| <そうですね、頭がテレビみたいでそこに第四図のドラマが放送されてて、身体は坐禅してますね。 私は、これ、そのままで分かると思うんですよ。 あくまで私は、と言ったほうがいいのかもしれませんが。
第四図というのは、ドラマ、映画だけしかなくてそれがすべてだと思っている図。 愛憎、紛争、快楽などの世界ですよね。 第五図というのは、そうした第四図的世界の諸々は、意識に現れてくるものなのだ、というのを示している図だと思います。 「個としての私」ではなく「静謐な空間」としての本質的なもの(意識ということになるでしょうけれど)に第四図的な物は現われてくるのだ、というのを表しているのだと思います。
うーん。そういう意味だったら身体が書かれているのはおかしいと思うんだけど。 第五図で、minori さんが仰る静謐な空間」としての本質的なもの(意識ということになるでしょうけれど)を感じるのは身体がないところですよ。 パニチェさんがいう無色透明の自己、臨済宗だと一無位の真人といわれるところです。
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