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■7334 / inTopicNo.85)  禅者にとっては暴論?
  
□投稿者/ パニチェ -(2020/10/04(Sun) 09:08:53)
    2020/10/04(Sun) 09:48:20 編集(投稿者)

    慈悲の瞑想での体得をもとに第5図に慈悲を認めるのは、その禅定のプロセスにある。

    阿字観や数息観、慈悲の瞑想も含め何か対象に意識を集中していく瞑想と、只管打座のように対象を想定しない瞑想では、その体験内容が微妙に異なる。

    一照さんと良道さんの違いは禅定のプロセスにあるようにも思う。

    https://imidas.jp/jijikaitai/k-40-105-17-01-g654


    クリシュナムルティの「洞察は脳細胞に変容をもらたすことはできるか?」という問いは「YES」という回答が脳科学の知見からも明らかになった。

引用返信/返信 削除キー/
■7321 / inTopicNo.86)  ななしさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2020/10/03(Sat) 21:43:23)
    こんばんは、ななしさん。レスありがとうございます。

    No7297に返信(ななしさんの記事)

    >> で、画餅は役立たずの絵に描いた餅と評価されがちなものを、道元禅師は悟りを象徴する譬えとしてフォーカスしています。
    >> もち米を用いて作られる餅を絵に描いた画餅には餅の生滅の相と同時に、腐らず、滅しない、不滅の相がある。
    >> さらに「飢えを満たさない」とは、腹に一物もない悟りの境地を表しており、飢えに対する餅でもなければ、餅に対する飢えがない、二元対立を超越した象徴であるということだと思います。

    > つまり、言葉や概念、理論的なものの大切さということですね。

    その逆だと思います。
    言葉や論理、思考によって二元対立が生ずるが実相は一如であるということを画餅でもって示している、言葉は原理的に限界があり実相は直接的に言語化できない、中論もこれに同じだと思います。

    > 言葉としての餅というものが、実は画にかいた餅だとした場合に、このような意味以外に画にかいた餅という言葉の意味を求めてみても求められません。
    > 世間的には、言葉とか概念というものは意味のないもので実体とは異なるとの理解ではなくて、言葉とか概念があればこそ我々は現実を考え生活が出来るところもあります。
    > 言葉によって思考している。

    言葉によって思考しているというのはその通りですが、日常生活や世間ではむしろ言葉を過大評価し過ぎていると思います。言葉によって空間を自他に分断化することによって他者への感情が生じる。今しかない時間を過去や未来という言葉によって分断化するために過去への後悔や憤り、未来への憂いや不安が生じる。

    実相としては一如であり而今であるにもかかわらず。
    仏教はキリスト教と違い、言葉を過信することを戒めます。
    仏教的な真理は不立文字、言語道断、勝義諦です。

    > 一時は存在していたけれどもなくなったとか、また出て来たという事ではなしに、この画にかいた餅と実体との関係は永遠の昔から続いてきているところの現実でもあります。
    > この様な形で問題を考えてきた時に、初めて抽象的な概念で捉えられた世界と具体的な実体というものとが一つになった現実が現れてくるんですね。

    仏教的にはそこにあるものは全体運動のみということだと捉えています。
    それが如来であり六不(不生、不滅、不垢、不浄、不増、不減)であるということ。

    > 理論的なものには限界があるけれども理論的なものがあって初めて我々はこの宇宙というもの、現実の世界というものを掴み得る事が出来る訳です。
    > 相対性理論やエントロピーの法則等、やらやら。
    > だから現実と理論と両方がなければ仏教は成立しないということを道元禅師は、述べたのでしょうか。

    科学は理論負荷性が伴います。
    観測問題も未解決であり、観るものと観られるものという二元対立的な古典物理的世界観(素朴実在論)は破棄されつつあります。
    量子力学が指し示す世界観は道教や仏教などの東洋的な世界観と近づきつつあると思われます。

引用返信/返信 削除キー/
■7313 / inTopicNo.87)  Re[11]: カトリック聖職者から性的暴行
□投稿者/ ななし -(2020/10/03(Sat) 19:05:28)
    それにしても、カトリックの暗闇の根は深そうです。

    「協議会は性虐待問題に消極的だ。といらだちを強めるのは、国内で唯一、実名で被害を訴える竹中勝美さん(63)。東京都内の児童養護施設で暮らしていた10代の初め、ドイツ人神父(故人)から日常的に呼び出され、下半身を触らせられるなどしたという。
     当時は性虐待との認識がなく、「親の愛情を知らずに育った私にとって、ぬくもりすら感じた」と話す。

    忌まわしい記憶は脳裏に封印されたが、34歳だった1991年、1歳の子どもを風呂に入れている時、被害状況が鮮明によみがえるフラッシュバックに見舞われた。以来、突然大声が出たり、死ぬことを考えたりするなどの後遺症に苦しみ続けた。」

    https://www.jiji.com/jc/article?k=2019122800243&g=soc

    えーっ、そんなことって、なんでー。

    すべての教会がそんなことではないと思いますが、
    自分も事件のあった教会ではないのに教会の建物を見ると何か汚らわしいもののように思われて見るに堪えられません。
引用返信/返信 削除キー/
■7311 / inTopicNo.88)  カトリック聖職者から性的暴行
□投稿者/ ななし -(2020/10/03(Sat) 18:56:34)
    今日、テレビを見て驚いたのですが、

    「宮城県のカトリック教会の男性司祭に性的暴行を受けたとして、仙台市青葉区の看護師鈴木ハルミさん(67)が24日、カトリック仙台司教区と男性司祭、二次被害を加えたとする男性司教に計5100万円の損害賠償を求める訴えを仙台地裁に起こした。

     代理人によると、鈴木さんは1977年、気仙沼カトリック教会の男性司祭から被害を受けた。2015年に主治医の助言で被害を認識。16年に教会側に申告した。

     調査に当たった第三者委員会が16年10月にまとめた報告書は「(性的被害が)存在した可能性が高い」としたものの、司祭の責任を問わなかった。調査結果の報告時、鈴木さんは別の男性司教に「合意の上でやった」などと言われ、二次被害を受けたとしている。

     原告側は、鈴木さんが被害に遭ったことを理解したとする15年ごろが起点となるため、請求権はあると争う方針。教会側については十分に被害調査をしていないことなどが義務違反に当たると主張する。

     鈴木さんは提訴後に仙台市内で記者会見し「失った尊厳を取り戻すための裁判。同じように暗闇で息を潜めている被害者に声を届けたい」と語った。

     同司教区事務局の担当者は取材に「今後、協議した上で対応していきたい」と述べた。

     カトリック聖職者による性的虐待は2002年、米国の神父らによる未成年虐待の報道を契機に、世界各地で疑惑が浮上。日本カトリック司祭協議会(東京)は20年4月、国内で1950〜2010年代の被害に関する16件の訴えがあったとの調査結果を発表した。(河北新報)」

    えっ、信じられないお話に唖然としました。

    やはり、「先のものが後になり、あとのものが先になる。」

    信仰への道は「狭き門」であり「蜘蛛の糸」だと思いました。
引用返信/返信 削除キー/
■7297 / inTopicNo.89)  パニチェさんへ
□投稿者/ ななし -(2020/10/03(Sat) 13:39:27)
    パニチェさん、なるほど。

    > 私が目指すのは言語と論理による見性悟道です。

    で、画餅は役立たずの絵に描いた餅と評価されがちなものを、道元禅師は悟りを象徴する譬えとしてフォーカスしています。
    もち米を用いて作られる餅を絵に描いた画餅には餅の生滅の相と同時に、腐らず、滅しない、不滅の相がある。
    さらに「飢えを満たさない」とは、腹に一物もない悟りの境地を表しており、飢えに対する餅でもなければ、餅に対する飢えがない、二元対立を超越した象徴であるということだと思います。

    つまり、言葉や概念、理論的なものの大切さということですね。

    言葉としての餅というものが、実は画にかいた餅だとした場合に、このような意味以外に画にかいた餅という言葉の意味を求めてみても求められません。

    世間的には、言葉とか概念というものは意味のないもので実体とは異なるとの理解ではなくて、言葉とか概念があればこそ我々は現実を考え生活が出来るところもあります。

    言葉によって思考している。

    一時は存在していたけれどもなくなったとか、また出て来たという事ではなしに、この画にかいた餅と実体との関係は永遠の昔から続いてきているところの現実でもあります。

    この様な形で問題を考えてきた時に、初めて抽象的な概念で捉えられた世界と具体的な実体というものとが一つになった現実が現れてくるんですね。

    理論的なものには限界があるけれども理論的なものがあって初めて我々はこの宇宙というもの、現実の世界というものを掴み得る事が出来る訳です。

    相対性理論やエントロピーの法則等、やらやら。

    だから現実と理論と両方がなければ仏教は成立しないということを道元禅師は、述べたのでしょうか。




引用返信/返信 削除キー/
■7293 / inTopicNo.90)  ななしさんへ
□投稿者/ minori -(2020/10/03(Sat) 13:01:23)
    ななしさん、レスありがとうございます。

    >> そのように考える教派というのはあるのですか? それとも独自のお考えなのでしょうか?

    >私は、何かの宗教団体に属しているわけではないので、よく分かりません。

    >信仰ということを思索したところ行き着いた結論といったところです。

    わかりました。ありがとうございます。

    > 人は、来世がどうなるかも、勿論ですが、この世でも、どこに生まれるか、家柄、金持ちの家か貧乏の家か、美人かスポーツマンか等の素質も自分自身では何ともできない生まれながらに決まっている話です。
    >
    > それをお釈迦様は、ドゥフカままならないこと、苦ということで表現されています。
    >
    > 神は、こうした、ひとが不平等に生まれることでさえ、慈悲心から、きっと何かの役目を与えているのかもしれませんね。
    >
    > お釈迦さまも、人の生きる苦しみを解決するための修行を憐れみからご教授されたのだと思います。仏教の出発点は、「一切皆苦(人生は思い通りにならない)」と知ることから始まります。
    > 解決法は、「四諦八正道」という教えに示されています。
    >
    > つまり、お釈迦さまは「生きるということは思い通りにならないものだから、執着を捨てなさい。執着を捨てれば涅槃に達することができるから、そのために修行をしなさい」と説かれているのです。

    ・・・・・
    ダンマパダから。
    277「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
    278 「一切の形成されたものは苦しみである」(一切皆苦)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
    279「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
    ・・・・・

    テキストリームの終わりあたりに、東洋哲学にSさんという人がトピを立てて投稿してたんですね。
    その人は、「仏陀は、無我なんて言ってない。非我だ。」というのをよく言われていました。
    それについては上記ダンマパダからの引用でもあるようにそうなのだと思います。

    第四図、第五図というのに展開するとすれば。ええと・・・たしか、ななしさんも仏教3.0で取り上げられるその二つの図ついてご存じでしたよね。

    第四図は、「一切の形成されたもの」の世界だと思います。

    第五図は、279「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
    というのに通ずると思います。

    原始仏教と大乗は違う、と言っても、同じ仏教なのですから通ずるところがあるのが自然だと私は思っています。

    今、読んでる『悟りを生きる 非二元へのシンプルなガイド』 スコット・キルビー 著 という本には、人間はもともと第五図にいる(気づきが主体である)というのが書いてあり、悟りというのは、中道(非有非無の中道)を生きることである、というのが書いてあります。

    学問的な仏教を学びたい人には向かないけれど、探究したい、苦から離れたいという人にはぴったりだと思います。
    ラディカルといえばラディカルですが、そうした先入観を脇に置いて探究してみると、カントの物自体の世界のごく入り口ってこんなふうかも、と思えるようになってると思います。

    悟りとは、石の上に100年ぐらい血と汗にまみれながら到達するものである、と考える人には価値のない本だと思います。

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■7292 / inTopicNo.91)  Re[9]: minoriさんへ
□投稿者/ ななし -(2020/10/03(Sat) 11:06:13)
    そして、信仰は、地獄のカンダタに垂らされた細くキラキラ✴した蜘蛛の糸のような感じもしています。

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■7291 / inTopicNo.92)  Re[8]: minoriさんへ
□投稿者/ ななし -(2020/10/03(Sat) 10:53:54)
    > そのように考える教派というのはあるのですか? それとも独自のお考えなのでしょうか?

    私は、何かの宗教団体に属しているわけではないので、よく分かりません。

    信仰ということを思索したところ行き着いた結論といったところです。
引用返信/返信 削除キー/
■7289 / inTopicNo.93)  minoriさんへ
□投稿者/ ななし -(2020/10/03(Sat) 10:42:06)
    人は、来世がどうなるかも、勿論ですが、この世でも、どこに生まれるか、家柄、金持ちの家か貧乏の家か、美人かスポーツマンか等の素質も自分自身では何ともできない生まれながらに決まっている話です。

    それをお釈迦様は、ドゥフカままならないこと、苦ということで表現されています。

    神は、こうした、ひとが不平等に生まれることでさえ、慈悲心から、きっと何かの役目を与えているのかもしれませんね。

    お釈迦さまも、人の生きる苦しみを解決するための修行を憐れみからご教授されたのだと思います。仏教の出発点は、「一切皆苦(人生は思い通りにならない)」と知ることから始まります。
    解決法は、「四諦八正道」という教えに示されています。

    つまり、お釈迦さまは「生きるということは思い通りにならないものだから、執着を捨てなさい。執着を捨てれば涅槃に達することができるから、そのために修行をしなさい」と説かれているのです。


引用返信/返信 削除キー/
■7288 / inTopicNo.94)  ななしさんへ
□投稿者/ minori -(2020/10/03(Sat) 10:13:30)
    ななしさん、レスありがとうございます。

    > なんとなく分かります。
    > 信仰への道は狭き門なのですから仕方ないですね。
    >
    > そういう自分自身も特に教会や何かの宗教団体には所属していません。
    > 不良ダメダメクリスチャンといったところで、でも、神は三位一体とともに
    > 信仰しています。
    >
    > そして、仏教も・・・。
    >
    > 救済は、二重予定説の通り生まれる前から決まっている確率的決定論なのですが
    > そんな選ばれた人のために自分自身は、伝道しているところです。


    救済は二重予定説の通り生まれる前から決まっている、んですか?
    というか、ななしさんはそのようにお考えなんですね。
    そのように考える教派というのはあるのですか? それとも独自のお考えなのでしょうか?

    ん〜。気のせいか・・テキストリームで同じような見解を語られていた方がいらしてような記憶があります。^^
引用返信/返信 削除キー/
■7287 / inTopicNo.95)  パニチェさんへ
□投稿者/ minori -(2020/10/03(Sat) 10:05:52)

    > パニチェはもっとタチが悪かったですね。
    > 議論する相手ではないと独断的に判断すれば、相手をおちょくったり、いじったりして、掲示板の余興(悪趣味)として楽しんでましたから。あのテルゼさんもイジメられたとずっと訴えてました(笑)。

    テルゼさんがパニチェさんの噂話をメタトピで一人で書いてたら、後でパニチェさんがおちょくりみたいに来られてたのをロムした記憶があります。(;^_^A
    でも、ちょっとおちょくってる感じだけで毒性は感じられなかったです。

    > 自己弁護的な言い訳をすればパニチェキャラだけでは実物の私よりも、よく見えたり、評価され過ぎる(今がそうかも。。。^^)こともあったので、毒舌パニチェでもってバランスを保っていたみたいな話です。

    そうだったんですか。私は直接にはその毒舌キャラは拝見してないんですよね。
    普通(?)の投稿だけで。 残念だな〜。

引用返信/返信 削除キー/
■7286 / inTopicNo.96)  Re[5]: minoriさんへ
□投稿者/ ななし -(2020/10/03(Sat) 10:03:08)
    おはようございます。

    >私はかつてキリスト教を信仰しようかと思ったこともあったのですが、信じるより疑うタイプで結局無理だった、というのがありました。
    >そうしたこともあり、嫌いとまではならないかな。

    なんとなく分かります。
    信仰への道は狭き門なのですから仕方ないですね。

    そういう自分自身も特に教会や何かの宗教団体には所属していません。
    不良ダメダメクリスチャンといったところで、でも、神は三位一体とともに
    信仰しています。

    そして、仏教も・・・。

    救済は、二重予定説の通り生まれる前から決まっている確率的決定論なのですが
    そんな選ばれた人のために自分自身は、伝道しているところです。

    ただ、それでも、ひとりでも多くの人が、神を信じることができて神の国へはいれるようにと願っているところです。

引用返信/返信 削除キー/

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