| 横レス失礼します。
■No8139に返信(ななしさんの記事) > それは、人間が、そう簡単に超人などにはなれないことを > よく御存じだからだと思います。
イエスがどういう感想を持つかどうかはともかく。。。 「人間がそう簡単に超人などにはなれない」か否かは、超人をどのように解釈するかによるでしょう。
神のアンチテーゼでもある超人は、アンチテーゼであるが故に固定的な超人像をニーチェもツァラトゥストラも示していません。外延は示しつつも内包は読者に委ねているということです。
以下が超人の外延です。
『人間とは超克されるなにものかである。(ツァラトゥストラ 戦争と戦士たちとについて)』
『人間は動物と超人とのあいだにかけ渡された一本の綱である。(ツァラトゥストラの序説)』
『さあ!さあ!そなたら、高等な人間たちよ!今や初めて、人間の未来という山が陣痛に苦しんでいる。神は死んだ。今やわれわれは欲するのだ、──は超人が生きんことを。(ツァラトゥストラ 高等な人間について)』
『信心深い者と信仰への彼らの要求。──首尾よく生きてゆくのに、どれほど多くの信仰を必要としているのか、また、自分を支えてくれる揺らぐことのないような「確かなもの」を、どれほど多く必要としているか、──これこそは人間の力量(あるいは、もっとはっきり言えば、彼の弱さ)の、尺度である。私の観るところでは、旧ヨーロッパにおいて今日なお依然として大多数の人間が、キリスト教を必要としている。それゆえまた相変わらず信仰が見られる。なにしろ人間とはそうしたものなのだ。・・・自分は命令されねばならぬという根本信仰に達するとき、その人間は「信心深く」なる。これとは逆に、自己決定の悦びや力、次のような意味での意志の自由といったものが、考えられるだろう、──つまり、この自由にあっては、精神があるがままに振る舞いながらも、ほっそりとした綱や可能性の上に身を支えることができ、深淵に臨んでさえなお踊ることができるすべてを会得して、いかなる信仰・いかなる確実性への願望にも決別を告げる、そういう自由である。こういう精神こそが、卓越した自由の精神であろう。(悦ばしき知識 第347番)』
|