| minoriさん こんばんは > knowing itselfさん、レスありがとうございます。 > >>その本は未読ですが、amazonのレビューを読んでみたら面白そうですね。読んでみたいと思います。非二元で現在、世界的に影響力のある、ルパートスパイラやムージといった人たちも、異口同音に@の重要性を熱く語っています。とにかく@こそが究極のリアリティなんだと。山下さんは彼らの影響を受けたわけではなく、曹洞宗→テーラワーダというルートで同じ結論に達したのだと思います。 > > グレッググッドの『ダイレクトパス』で、「気づき」とはについて以下のように書いてあります。 > ・・・・・ > すべての存在の基底、あらゆるものがそれに対して現れる〈それ〉、観照者、見られることなく見ているもの、愛、美、甘美さ、存在、明晰さ、現実、自己発光性、平安。 > ・・・・・p37より引用 > > いきなりこの本を読んでも理解できない人が多いと思いますが、knowing itselfさんなら簡単に読みこなせるのでは、と思います。 > 私自身はある程度までは理解できますが、芯からの理解には至っていないと思っています。 > > >>@の経験により、「身体も心も完全に脱落していて気づきだけがある」という理解が鮮明となる、ということなのだと思うのですが。 > >>私の場合はこのあたり、知的理解によって、「そうなんだろうな。」と一種の想像に留まっています。 > >> > >>藤田さんが第五図としてBを想定されているのでは、というのも納得がいく感じがします。 > >>ご自身が経験されていないものについては、率直な態度を取られているのだと思います。 > >>(藤田さんも、Aについては経験されている可能性が高いとは思いますが。) > >>Bというのは、内山老師が、坐禅の姿というのは思いの手放しの姿だと書かれているのにも、通じると思います。 > >>藤田さんや内山老師が言われていることも、第四図にどっぷりといる「私」には難しいので、第五図の世界観で行われないと無理というのには変わりない、ということになるのだと思います。 > >>この部分について、私はこのように感じたのですが、knowing itselfさんはどのように見られますか? >> >>第五図については、永井さんと山下さんが違う方向から面白い解釈を投げかけていますが、やはり読み込み過ぎかという印象もあります。第四図の思いを手放すために、坐禅している身体に戻る、といったひねりのない解釈を安泰寺に連なる人たちは取っていると思います。小難しい世界観などいらない、坐禅すればいいんだ。これでもいいと思いますが、仏教3・0と主張する意味がなくなりますね。仏教1・0でよかったということになる。 > > 山下さんの『光の中のマインドフルネス』という本を以前に読んでいて。 > そこから引用してみます。 > ・・・・・ > 「私」がないところで気づきだけがある世界、先発ピッチャーが降りてリリーフピッチャーが気づいている世界、それが第五図です。 > 第四図から第五図へのピッチャー交代を、内山老師は只管打坐することによって自然と実現すると言われます。 > それに対して、私は非常にオーソドックスに仏教の根幹である、マインドフルネスを使うことによってなし得ると思っています・ > ・・・・・ > p76〜77より引用
この本はもっています。第五図が身体の問題でないことが何度も強調されていますね。
> 山下さんとしてはやはり、坐禅だけでは不足を感じた、だからテーラワーダでの修行をした。 > それで。その修行そのものを日本の一般人がするのは無理なので、3.0,としてマインドフルネスを提唱している、ということなのでしょうね。
山下さんのマインドフルネスとは、「光の中のマインドフルネス」でも説かれているように、わたしの三段階モデルでは@です。難易度は高く、禅僧でさえ難しいのに日本の一般人にとってさらに困難であることは変わらないと思います。山下さんは、一部の限られた人限定ではなく、万人が@を体験できるようにと活動をされていますが、現時点ではその理想からほど遠いという印象をもっています。
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