| 永井さんの文章からヴィトゲンシュタインと西田について述べた部分を抜粋して対比してみます。差異が一目でわかりますね。
>ヴィトゲンシュタインは史上最初に登場した確信犯である。彼は驚くべきことに、言葉が体験と独立にそれだけで意味を持ちうると信じている。「体験」もまたそういう言葉にすぎないのだ。
>西田は逆の確信犯だから、これまた驚くべきことに、体験が言葉と独立にそれだけで意味を持ちうると信じている。言葉の意味もまたそういう体験にすぎないのだ。
二人はちょうど逆の意味で確信犯であるとされています。ヴィトゲンシュタインは「言葉」を独立させるのに対して、西田は「体験」を独立させる。
西田というと参禅体験もあり仏教的なものが哲学に取り込まれていると一般に理解されています。日本の仏教者に西田的なものをみることは、むしろ常識的ですね。ところが永井さんは、内山興正にヴィトゲンシュタインと同じ問題意識をみる。ここら辺が、仏教者との鼎談でのズレの感覚の一つの原因かもしれない。結局永井さんでも、ヴィトゲンシュタインも西田幾多郎も方向は違えど同じところにいるのかもしれません。ここはよくわかりません。
永井さんは内山論を執筆する予定だとも言われていて、そこで自説を展開されるのではないでしょうか。
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