、そういう全肯定の“然り!”という聖なる言葉をもって自らの運命を愛する(運命愛)ニーチェがそれなら何故発狂したのか分かりません。
    発狂するというのは精神が狂うということですね。
    病魔に侵されて発狂するような柔な精神では仕方がないと思ってしまいます。
    以下のようにパニチェさんが書いてくれてるから私なりの解釈を書いてみました。

    <ニーチェは解釈の哲学という別名もあるので、どのように解釈するかは読者の裁量に委ねられ、それもニーチェの意図するところだと思います。むしろニーチェはニーチェから離れることすら推奨します。




引用返信/返信 削除キー/
■7879 / inTopicNo.90)  Re[6]: 仏教3.0の本質
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/17(Sat) 10:27:08)
    No7869に返信(knowing itselfさんの記事)
    > たーぼーさん おはようございます
    >
    >>ですから仏教3.0に置き換えると、永井さんが判断的一般者、山下さんが自覚的一般者、藤田さんが叡智的一般者になると思います。
    >
    > そうお考えになる理由はどういうところにあるのでしょうか。

    knowing itselfさん、おはようございます。
    これは場所を何処に置くかということだと思います。
    仏教3.0を科学するバージョン2の174ページ
    藤田 だから僕には、慈悲と言われるようなものは、超越的ではなくてあくまでもこの世的なものなんです。この世で現実と触れて動くものです。
    永井 アリストテレス的なんですね。
    藤田 その通りかもしれません。
    山下 いや、やっぱり、もう一つの意識はあるんですよ。
    藤田 おお、プラトンよ(笑)
    山下 これがあったうえで、地上の私もいるんですよ。
    (略)
    藤田 そうすると、僕は下から目線か(笑)僕は青空といわず、大地といいますからね。
    永井 だからアリストテレス的なんです。
    藤田 なるほど、これが哲学の二大潮流、プラトンとアリストテレス(笑)


    これを見ても分かるように山下さんはもうひとつの意識ということに自覚的なわけです。
    場所で言えば青空を居住地にしてる。神に視点に立っているように思います。
    これが超越的ということなんでしょう。
    一方で藤田さんは大地ということを言っている。つまり神の視点ではなく菩薩的なんだな。
    しかしもう一つの意識があるということが自我なんです。
    意識が二つあるように錯覚するのが自我なんです。
    それがなくなって一つになったところが西田のいう絶対無です。
    絶対無においては真理とは意識とは言わない。
    真理を認識するもう一つの自己がないから。
引用返信/返信 削除キー/
■7878 / inTopicNo.91)  Re[6]: 神のパズル
□投稿者/ パニチェ -(2020/10/17(Sat) 09:56:40)
    2020/10/17(Sat) 10:21:02 編集(投稿者)

    レスありがとうございます。

    No7876に返信(たーぼーさんの記事)
    > パニチェさん、おはようございます。
    > 返信ありがとうございます。
    > 発狂するとはどういうことか?
    > wikiで調べると発狂するとは精神に異常をきたすこととある。
    > それでは思惟や思索と精神は無関係なんでしょうか?

    無関係ではないでしょうね。
    但し、発狂の原因が思惟や思索とするのはニーチェ哲学からすれば無理があるように思います。
    常人も放置すればそうであるように、あくまでも脳梅毒による発狂と私は捉えています。

    > 私は実はここは錯覚してるだけで思惟や思索は精神の作用そのものだと思います。
    > 別だと錯覚してしまうことを自我だと言ってるに過ぎないと思うんです。
    > パニチェさんが引用してくれたようにニーチェは人生でこれだけ多くの不幸と苦痛に遭遇してるわけですね。
    > ツァラトゥストラの幻影を見たニーチェが、我が人生のこの苦悩、この不幸にどんな意味があるのか考えなかったはずはないと私は思います。

    ここまでは同意します。

    > 何とかその神が作り上げた不条理なストーリーを解き明かそうとしたが、余りにも複雑な混沌であったために考えきれなくなった。

    ここに無理があります。
    ニーチェの遺した多くのアフォリズムからして、ニーチェは自分の運命を神が作り上げたストーリーだとは考えていないはずです。
    ニーチェは自分の生を無数度に繰り返したとしても(永劫回帰)、これに対して全肯定“然り!”という聖なる言葉をもって自らの運命を愛する(運命愛)でしょう。
    ここがニーチェ哲学の根幹とも言えるところです。
    上記はあくまでもたーぼーさんが独自で考えるニーチェ像ではないでしょうか。

    『病苦の時期にはわが身における何もかもが洗練された。観察それ自体だけでなく、観察の全器官も洗練されたのである。病者の光学から一段と健康な概念と価値を見渡し、また、これとは反対に豊富な生の充実と自信からのデカダンス本能の秘やかな営みを見下すこと──これが私の最も歳月をかけた修行であり、私のほんとうの経験であって、もし私が何らかの点で達人になったのだとすれば、それはこの点においてであった。私は今やこの点をしっかり手中に収めている。物の見方を切替えることにかけては私はお手のものである。おそらく私にだけ、そもそも「価値の価値転換」などということが可能になる第一の理由は、ここにある。── …《中略》… 私は健康への意志、生への意志から、私の哲学を作り出した。…私の生命力が最低点に突き当たったあの数年が、ほかでもない、私がペシミストであることをやめた時期であったということに、どうか注目いただきたい。自己再建の本能が私に貧困と落剥の哲学を禁止したせいだった。(この人を見よ なぜ私はかくも賢明なのか2)』

    > もっと言えば考えている自分を信じきれなくなって発狂したんではないのでしょうか?
    > 勿論全ては推測になりますが、私はその様に思います。

    ニーチェは解釈の哲学という別名もあるので、どのように解釈するかは読者の裁量に委ねられ、それもニーチェの意図するところだと思います。むしろニーチェはニーチェから離れることすら推奨します。

    『いまや、わたしはきみたちに、わたしを失い、みずからを見出せ、と命じる。そして、きみたちがみな私を否認したときに初めて、わたしはきみたちのもとへ帰って来ようと思う。まことに、わたしたちの兄弟たちよ、そのときわたしは、違った目で、自分の失った者たちを捜し求めるであろう。そのときわたしは、或る違った愛で、きみたちを愛するであろう。そして、さらにいつの日か、きみたちはわたしの友となり、同じ希望の子となっているであろう。そのとき、わたしは三たびきみたちのもとにあって、きみたちと共に大いなる正午を祝おうと思う。ところで、大いなる正午とは、人間が自分の軌道の真ん中にあって、動物と超人の中間に立ち、自分が歩み行くべき夕暮れへの道を自分の最高の希望として祝う時である。というのは、それは或る新しい朝への道だからだ。そのとき、没落して行く者は、自分がかなたへ渡って行く者であるというので、みずから自分を祝福するであろう。そして、彼の認識の太陽は、彼にとって真南に位置しているであろう。「すべての神々は死んだ。いまやわれわれは、超人が生きんことを欲する」──これが、いつの日か大いなる正午において、われわれの最後の意志であらんことを!──このようにツァラトゥストラは語った。(ツァラトゥストラ 贈与する徳について3)』

    但し、ニーチェに限らず、ある哲学者がどのように考えていたか、あるいはどのように生きたかについては、残されたアフォリズムや文献から想像することが妥当だと思います。教外別伝はさておき、仏典に基かない教説が非仏であるのと同です。アフォリズムを根拠としたものでないとニーチェ論にはなりませんし、ニーチェを分析したり語ったことにはなりません。

引用返信/返信 削除キー/
■7877 / inTopicNo.92)  スコット・キロビー著「悟りを生きる」
□投稿者/ パニチェ -(2020/10/17(Sat) 09:37:27)
    P.26〜P.27
    『あなたの胸のあたり、あるいは体の中にある、存在の感覚に意識を向けてみてください。そこには何の思考もないことを発見するでしょう。存在するという感覚だけがあります。』

    *************** 引用終わり ***************

    上記も思考が立ち上がる以前の「純粋験経」のようなものを「気づき」とするなら、ここまでは〈私〉と同類だと思う。

    ここからどのように独我論(独在論)的世界から非二元に跳躍するのか楽しみ。
引用返信/返信 削除キー/
■7876 / inTopicNo.93)  Re[5]: 神のパズル
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/17(Sat) 09:35:15)
    No7868に返信(パニチェさんの記事)

    > ■No7867に返信(たーぼーさんの記事)
    >>おそらくニーチェが発狂したのは、この神のパズルを解く過程だと思う。
    >>全ての過去の出来事や罪悪を含めて自分を構成してる材料を余すところなく使いきって綺麗にしていくというのは大変な難行であって、自分を信じきれなくなると発狂すると思う。
    >>だからこれはこれで厳しい道だと思います。
    >
    > 幼少の頃より生涯悩まされ続けた頭痛や眼痛発作、さらに激しい胃痛や嘔吐によって教授職も退任せざるをえなかったニーチェを支えたのは自らの哲学だったと思います。
    > ニーチェは自らも語っているようにニーチェ自身の哲学によって支えられたり、生きる力を漲らせたことはっても、思惟や思索が発狂の原因となったということはないでしょう。
    > 発狂の原因を美化させたくないので通説を引用します。

    パニチェさん、おはようございます。
    返信ありがとうございます。
    発狂するとはどういうことか?
    wikiで調べると発狂するとは精神に異常をきたすこととある。
    それでは思惟や思索と精神は無関係なんでしょうか?
    私は実はここは錯覚してるだけで思惟や思索は精神の作用そのものだと思います。
    別だと錯覚してしまうことを自我だと言ってるに過ぎないと思うんです。
    パニチェさんが引用してくれたようにニーチェは人生でこれだけ多くの不幸と苦痛に遭遇してるわけですね。
    ツァラトゥストラの幻影を見たニーチェが、我が人生のこの苦悩、この不幸にどんな意味があるのか考えなかったはずはないと私は思います。
    何とかその神が作り上げた不条理なストーリーを解き明かそうとしたが、余りにも複雑な混沌であったために考えきれなくなった。
    もっと言えば考えている自分を信じきれなくなって発狂したんではないのでしょうか?
    勿論全ては推測になりますが、私はその様に思います。


    > ***** 以下、金剛出版刊 小林真著「ニーチェの病跡」より *****
    >
    > ニーチェの既往症および遺伝負因
    >
    > 1.頭痛や眼痛発作は幼少の頃(1858年ニーチェ14歳の日記)よりあり、遺伝性のものと考えられる。
    > 2.父親が脳疾患で死亡。父親の姉妹はヒステリー的でやや病的な人格異常が認められた(ニーチェの母がイエーナ病院で陳述)。
    > 3.母親の2〜3の兄弟は精神的にやや異常で、ひとりの姉妹は自殺し、もうひとりの姉妹は狂気になった。また兄は精神障害に陥った(ニーチェ家と親しいOla hansson家の家族の陳述)。
    > 4.弟Josephは2歳の時に脳発作(脳卒中?)で死亡。
    > 5.1865年、発症したリウマチによる髄膜炎
    > 6.1867年、徴兵中に落馬、胸骨を骨折し、のちにその部分が化膿し数週間の治療を要した。
    > 7.1870年、普仏戦役に志願従軍し、エアランゲンで赤痢と咽喉ジフテリアにかかり、その後、生涯胃の異常(嘔吐や胃痛)を抱ることとなった。バーゼルに帰還した後も黄疸や不眠症に悩まされた。
    > 8.1875年、医師から処方された硝酸銀を服用。
    > 9.1883年、不眠症のため塩素性の睡眠薬を多量に服用。
    > 10.1889年1月7日、トリノでのカタストロフィー(発狂)
    > 11.1889年1月〜1899年5月、イエーナ大学病院での水銀湿布治療。
    > 12.1900年8月25日没
    >
    > ※複数の医学者によるニーチェの病気についての見解
    >
    > 梅毒による進行麻痺性精神障害(梅毒性脳膜炎)
    > 器質的脳疾患
    > 内因性の遺伝性疾患(分裂症、躁鬱病)
    >
    >



引用返信/返信 削除キー/
■7870 / inTopicNo.94)  小乗と大乗の区分の無効化
□投稿者/ knowing itself -(2020/10/17(Sat) 08:38:26)
    仏教3・0というのは、小乗と大乗の区分を無効にする立場ですよ。
    日本仏教はつい最近まで、小乗仏教という蔑視的なラベリングの大乗仏教の優位性を前提にしてきた。それを突き崩すインパクトを与えたテーラワーダ的な仏教を正しく受けとめようというのが、仏教3・0です。山下さん自身受けとめきれていない、最近は過度に矮小化しつつあるのが問題だと思うけど(笑)。ま、それくらい仏教は一筋縄ではいきませんね。
引用返信/返信 削除キー/
■7869 / inTopicNo.95)  Re[5]: 仏教3.0の本質
□投稿者/ knowing itself -(2020/10/17(Sat) 08:29:25)
    たーぼーさん おはようございます

    > ですから仏教3.0に置き換えると、永井さんが判断的一般者、山下さんが自覚的一般者、藤田さんが叡智的一般者になると思います。

    そうお考えになる理由はどういうところにあるのでしょうか。
引用返信/返信 削除キー/
■7868 / inTopicNo.96)  Re[4]: 神のパズル
□投稿者/ パニチェ -(2020/10/17(Sat) 08:14:31)
    おはようございます、たーぼーさん。
    横レス失礼します。

    No7867に返信(たーぼーさんの記事)
    > おそらくニーチェが発狂したのは、この神のパズルを解く過程だと思う。
    > 全ての過去の出来事や罪悪を含めて自分を構成してる材料を余すところなく使いきって綺麗にしていくというのは大変な難行であって、自分を信じきれなくなると発狂すると思う。
    > だからこれはこれで厳しい道だと思います。

    幼少の頃より生涯悩まされ続けた頭痛や眼痛発作、さらに激しい胃痛や嘔吐によって教授職も退任せざるをえなかったニーチェを支えたのは自らの哲学だったと思います。
    ニーチェは自らも語っているようにニーチェ自身の哲学によって支えられたり、生きる力を漲らせたことはっても、思惟や思索が発狂の原因となったということはないでしょう。
    発狂の原因を美化させたくないので通説を引用します。

    ***** 以下、金剛出版刊 小林真著「ニーチェの病跡」より *****

    ニーチェの既往症および遺伝負因

    1.頭痛や眼痛発作は幼少の頃(1858年ニーチェ14歳の日記)よりあり、遺伝性のものと考えられる。
    2.父親が脳疾患で死亡。父親の姉妹はヒステリー的でやや病的な人格異常が認められた(ニーチェの母がイエーナ病院で陳述)。
    3.母親の2〜3の兄弟は精神的にやや異常で、ひとりの姉妹は自殺し、もうひとりの姉妹は狂気になった。また兄は精神障害に陥った(ニーチェ家と親しいOla hansson家の家族の陳述)。
    4.弟Josephは2歳の時に脳発作(脳卒中?)で死亡。
    5.1865年、発症したリウマチによる髄膜炎
    6.1867年、徴兵中に落馬、胸骨を骨折し、のちにその部分が化膿し数週間の治療を要した。
    7.1870年、普仏戦役に志願従軍し、エアランゲンで赤痢と咽喉ジフテリアにかかり、その後、生涯胃の異常(嘔吐や胃痛)を抱ることとなった。バーゼルに帰還した後も黄疸や不眠症に悩まされた。
    8.1875年、医師から処方された硝酸銀を服用。
    9.1883年、不眠症のため塩素性の睡眠薬を多量に服用。
    10.1889年1月7日、トリノでのカタストロフィー(発狂)
    11.1889年1月〜1899年5月、イエーナ大学病院での水銀湿布治療。
    12.1900年8月25日没

    ※複数の医学者によるニーチェの病気についての見解

    梅毒による進行麻痺性精神障害(梅毒性脳膜炎)
    器質的脳疾患
    内因性の遺伝性疾患(分裂症、躁鬱病)


    1.ニーチェ哲学に対する否定的な見解
    (1)W.W.Ireland(医師、1901年英国の医学雑誌へ「F.ニーチェ、その精神医学的研究」と題した論文と発表)
    苦痛がかれの精神をを疲労させ、かれの人生への不満を高めたことは疑いない。さらにニーチェの自己中心主義がこうして年を追って高まって行った。永劫回帰や超人の思想は奇怪な思想に過ぎず、ツァラトゥストラ以後のニーチェの著作は不潔やきたならしい書物である。

    (2)P.J.Mobius(ライプツヒ大学講師から開業医、1903年発刊「ニーチェにおける病的なもの」著者)
    ニーチェの著作を読む人々は、ニーチェの全部を読まずに、個々の、みずから気に入った、真珠のようないちばんよいところだけを読む。ただ、その個々の真珠が、目に見えない、きわめてふたしかなひもでつながっている。(気をつけてなさい。この男は精神病者なのですよ。)

    2.ニーチェ哲学に対する肯定的な見解
    (1)Kurt Hildebrandt(精神科医から転進しキール大学哲学教授 1923年「ニーチェの精神病のはじまり」発刊)
    永劫回帰をMobiusが『ニーチェによって持ち出されたもっとも精神薄弱的な考え』と言い捨てることは、哲学者ではないひとりの医学者の軽率な発言である。この理念については専門の哲学者や科学者たちによってもっとまじめに論議されるべきものである。とにかく、一般的に言って、ひとつの詩作品のイメージや理念を軽々しく病的と呼ぶのはたいへん危険なことである。

    (2)Katl Jaspers(精神神経科医から転進した哲学者、1935年「ニーチェ─その哲学入門」発刊)
    ニーチェの病気を進行性麻痺と確定するには、精神病院に収容されている多数の一般の進行性麻痺患者の病状経過との比較も行われねばならないが、こうした一般患者の知的能力は通常ニーチェのそれと比べられないほど低いので、かれらの書筒をニーチェの書筒や作品と対比してみてもほとんど無意味である。創造的霊感の時期には、ニーチェはまたおそるべき深淵をのぞくことによって人間存在の前人未到の認識に達していた。

    (3)著者 小林真氏の見解
    Mobiusに反して言えば「ニーチェについては、自分の気に入ったところだけをえらんで読み、そこからそれだけの詩的うましさを味わい、それだけの人間的叡智をくみ取って下さい。それらの個々の真珠を結ぶ紐がいかにゆるく、いかにふたしかなものであっても、それを気にかける必要はありません。」ということである。

    *************** 引用終わり ***************

    (4)パニチェの見解
    ニーチェかく語りき
    「新しい思想に道を拓き、尊敬されていた習慣や迷信の束縛を破るのは、ほとんどいたるところで狂気なのである。(曙光 14)」
    「天才には一粒の塩の代わりに少しの狂気が与えられている。(曙光 14)」

    人間の精神は病的なものがあるからこそ、人間の精神でありうる。
    病的ではない精神はむしろ感情を有さないロボット(人工無能)のそれである。
    人格異常や精神異常とは、能力、特徴、特性、性格の一側面に過ぎず、その傾向は万人が有するものである。
    ニーチェの思想が狂気なら、人格神にひれ伏すクリスチャンや信仰者も狂気である。

    「善悪の彼岸」や「道徳の系譜」が「ツァラトゥストラ」の哲学的解説書版であったように、「曙光」以降のニーチェの著作は思考プロセスをすっ飛ばして、結論のみを抽出し綴っている。
    それぞれの著書の構想や思考過程は、ちくま学芸文庫から出版されているニーチェ全集の別巻3・4「生成の無垢〈上〉・〈下〉」にまとめられている。
    ニーチェの著書にある種の異質性や極論を感じるひとつの要因である。

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