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■7557 / inTopicNo.1)  Re[23]: プラトンの洞窟の比喩
  
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/09(Fri) 20:29:56)
    太陽を見れば目がやられる。月を見れば耳がやられる。
    それだけのこと。
引用返信/返信 削除キー/
■7555 / inTopicNo.2)  プラトンの洞窟の比喩
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/09(Fri) 20:06:40)
    あるとき、囚人の一人を洞窟の外へ連れ出しました。
    彼は生まれて初めて洞窟の外の世界を体験します。

    ずっと暗い洞窟で影だけを見て生きてきたので、光というものの存在すら最初は理解できません。
    しかし、しだいにこの世には光というものが存在し、光があるから影ができること、影そのものは実体ではないことを理解していきます。

    彼は自分がこれまでいかに狭く閉ざされた中で生きてきたかを思い知ります。
    同時に、今もなお洞窟の中で影を真実と思い込んで生きている囚人たちを憐れに思い始めます。

    洞窟に戻った彼は、自分が見てきたものを他の囚人たちに語って聞かせます。
    囚人たちがどんなに驚き感激するだろう、と彼は期待していました。

    ところが、囚人たちには彼の話が全く理解できなかったのです。
    それどころか、囚人たちは彼のことを「洞窟から出たせいで目がおかしくなった」と笑いものにします。

    誰一人として理解者がいないことに彼は打ちひしがれます。
    それでも、いつか囚人たちに真実を知らせるために、あえて元通りの生き方——壁の影絵だけを見て、それを真実と思い込むふりをする生き方——を選びます。

    ただ、彼の身にはある異変が起きていました。
    いちど外の光を知ってしまった彼の目では、暗い洞窟の中で影をうまく認識できなくなっていたのです。

    少なくともこの洞窟の中では、他の囚人たちの言うように「目がおかしくなった」のかもしれないとさえ、彼は思うことがあるのです。
引用返信/返信 削除キー/
■7551 / inTopicNo.3)  Re[21]: 第四図性からの自由
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/09(Fri) 19:33:05)
    No7549に返信(knowing itselfさんの記事)
    > たーぼーさん こんばんは。
    >
    > ■No7542に返信(たーぼーさんの記事)
    >>■No7538に返信(knowing itselfさんの記事)

    > 第四図は映画というのは、時間と空間という枠組みで捉えるあらゆる対象は「映画」という意味です。どんな覚醒者、高僧名僧、大聖者であろうとパソコンは「映画」です。

    knowing itselfさん、こんばんわ。
    時間と空間がないから即なんです。そこにおいては通常の認識以前の純粋認識だと言ってるのが西田幾多郎が一生涯かけて取り組んだ主題です。
    やっぱり第五図で止まってしまってるように思えてしまう。

引用返信/返信 削除キー/
■7549 / inTopicNo.4)  Re[20]: 第四図性からの自由
□投稿者/ knowing itself -(2020/10/09(Fri) 19:10:23)
    たーぼーさん こんばんは。

    No7542に返信(たーぼーさんの記事)
    > ■No7538に返信(knowing itselfさんの記事)
    >>第五図が真にわかって第四図の映画性がわかればどうなるかというと、映画なら何でもいい、傑作と駄作の選り好みをしない、登場人物に好き嫌いの判断をしない、ヒーロー、ヒロイン、悪役、チョイ役などの差別を一切しない。こうなると思います。一般人の映画の見方はまるで違います。映画を選り好みし、これは傑作だ、クズだ、この登場人物の生き方をモデルにしよう、この女優は魅力的だ、あんな俳優は吐き気がする、など。それもいいですが、第四図の映画性がわかるとそんなことはどうでもよくならなければおかしい。
    >>
    >>第四図的な映画の中で生きるときの指針は、慈悲や愛の思いを瞬間ごとにもつこと。それだけになると思います。
    >>
    >>カントが定言命法だけが物自体のドアだといったのと、相通じるところがある。
    >
    >
    > 即になれば映画じゃなくなる。今、knowing itselfさんの目の前にあるパソコンは映画ですか?
    > 即になってないで思考すると映画になる。

    第四図は映画というのは、時間と空間という枠組みで捉えるあらゆる対象は「映画」という意味です。どんな覚醒者、高僧名僧、大聖者であろうとパソコンは「映画」です。
引用返信/返信 削除キー/
■7546 / inTopicNo.5)  無題
□投稿者/ minori -(2020/10/09(Fri) 17:45:06)
    思い出したことがあるので、こちらに投稿させていただきます。

    ヤフーテキストリームという掲示板に、西田哲学大好きな某女史がいたんですが、
    彼女、非二元とかは「スピ」だって言って罵倒してました。
    非二元の内容を知りもしないで、「スピ」だと決めつけて。(^▽^;)
    アタマ硬いとそうなっちゃうんですよね〜。
    禅と非二元(=ノンデュアリティ、アドヴァイタ)は近い、というのは、探究界においてほぼ定説なのに。

    原始仏教はいいけど大乗仏教はダメっていうような人もアタマ硬い人が多いですね。
    逆に、大乗仏教だけがよくて原始仏教はダメって人はまず見かけません。
    下手に知識が豊富で、自我が硬い人に、「原始仏教はいいけど大乗仏教はダメ」っていう人が多いように感じます。

    正見ができてないとそうなっちゃうんじゃないかしら。^^
引用返信/返信 削除キー/
■7543 / inTopicNo.6)  Re[20]: 第四図性からの自由
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/09(Fri) 13:16:15)
    事実はいきなりあるんですよ。
    目の前のパソコンがいきなりあるんです。
    認識する以前にあるんです。
    目の前にパソコンがある。右向いたら壁がある。それだけ
    そうすると目の前にあったパソコンはもう頭のなかにある物語
引用返信/返信 削除キー/
■7542 / inTopicNo.7)  Re[19]: 第四図性からの自由
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/09(Fri) 12:59:22)
    No7538に返信(knowing itselfさんの記事)
    > 第五図が真にわかって第四図の映画性がわかればどうなるかというと、映画なら何でもいい、傑作と駄作の選り好みをしない、登場人物に好き嫌いの判断をしない、ヒーロー、ヒロイン、悪役、チョイ役などの差別を一切しない。こうなると思います。一般人の映画の見方はまるで違います。映画を選り好みし、これは傑作だ、クズだ、この登場人物の生き方をモデルにしよう、この女優は魅力的だ、あんな俳優は吐き気がする、など。それもいいですが、第四図の映画性がわかるとそんなことはどうでもよくならなければおかしい。
    >
    > 第四図的な映画の中で生きるときの指針は、慈悲や愛の思いを瞬間ごとにもつこと。それだけになると思います。
    >
    > カントが定言命法だけが物自体のドアだといったのと、相通じるところがある。


    即になれば映画じゃなくなる。今、knowing itselfさんの目の前にあるパソコンは映画ですか?
    即になってないで思考すると映画になる。
引用返信/返信 削除キー/
■7540 / inTopicNo.8)  Re[25]: 第四図のカント哲学性
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/09(Fri) 12:46:40)
    No7536に返信(minoriさんの記事)
    > 2020/10/09(Fri) 07:24:38 編集(投稿者)
    > 2020/10/09(Fri) 07:08:03 編集(投稿者)
    > 2020/10/09(Fri) 07:01:23 編集(投稿者)
    > 2020/10/09(Fri) 06:12:27 編集(投稿者)
    >
    > たーぼーさん、横レス失礼します。
    >
    > >この二重構造が即になるということを日本でもっとも探求し続けた哲学者は西田幾多郎ですよ。
    > >おそらく行きっぱなしだからそうなるんだろうけど、禅宗なら当たり前です。
    >
    > 二重構造が即になる、っていうのは、「一枚になる」とか「常にゾーンにいる」っていうような意味で、たーぼーさんは言われているんだろうな、とminoriは見ています。
    > つまり、西田哲学の「純粋経験」で言うなら、それでずっと日常を過ごしている、という意味で言われているのですよね。
    > それとも、「二重構造が即になる」時もある(常時それでいられるわけではない)、という意味なのでしょうか。
    >
    > 以下は、もし、前者のほうとたーぼーさんが考えられているとしたならの話ではあるのですが・・・。
    > 悟っても悟後の修行と言いますよ。
    > これは永遠にだと。
    >
    > ですから、二重構造は人間がいる限り永遠だと言う立場の方が逆に第五図にはとどまっていない、ということになると思いますよ。
    >
    > もう、即になったから終わり、じゃないですよね。
    > それが
    > 「スクリーンと映画の二重構造そのものは、人間が地球上からいなくならない限り、なくならないと思います。」
    > だと思います。
    >
    > 人間、そんなに簡単に、「純粋経験」そのもので日常を過ごすばかり、とはいかないですからね。
    >
    >
    > ※ 主語、述語などを明確にして、できるだけ理解しやすい文章にしようとしたら、編集作業が何度にもなってしまいました。
    > 今後、気を付けていきます。


    おはようございます。
    いや、誰でも常時即なんですよ。
    誰でも常時即から離れたことないんですが、離れていると思い込んでいるだけなんです。
    それは私を持ってしまうから錯覚してしまうだけです。
    私を持ってしまうから主客が出来てしまうだけなんです。
引用返信/返信 削除キー/
■7538 / inTopicNo.9)  Re[18]: 第四図性からの自由
□投稿者/ knowing itself -(2020/10/09(Fri) 07:37:31)
    第五図が真にわかって第四図の映画性がわかればどうなるかというと、映画なら何でもいい、傑作と駄作の選り好みをしない、登場人物に好き嫌いの判断をしない、ヒーロー、ヒロイン、悪役、チョイ役などの差別を一切しない。こうなると思います。一般人の映画の見方はまるで違います。映画を選り好みし、これは傑作だ、クズだ、この登場人物の生き方をモデルにしよう、この女優は魅力的だ、あんな俳優は吐き気がする、など。それもいいですが、第四図の映画性がわかるとそんなことはどうでもよくならなければおかしい。

    第四図的な映画の中で生きるときの指針は、慈悲や愛の思いを瞬間ごとにもつこと。それだけになると思います。

    カントが定言命法だけが物自体のドアだといったのと、相通じるところがある。
引用返信/返信 削除キー/
■7536 / inTopicNo.10)  Re[24]: 第四図のカント哲学性
□投稿者/ minori -(2020/10/09(Fri) 06:11:04)
    2020/10/09(Fri) 07:24:38 編集(投稿者)
    2020/10/09(Fri) 07:08:03 編集(投稿者)
    2020/10/09(Fri) 07:01:23 編集(投稿者)
    2020/10/09(Fri) 06:12:27 編集(投稿者)

    たーぼーさん、横レス失礼します。

    >この二重構造が即になるということを日本でもっとも探求し続けた哲学者は西田幾多郎ですよ。
    >おそらく行きっぱなしだからそうなるんだろうけど、禅宗なら当たり前です。

    二重構造が即になる、っていうのは、「一枚になる」とか「常にゾーンにいる」っていうような意味で、たーぼーさんは言われているんだろうな、とminoriは見ています。
    つまり、西田哲学の「純粋経験」で言うなら、それでずっと日常を過ごしている、という意味で言われているのですよね。
    それとも、「二重構造が即になる」時もある(常時それでいられるわけではない)、という意味なのでしょうか。

    以下は、もし、前者のほうとたーぼーさんが考えられているとしたならの話ではあるのですが・・・。
    悟っても悟後の修行と言いますよ。
    これは永遠にだと。

    ですから、二重構造は人間がいる限り永遠だと言う立場の方が逆に第五図にはとどまっていない、ということになると思いますよ。

    もう、即になったから終わり、じゃないですよね。
    それが
    「スクリーンと映画の二重構造そのものは、人間が地球上からいなくならない限り、なくならないと思います。」
    だと思います。

    人間、そんなに簡単に、「純粋経験」そのもので日常を過ごすばかり、とはいかないですからね。


    ※ 主語、述語などを明確にして、できるだけ理解しやすい文章にしようとしたら、編集作業が何度にもなってしまいました。
    今後、気を付けていきます。

引用返信/返信 削除キー/
■7535 / inTopicNo.11)  Re[23]: 第四図のカント哲学性
□投稿者/ knowing itself -(2020/10/09(Fri) 06:08:45)
    たーぼーさん おはようございます

    No7529に返信(たーぼーさんの記事)
    > ■No7469に返信(knowing itselfさんの記事)
    > >> 痛快なことに、禅師は「修正」即ち悟りも一つの「物語」、「物語がないという物語」に過ぎないのだと喝破する。
    >>
    >>これ異論あります。物語に過ぎないなら、いわゆる第五図がわかっていませんね(笑)。永井さんじゃないですが、第五図的な世界観と道元、龍樹、釈迦のそれが違うなら、道元、龍樹、釈迦が間違っていると思います。わたしは釈迦はズバリ、第五図的な世界観を説法しているとみるので、釈迦は正しいとみなします。
    >
    > 世界観というのは物語そのものですよ。
    > だから玄侑宗久さんのお書きになっていることは正しいですよ。
    > だからといって私達は物語を離れては生きられないわけですから、物語に騙されないようにすればいいだけだと思います。

    第五図的な世界観というときの世界観とは、物語というより反物語に近いと思います。物語というとフィクションのニュアンスが込められる場合もありますが、第五図は事実・リアリティそのものです。虚構・フィクションなのは第四図。第四図の物語に騙されないというのはそのとおりだと思います。

引用返信/返信 削除キー/
■7529 / inTopicNo.12)  Re[22]: 第四図のカント哲学性
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/09(Fri) 02:04:24)
    No7469に返信(knowing itselfさんの記事)
    >> 痛快なことに、禅師は「修正」即ち悟りも一つの「物語」、「物語がないという物語」に過ぎないのだと喝破する。
    >
    > これ異論あります。物語に過ぎないなら、いわゆる第五図がわかっていませんね(笑)。永井さんじゃないですが、第五図的な世界観と道元、龍樹、釈迦のそれが違うなら、道元、龍樹、釈迦が間違っていると思います。わたしは釈迦はズバリ、第五図的な世界観を説法しているとみるので、釈迦は正しいとみなします。

    世界観というのは物語そのものですよ。
    だから玄侑宗久さんのお書きになっていることは正しいですよ。
    だからといって私達は物語を離れては生きられないわけですから、物語に騙されないようにすればいいだけだと思います。


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