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■7403 / inTopicNo.73)  Re[11]: 気づきの独在性
  
□投稿者/ knowing itself -(2020/10/05(Mon) 19:59:27)
    手を使って壁や机をコンコンと叩くとする。手の感触、痛み。これが宇宙に独在する「気づき」の喩え。手が「気づき」。手に叩かれる壁の小部分にあたるのが、脳と肉体をもつ個人としての人間。普通の人間は壁の側からすべてを捉えようとする。手の側からの視点に立つのが、ルパートスパイラであり、ムージであり、ラマナマハルシであり、悟った禅僧であり、ブッダであり、キリストだと思う。永井均さんもかな(笑)


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■7401 / inTopicNo.74)  パオセヤドー
□投稿者/ knowing itself -(2020/10/05(Mon) 19:35:11)
    パオセヤドーの瞑想指導の階梯は、サマタとヴィパッサナー、どちらも厳しいみたいですね。弟子がつまづく最大の難関はアナパナと言われています。目をつぶって呼吸だけに集中すること1時間。途中に雑念がちょっとでも入ったらNG。これは絶対にごまかしが効かないそうです。目をつぶったときに瞼に浮かぶ模様、光の具合で客観的に判定できると。

    数息観1時間より遥かに遥かに難しい。無字の公案で声を出しながら三昧に入る方が問題にならないくらい容易。禅でも呼吸そのものへの三昧である随息観で見性することは、不可能に近いとか、一世紀に何人でるかというレベルと言われますね。それくらいアナパナは難しい。

    臨済宗の甘いところだと、無字の公案を通ったあとに早くも、悟りくささを消すなどという。パオセヤドーではアナパナを通過してからも悟りへの道はずっと続く。


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■7400 / inTopicNo.75)  Re[10]: 藤田さんと山下さんの違い
□投稿者/ knowing itself -(2020/10/05(Mon) 19:15:30)
    minoriさん こんばんは
    > knowing itselfさん、レスありがとうございます。
    >
    >>その本は未読ですが、amazonのレビューを読んでみたら面白そうですね。読んでみたいと思います。非二元で現在、世界的に影響力のある、ルパートスパイラやムージといった人たちも、異口同音に@の重要性を熱く語っています。とにかく@こそが究極のリアリティなんだと。山下さんは彼らの影響を受けたわけではなく、曹洞宗→テーラワーダというルートで同じ結論に達したのだと思います。
    >
    > グレッググッドの『ダイレクトパス』で、「気づき」とはについて以下のように書いてあります。
    > ・・・・・
    > すべての存在の基底、あらゆるものがそれに対して現れる〈それ〉、観照者、見られることなく見ているもの、愛、美、甘美さ、存在、明晰さ、現実、自己発光性、平安。
    > ・・・・・p37より引用
    >
    > いきなりこの本を読んでも理解できない人が多いと思いますが、knowing itselfさんなら簡単に読みこなせるのでは、と思います。
    > 私自身はある程度までは理解できますが、芯からの理解には至っていないと思っています。
    >
    > >>@の経験により、「身体も心も完全に脱落していて気づきだけがある」という理解が鮮明となる、ということなのだと思うのですが。
    > >>私の場合はこのあたり、知的理解によって、「そうなんだろうな。」と一種の想像に留まっています。
    > >>
    > >>藤田さんが第五図としてBを想定されているのでは、というのも納得がいく感じがします。
    > >>ご自身が経験されていないものについては、率直な態度を取られているのだと思います。
    > >>(藤田さんも、Aについては経験されている可能性が高いとは思いますが。)
    > >>Bというのは、内山老師が、坐禅の姿というのは思いの手放しの姿だと書かれているのにも、通じると思います。
    > >>藤田さんや内山老師が言われていることも、第四図にどっぷりといる「私」には難しいので、第五図の世界観で行われないと無理というのには変わりない、ということになるのだと思います。
    > >>この部分について、私はこのように感じたのですが、knowing itselfさんはどのように見られますか?
    >>
    >>第五図については、永井さんと山下さんが違う方向から面白い解釈を投げかけていますが、やはり読み込み過ぎかという印象もあります。第四図の思いを手放すために、坐禅している身体に戻る、といったひねりのない解釈を安泰寺に連なる人たちは取っていると思います。小難しい世界観などいらない、坐禅すればいいんだ。これでもいいと思いますが、仏教3・0と主張する意味がなくなりますね。仏教1・0でよかったということになる。
    >
    > 山下さんの『光の中のマインドフルネス』という本を以前に読んでいて。
    > そこから引用してみます。
    > ・・・・・
    > 「私」がないところで気づきだけがある世界、先発ピッチャーが降りてリリーフピッチャーが気づいている世界、それが第五図です。
    >  第四図から第五図へのピッチャー交代を、内山老師は只管打坐することによって自然と実現すると言われます。
    > それに対して、私は非常にオーソドックスに仏教の根幹である、マインドフルネスを使うことによってなし得ると思っています・
    > ・・・・・
    > p76〜77より引用

    この本はもっています。第五図が身体の問題でないことが何度も強調されていますね。

    > 山下さんとしてはやはり、坐禅だけでは不足を感じた、だからテーラワーダでの修行をした。
    > それで。その修行そのものを日本の一般人がするのは無理なので、3.0,としてマインドフルネスを提唱している、ということなのでしょうね。

    山下さんのマインドフルネスとは、「光の中のマインドフルネス」でも説かれているように、わたしの三段階モデルでは@です。難易度は高く、禅僧でさえ難しいのに日本の一般人にとってさらに困難であることは変わらないと思います。山下さんは、一部の限られた人限定ではなく、万人が@を体験できるようにと活動をされていますが、現時点ではその理想からほど遠いという印象をもっています。
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■7388 / inTopicNo.76)  Re[10]: 藤田さんと山下さんの違い
□投稿者/ minori -(2020/10/05(Mon) 08:28:02)

    > 曹洞宗の坐禅とパオセヤドーのもとでの瞑想指導、あまりの違いに驚いたと言われています。

    パオセヤドーでの指導はとてもきめ細やかで、細かいチェックが師から入り、達成しないと先に進めないのですよね。
    そんなふうに以前、なにかで拝見したのを思い出しました。


    >坐禅では気づきや意識というのはむしろ忌避されるというか、そんなものにしがみついかずに即手放せ。テーラワーダはやはりヴィパッサナーがメインルートなので、気づくというプロセスをどこまでも精錬して深めていく。ヴィパッサナーをしながらナーマとルーパを落としていく。

    たしかに、坐禅をよくされるという人たちとネットでやりとりすると、「気づき」というのを出してみても「何それ?」という反応があります。
    坐禅によって、「心が静まる、動じなくなる」という効果はあると思いますが、一方、鈍くなるみたいなところもあるように感じるんです。


    > 坐禅でも限りなく深い禅定は得られると思いますが、気づきそのものをメソッドとして限りなく深めていくことはないですね。

    サマタ瞑想だけではなんだか進展がないように感じられる方は、観の瞑想、「気づきに目を向けられるといいように、私も感じます。
    私の場合、先に観をいつの間にか自然にしてて、そこでの苦しみから自我的なものが死なざるをえなくなるのと並行して、「気づき」としてのわたしが本来なんだな、という感じになってきたというルートです。

引用返信/返信 削除キー/
■7387 / inTopicNo.77)  Re[9]: 藤田さんと山下さんの違い
□投稿者/ minori -(2020/10/05(Mon) 08:09:29)
    knowing itselfさん、レスありがとうございます。

    > その本は未読ですが、amazonのレビューを読んでみたら面白そうですね。読んでみたいと思います。非二元で現在、世界的に影響力のある、ルパートスパイラやムージといった人たちも、異口同音に@の重要性を熱く語っています。とにかく@こそが究極のリアリティなんだと。山下さんは彼らの影響を受けたわけではなく、曹洞宗→テーラワーダというルートで同じ結論に達したのだと思います。

    グレッググッドの『ダイレクトパス』で、「気づき」とはについて以下のように書いてあります。
    ・・・・・
    すべての存在の基底、あらゆるものがそれに対して現れる〈それ〉、観照者、見られることなく見ているもの、愛、美、甘美さ、存在、明晰さ、現実、自己発光性、平安。
    ・・・・・p37より引用

    いきなりこの本を読んでも理解できない人が多いと思いますが、knowing itselfさんなら簡単に読みこなせるのでは、と思います。
    私自身はある程度までは理解できますが、芯からの理解には至っていないと思っています。

    >>@の経験により、「身体も心も完全に脱落していて気づきだけがある」という理解が鮮明となる、ということなのだと思うのですが。
    >>私の場合はこのあたり、知的理解によって、「そうなんだろうな。」と一種の想像に留まっています。
    >>
    >>藤田さんが第五図としてBを想定されているのでは、というのも納得がいく感じがします。
    >>ご自身が経験されていないものについては、率直な態度を取られているのだと思います。
    >>(藤田さんも、Aについては経験されている可能性が高いとは思いますが。)
    >>Bというのは、内山老師が、坐禅の姿というのは思いの手放しの姿だと書かれているのにも、通じると思います。
    >>藤田さんや内山老師が言われていることも、第四図にどっぷりといる「私」には難しいので、第五図の世界観で行われないと無理というのには変わりない、ということになるのだと思います。
    >>この部分について、私はこのように感じたのですが、knowing itselfさんはどのように見られますか?
    >
    > 第五図については、永井さんと山下さんが違う方向から面白い解釈を投げかけていますが、やはり読み込み過ぎかという印象もあります。第四図の思いを手放すために、坐禅している身体に戻る、といったひねりのない解釈を安泰寺に連なる人たちは取っていると思います。小難しい世界観などいらない、坐禅すればいいんだ。これでもいいと思いますが、仏教3・0と主張する意味がなくなりますね。仏教1・0でよかったということになる。

    山下さんの『光の中のマインドフルネス』という本を以前に読んでいて。
    そこから引用してみます。
    ・・・・・
    「私」がないところで気づきだけがある世界、先発ピッチャーが降りてリリーフピッチャーが気づいている世界、それが第五図です。
     第四図から第五図へのピッチャー交代を、内山老師は只管打坐することによって自然と実現すると言われます。
    それに対して、私は非常にオーソドックスに仏教の根幹である、マインドフルネスを使うことによってなし得ると思っています・
    ・・・・・
    p76〜77より引用

    山下さんとしてはやはり、坐禅だけでは不足を感じた、だからテーラワーダでの修行をした。
    それで。その修行そのものを日本の一般人がするのは無理なので、3.0,としてマインドフルネスを提唱している、ということなのでしょうね。
引用返信/返信 削除キー/
■7381 / inTopicNo.78)  マインドフルネス
□投稿者/ knowing itself -(2020/10/04(Sun) 20:04:44)
    坐禅は心の観察をしません。心は手放すか成り切るか。ウィパッサナーは逆に、微に入り細にわたって徹底的に心を観ていく。この意味でのマインドフルネスの源流はむしろウィパッサナーでしょう。
引用返信/返信 削除キー/
■7378 / inTopicNo.79)  気づきの独在性
□投稿者/ knowing itself -(2020/10/04(Sun) 18:46:39)
    ルパートスパイラなどの立場は、気づきの独在性といっていいものです。お馴染みのスクリーンと映画の喩えをつかうと、独在的にあるのは気づきであるスクリーンだけ。これ以外には何にもない。スクリーン上の映画を通して、気づきが自分自身に気づいている。
引用返信/返信 削除キー/
■7369 / inTopicNo.80)  Re[9]: 藤田さんと山下さんの違い
□投稿者/ knowing itself -(2020/10/04(Sun) 15:59:49)
    たーぼーさん こんにちは

    爽快で元気を与えてくれるいい曲ですね。

    No7365に返信(たーぼーさんの記事)
    > ■No7364に返信(たーぼーさんの記事)
    >>■No7312に返信(knowing itselfさんの記事)
    >>
    >>knowing itselfさん、こんにちは。
    >>
    > >>方向が真逆といえないこともない。
    >>
    >>全くそうですね。
    >>人は誰でも瞬間瞬間に道を選択していくんですね。
    >>特にここの選択は命を賭けた選択だったと思います。
    >>だから分岐点は無数にあって84000の法門ありと言われるのでしょうね。
    >>
    > https://m.youtube.com/watch?v=QISzvMMJqdM
    >
    >>大空と大地の中で 松山千春
    >>
    >>浄土宗と禅宗かw
引用返信/返信 削除キー/
■7368 / inTopicNo.81)  Re[9]: 藤田さんと山下さんの違い
□投稿者/ knowing itself -(2020/10/04(Sun) 15:56:32)
    No7363に返信(minoriさんの記事)
    > 自己レスで追記をすみません。
    >
    >>@睡眠中に夢をまったく見ない状態に気づいている
    >
    > 山下さんがミャンマーでしたテーラワーダの修行での体験。
    > それと同様の深さ(深さという表現でいいのかどうかわかりませんが。)のものを、坐禅の禅定で得られるのかどうかが私にはわからないんです。
    > それはわからないのですが、しかし、坐禅で可能であるなら少なくとも山下さんはテーラワーダの修行を求めては行かなかったのではないか、というのを考えます。

    曹洞宗の坐禅とパオセヤドーのもとでの瞑想指導、あまりの違いに驚いたと言われています。坐禅では気づきや意識というのはむしろ忌避されるというか、そんなものにしがみついかずに即手放せ。テーラワーダはやはりヴィパッサナーがメインルートなので、気づくというプロセスをどこまでも精錬して深めていく。ヴィパッサナーをしながらナーマとルーパを落としていく。
    坐禅でも限りなく深い禅定は得られると思いますが、気づきそのものをメソッドとして限りなく深めていくことはないですね。


    > しかし。坐禅においても、「思考は浮かんではこないけれど、無意識状態ではない。」という経験はすると思うのです。
    > 私は坐禅はしませんが、「ただ座椅子に座ってぼーっとはしない」というのはたまにします。
    > すると、「思考は流れてこないけれど、無意識ではない」という時間がわずかにあります。
    > 坐禅の上級者はその時間がかなり長いのだと想像します。
    >
    > で、何が言いたいのかというと。 坐禅でも、気づきだけがある第五図、青空を知るというのは可能なのだろう、ということです。
    > 内山老師や藤田さんは、当然、それに到達されていると思います。
    > ただ。「バージョンU」の本で、藤田さんが山下さんの経験について質問していることからわかるように、坐禅ではテーラワーダと同じような経験はしにくいかできない、のだろう、ということです。
    >
    > 私の少ない知識と経験をもとにした推論です。
    > いろいろと失礼があったならすみません。
    >
引用返信/返信 削除キー/
■7367 / inTopicNo.82)  Re[8]: 藤田さんと山下さんの違い
□投稿者/ knowing itself -(2020/10/04(Sun) 15:40:14)
    minoriさん、はじめまして、よろしくお願いします。

    > knowing itselfさん、はじめまして。
    > よろしくお願いします。
    >
    >
    > ■No7312に返信(knowing itselfさんの記事)
    >>喩えとして下記の3段階を使います。
    >>
    >>@睡眠中に夢をまったく見ない状態に気づいている
    >>
    >>A睡眠中に夢を見ていることに気づいている
    >>
    >>B日常活動中に心の動きに気づいている
    >>
    >>山下さんにとって第五図は、@→Aが基本でBにも連続している気づき。@は身体も心も完全に脱落しているまったくの空白。そのことに気づいている@。@に夢が加わってそれに気づいているAは、睡眠であることで共通しているのでほとんどひと続き。AとBも心の活動は連続しているのでひと続き。@ABすべてが第五図の気づきだが、本体は@。@なくして第五図はない。もっとも@はかなり難易度が高いので、Aが中心になると思う。
    >>
    >>藤田さんは、第五図としてBを想定しているように思います。@は超越的な次元として意識化することが不可欠だとしても、坐禅中に@を直接体験するとは言われないようです。Bが第五図の中心ではないでしょうか。
    >>
    >>方向が真逆といえないこともない。
    >
    > わかりやすくまとめてあって、理解しやすいです。
    >
    > Aについては、特別な瞑想なしでも経験している人も多いみたいですね。
    > 私も明晰夢はたまに見ます。
    > 一方、@については当然のごとく分かりません。
    > ちなみに、非二元のダイレクトパスについての本を出している心理学、哲学専攻のグレッググッドという人も、@を経験していると本に書いています。

    その本は未読ですが、amazonのレビューを読んでみたら面白そうですね。読んでみたいと思います。非二元で現在、世界的に影響力のある、ルパートスパイラやムージといった人たちも、異口同音に@の重要性を熱く語っています。とにかく@こそが究極のリアリティなんだと。山下さんは彼らの影響を受けたわけではなく、曹洞宗→テーラワーダというルートで同じ結論に達したのだと思います。

    > @の経験により、「身体も心も完全に脱落していて気づきだけがある」という理解が鮮明となる、ということなのだと思うのですが。
    > 私の場合はこのあたり、知的理解によって、「そうなんだろうな。」と一種の想像に留まっています。
    >
    > 藤田さんが第五図としてBを想定されているのでは、というのも納得がいく感じがします。
    > ご自身が経験されていないものについては、率直な態度を取られているのだと思います。
    > (藤田さんも、Aについては経験されている可能性が高いとは思いますが。)
    > Bというのは、内山老師が、坐禅の姿というのは思いの手放しの姿だと書かれているのにも、通じると思います。
    > 藤田さんや内山老師が言われていることも、第四図にどっぷりといる「私」には難しいので、第五図の世界観で行われないと無理というのには変わりない、ということになるのだと思います。
    > この部分について、私はこのように感じたのですが、knowing itselfさんはどのように見られますか?

    第五図については、永井さんと山下さんが違う方向から面白い解釈を投げかけていますが、やはり読み込み過ぎかという印象もあります。第四図の思いを手放すために、坐禅している身体に戻る、といったひねりのない解釈を安泰寺に連なる人たちは取っていると思います。小難しい世界観などいらない、坐禅すればいいんだ。これでもいいと思いますが、仏教3・0と主張する意味がなくなりますね。仏教1・0でよかったということになる。
引用返信/返信 削除キー/
■7365 / inTopicNo.83)  Re[8]: 藤田さんと山下さんの違い
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/04(Sun) 14:50:58)
    No7364に返信(たーぼーさんの記事)
    > ■No7312に返信(knowing itselfさんの記事)
    >
    > knowing itselfさん、こんにちは。
    >
    >>方向が真逆といえないこともない。
    >
    > 全くそうですね。
    > 人は誰でも瞬間瞬間に道を選択していくんですね。
    > 特にここの選択は命を賭けた選択だったと思います。
    > だから分岐点は無数にあって84000の法門ありと言われるのでしょうね。
    >
    https://m.youtube.com/watch?v=QISzvMMJqdM

    > 大空と大地の中で 松山千春
    >
    > 浄土宗と禅宗かw
引用返信/返信 削除キー/
■7364 / inTopicNo.84)  (削除)
□投稿者/ -(2020/10/04(Sun) 14:36:32)
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