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■7669 / inTopicNo.25)  Re[32]: 善の研究
  
□投稿者/ ななし -(2020/10/11(Sun) 18:31:43)
    knowing itselfさん、「100分 de 名著」の「善の研究」は、昨年の丁度一年前の10月期の番組として放送されたもので、その際、若松氏のテキストも購入していたものです。
    とにかく、伊集院さんの切り替えしというか受け答えが素晴らしく、どの回でもそうなのですが、よくそんな応答ができるなあと感心しています。

    No7666に返信(knowing itselfさんの記事)
    > ななしさん こんばんは。
    >
    > 若松さんはユングと西田幾多郎につながるものをみているということでしょうか。

    西田が直接ユングや道元を持ち出したのではなく、善の研究の中にユングや道元と共振しあうものを持っていると若松氏は見ているようなんです。

    「善」や「純粋経験」あるいは「絶対矛盾的自己同一」という概念の意味も自分では、何かはっきりしなかったのが、この番組をみての収穫だったかなと思っています。


引用返信/返信 削除キー/
■7668 / inTopicNo.26)  Re[37]: 「哲学探究」Tー261
□投稿者/ パニチェ -(2020/10/11(Sun) 17:44:11)
    No7665に返信(knowing itselfさんの記事)
    > 永井さんの文章からヴィトゲンシュタインと西田について述べた部分を抜粋して対比してみます。差異が一目でわかりますね。

    ありがとうございます。

    > >ヴィトゲンシュタインは史上最初に登場した確信犯である。彼は驚くべきことに、言葉が体験と独立にそれだけで意味を持ちうると信じている。「体験」もまたそういう言葉にすぎないのだ。

    > >西田は逆の確信犯だから、これまた驚くべきことに、体験が言葉と独立にそれだけで意味を持ちうると信じている。言葉の意味もまたそういう体験にすぎないのだ。

    > 二人はちょうど逆の意味で確信犯であるとされています。ヴィトゲンシュタインは「言葉」を独立させるのに対して、西田は「体験」を独立させる。

    knowing itselfさんの引用で、永井さんがウィトゲンシュタインと西田を逆の意味での確信犯と解釈していることは分かりました。永井さんはウィトゲンシュタインの私的言語の考察に関して、単に私的言語の不可能性を示唆しているのではなく、私的規則の例示はできないが、私的規則の一例としての私的言語の可能性まで否定できないと主張しているようです。
    また西田が経験は言語の彼方にあるが、経験は言語内に定着しようとする傾向があるとしていることは理解できます。

    > 西田というと参禅体験もあり仏教的なものが哲学に取り込まれていると一般に理解されています。日本の仏教者に西田的なものをみることは、むしろ常識的ですね。ところが永井さんは、内山興正にヴィトゲンシュタインと同じ問題意識をみる。ここら辺が、仏教者との鼎談でのズレの感覚の一つの原因かもしれない。結局永井さんでも、ヴィトゲンシュタインも西田幾多郎も方向は違えど同じところにいるのかもしれません。ここはよくわかりません。

    > 永井さんは内山論を執筆する予定だとも言われていて、そこで自説を展開されるのではないでしょうか。

    なるほど。ここは執筆待ちですね。
    さらに〈私〉と第五図の関係もさらに明らかになるかもしれませんね。
引用返信/返信 削除キー/
■7666 / inTopicNo.27)  Re[31]: 善の研究
□投稿者/ knowing itself -(2020/10/11(Sun) 17:20:30)
    ななしさん こんばんは。

    若松さんはユングと西田幾多郎につながるものをみているということでしょうか。
引用返信/返信 削除キー/
■7665 / inTopicNo.28)  Re[36]: 「哲学探究」Tー261
□投稿者/ knowing itself -(2020/10/11(Sun) 16:28:43)
    永井さんの文章からヴィトゲンシュタインと西田について述べた部分を抜粋して対比してみます。差異が一目でわかりますね。


    >ヴィトゲンシュタインは史上最初に登場した確信犯である。彼は驚くべきことに、言葉が体験と独立にそれだけで意味を持ちうると信じている。「体験」もまたそういう言葉にすぎないのだ。

    >西田は逆の確信犯だから、これまた驚くべきことに、体験が言葉と独立にそれだけで意味を持ちうると信じている。言葉の意味もまたそういう体験にすぎないのだ。

    二人はちょうど逆の意味で確信犯であるとされています。ヴィトゲンシュタインは「言葉」を独立させるのに対して、西田は「体験」を独立させる。

    西田というと参禅体験もあり仏教的なものが哲学に取り込まれていると一般に理解されています。日本の仏教者に西田的なものをみることは、むしろ常識的ですね。ところが永井さんは、内山興正にヴィトゲンシュタインと同じ問題意識をみる。ここら辺が、仏教者との鼎談でのズレの感覚の一つの原因かもしれない。結局永井さんでも、ヴィトゲンシュタインも西田幾多郎も方向は違えど同じところにいるのかもしれません。ここはよくわかりません。

    永井さんは内山論を執筆する予定だとも言われていて、そこで自説を展開されるのではないでしょうか。


引用返信/返信 削除キー/
■7664 / inTopicNo.29)  善の研究
□投稿者/ ななし -(2020/10/11(Sun) 15:54:07)
    こんにちは、西田哲学の自己について批評家の若松英輔氏は、「100分de名著」 西田幾多郎 善の研究−人は誰もが生かされているの中でユング心理学のself-realization(自己実現)を用いて自己とは、他者と結びつくもので、ユングは個人的無意識の奥に、普遍的無意識(集合的無意識)という地平があると考えていたと述べています。

    それは、人間というものが群れで生活するものだから必然的に他者を「元型」(アーキタイプ)のイメージパターンとして人類の心の中で脈々と受け継がれてきたのであり、「善の研究」の善とは、自己実現にあるのだとしています。

    そして、若松氏によれば、西田は「最上の善」とは、個々の人間のなかに眠っているものが世に出現し「円満なる発達を遂げる」ことなのだと。

    ユングによれば、私たちが「自己」を認識できるのもまた、この「集合的無意識」が存在するからで、確かに、無意識・普遍的に共有できる「何か」がなければ、
    自分が生きる価値を見いだすこともできないでしょうし、他人と話をしても通じないような気がしますね。

    なので、「集合的無意識があるからこそ、人は自分自身とも他者とも対話・理解し合えるのだ」と言えます。

    また、西田の「自己」を「仏性」として捉えた人物が道元禅師だとし、仏法によって開花された仏性を生きること、それが道元の最高善だったとも若松氏は述べています。

    つまり、自己の欲望に囚われない他者へ生きることが善なのだということでしょうか。

    No7602に返信(knowing itselfさんの記事)
    > 「西田幾多郎 〈絶対無〉とは何か」永井均 p44〜46。ここで永井さんは上記「哲学探究」の該当箇所を引用しながら、永井=ヴィトゲンシュタイン的なものの核心を語っているように思われます。おそらく永井さんの内山興正理解はこの延長にある。仏教者二人との鼎談でズレていたのは、ヴィトゲンシュタインの永井解釈がわからないとピンとこないからだと思います。
引用返信/返信 削除キー/
■7661 / inTopicNo.30)  私的言語の可能性
□投稿者/ パニチェ -(2020/10/11(Sun) 14:15:23)
    2020/10/11(Sun) 14:50:54 編集(投稿者)

    永井均著「ウィトゲンシュタイン入門」

    鬼界彰夫著「ウィトゲンシュタインはこう考えた」

    入不二基義著「ウィトゲンシュタイン」

    これ調べ直してみましたが一筋縄ではいきませんね。
    そう言えばはるか昔にYahoo!掲示板で善財さんやget953さんと私的言語の可能性について議論したことを思い出しました。

    『「私的言語」とは自分の内的体験(感覚、気分等)を指すために使われる自分専用の言語のことだが、一般的な解釈によれば、ウィトゲンシュタインは『探究』243節以下において、まさに「規則的に『私的』に従うことはできない」という理由によって、そのような言語の不可能性を主張したとされる。しかし、実は、ことはそれほど単純ではない。(永井均著『ウィトゲンシュタイン入門 P.172』より)』



引用返信/返信 削除キー/
■7660 / inTopicNo.31)  Re[38]: 〈私〉と非二元
□投稿者/ パニチェ -(2020/10/11(Sun) 12:53:42)
    レスありがとうございます。

    No7656に返信(minoriさんの記事)

    > >> 非二元についての本はいろいろあるのですが、今、私も読んでいる『悟りを生きる 非二元へのシンプルなガイド』スコット・キルビー 著 は、いいですよ。
    > >> 非二元の本って、雲にまくかのような表現してるんじゃない?と思われても仕方ないような表現してる本もあるみたいなのですが、これはそういうのがないです。
    > >> 1600円で高くないですし。

    > >ありがとうございます。〈私〉と非二元の結婚に役立ちそうですね。
    > >昼以降、紀伊国屋に在庫があれば買ってきます。^^

    > へんな癖もなく実直に非二元について説明されている本だと思います。
    > 作者は外国人なので翻訳本になりますが、訳にぎごちなさもなく読みやすいです。

    > 私は、〈私〉について理解しきれていないので、非二元と重なる部分があるのかないのかは分からないんです。
    > ですので、パニチェさんがこの本を読まれて非二元の主体である「気づき」とそこに現れる世界のさまざまの関係、そのあたりを理解されたなら、〈私〉と非二元の「気づき」の同じ部分、相違点を見つけることが可能ではないでしょうか。

    > その本の内容についてもし不明な点があれば、そして私が分かればですが説明いたしますのでおっしゃってくださいね。
    > パニチェさんは十分な知識をお持ちで、先入観も少ない方なので、理解されるのにそれほど苦労はされないと思います。

    十分な知識がるとか、先入観が少ないってことはないのですが、ありがとうございます。
    是非、読書会をお願いします。
    梅田の紀伊国屋にもジュンク堂、その他の書店にも在庫がなかったのでAmazonで注文しますた。^^

引用返信/返信 削除キー/
■7659 / inTopicNo.32)  Re[36]: 「哲学探究」Tー261
□投稿者/ パニチェ -(2020/10/11(Sun) 12:46:25)
    2020/10/11(Sun) 13:08:53 編集(投稿者)

    レスありがとうございます。

    No7655に返信(knowing itselfさんの記事)
    > レスありがとうございます。
    >
    > ■No7642に返信(パニチェさんの記事)
    >>おはようございます、knowing itselfさん。レスありがとうございます。
    >>
    >>■No7632に返信(knowing itselfさんの記事)
    > >>パニチェさん こんばんは。引用を続けますね。永井さんのどういう思考が展開されているかご覧ください。
    >>
    >>お手間かけました。ありがとうございます。
    >>以下は通して書き出してみますね。
    >>
    >>■No7602に返信(knowing itselfさんの記事)
    > >>「西田幾多郎 〈絶対無〉とは何か」永井均 p44〜46。ここで永井さんは上記「哲学探究」の該当箇所を引用しながら、永井=ヴィトゲンシュタイン的なものの核心を語っているように思われます。おそらく永井さんの内山興正理解はこの延長にある。仏教者二人との鼎談でズレていたのは、ヴィトゲンシュタインの永井解釈がわからないとピンとこないからだと思います。
    >>
    >>>>*************** 引用開始 ***************
    >>>>
    >>>>確信犯ヴィトゲンシュタインとの対決
    >>>>
    >>>>それゆえ西田は、デカルトが直面しなかった難問に直面していた。自分の哲学をどうして言葉で語れるのか、という問題である。彼は、この難局からどうやって脱出することができたのだろうか。
    >>>>前章の最後に私は「その後の西洋哲学史は、生の事実でない側を自立させる方向へと展開した」と書いたが、この方向の頂点に位置するのがヴィトゲンシュタインである。彼は、自分だけに起こる感覚を指す、自分にとってだけ意味を持つ語(E)というものを想定して、そういうものが言語として機能しうるかを自問し、ついにこう書いている。
    >>>>
    >>>>哲学探究261
    >>>>『「E」をある感覚の記号と呼ぶことに、どのような根拠があるのか。つまり、「感覚」というのは、われわれに共通の言語に含まれる語であって、わたしくしだけに理解される言語の語ではない。それゆえ、この語の慣用は、すべての人が了解するような正当化を必要とする、──だから、また、それが感覚である必要はあるまいとか、かれが「E」と書くときには何かを感じているのだとか言ったところで、何の役にも立たないであろう──しかも、それ以上のことをわれわれは何も言えないだろう。ところが、「感じている」とか「何かを」とかいうことばもまた、共通の言語に属している。──だから、ひとは哲学する際、ついにはいまだ不分明な音声だけを発したくなるような段階へと到達する。──しかし、そのような音声は、一定の言語ゲームの中にあってのみ、一つの表現になっているのである。いまや、その言語ゲームが記述されなくてはならない。』
    >>>>
    > >>「E」を、西田のいう「言語に言い現すことのできない」はずの「直接経験の事実」だけを特別に指す特製の語だと解釈してみよう。するとヴィトゲンシュタインはこう言っていることになる。ーいや、しかし、その「直接経験の事実」だって、われわれの共通の言語に含まれる言葉じゃないですか。だから、初めから「直接経験の事実」という言葉が位置を持つ言語ゲームに乗っかっているんですよ。もしそれを拒否しようとするなら、あなたは最後には分節化されていない音声だけを発したくなる段階に達してしまいますよ。そして、そのときでさえ、その音声がもし何らかの意味を持つなら、それはそれが意味を持つような言語ゲームの中に位置づけられているからなのですよ。もしそうでないとしたら、恐ろしいことに、あなたの叫び声は誰にも何の意味も持たないのです。

    > もしデカルトが史上最初に、そうとは知らずにこの犯罪を犯してしまった過失犯だったとすれば、そして、その後のイギリス経験論、ドイツ観念論、フッサール現象学、等々が、この過失犯の子孫だったのだとすれば、ヴィトゲンシュタインは史上最初に登場した確信犯である。彼は、驚くべきことに、言葉が体験と独立にそれだけで意味を持ちうると信じている。「体験」もまたそういう言葉にすぎないのだ。もちろん、デカルトはそんな馬鹿げた信仰はもっていないが、そうとは知らずに、その信仰が可能な道を切り開いた。西田は逆の確信犯だから、これまた驚くべきことに、体験が言葉と独立にそれだけだで意味を持ちうると信じている。言葉の意味もまたそういう体験にすぎないのだ。もちろんデカルトは、そんな馬鹿げた信仰も持ってはいないが、そうとは知らずに、そのような信仰が可能にんqる道も切り開いた。デカルト自身は過失犯であるから、体験と言語がなんの問題もなく相即することを疑おうともしなかった(ヴィトゲンシュタインと西田はそんな素朴な信仰だけは持っていなかった)。
    >>
    >>>>>>*************** 引用終わり ***************
    >>
    >>上記の永井さんの言わんとしていることは、〈私〉や「直接経験の事実」が永井さんの言う「独在と頽落の終わることなき拮抗運動」に埋没してしまうのは、言語ゲームに乗せた瞬間に変質してしまうからであり、私的言語が不可能であることと同類の理由で〈私〉や「直接経験の事実」の内実は言語化不能であるということ、つまり慣用されることよって、その語の使用が適用か誤用かを判断できないために言語ゲーム外になるということだと思います。
    > ここでの永井さんは、むしろ、体験が言語そのものだといっているようにも読めます。私的言語ではないが言語は言語なんだと。言語ゲーム論もその方向で捉えている?永井さんのは、一般的に言語ゲームとされているのとは微妙にズレている印象を受けました。

    なるほど。追加してもらった引用「彼は、驚くべきことに、言葉が体験と独立にそれだけで意味を持ちうると信じている。」を読む限りではそういうことでしょうね。
    そうすると永井さんは私的言語を認める派になりますね(パニチェも私的言語を認める派です)、多分、ウィトゲンシュタインは私的言語は不可能だと主張していると思いますが。。。。
    上記の推論が正しいとするなら永井さんがウィトゲンシュタインを読み間違えている、あるいは一般的なウィトゲンシュタイン解釈と対立することになります。

    >>knowing itselfさんが上記で指摘されているのは、「独在と頽落の終わることなき拮抗運動」や「私的言語の不可能性」が良道さんや一照さんが理解していないために齟齬が生じているということでしょうか。
    > 永井さんが内山興正を高評価している理由は、デカルトとヴィトゲンシュタインだけがわかっていたことを内山興正もわかっていたからだと。永井さんは最初の過失犯がデカルトで確信犯がヴィトゲンシュタインであると、今引用した通り、西田幾多郎論で指摘していますが、ここにその一端が表現されていると思いました。良道さんや一照さんだけでなく、永井さん以外(笑)のほとんどの人にとってわかりずらいのではないでしょうか。

    なるほど、ようやくknowing itselfさんの言わんとしていることが多分理解できました。
    二つ気になる点があるのは永井さんがウィトゲンシュタインは確信犯だとしている点と、もうひとつは何をもって永井さんは内山興正老師も分かっていると判断しているのかという点です。
引用返信/返信 削除キー/
■7656 / inTopicNo.33)  Re[37]: 〈私〉と非二元
□投稿者/ minori -(2020/10/11(Sun) 11:39:18)
    パニチェさん、レスありがとうございます。

    >上記は〈私〉に関するもので、意識は身体内にあるものと考えています。

    わかりました。ありがとうございます。

    >> 非二元についての本はいろいろあるのですが、今、私も読んでいる『悟りを生きる 非二元へのシンプルなガイド』スコット・キルビー 著 は、いいですよ。
    >> 非二元の本って、雲にまくかのような表現してるんじゃない?と思われても仕方ないような表現してる本もあるみたいなのですが、これはそういうのがないです。
    >> 1600円で高くないですし。

    >ありがとうございます。〈私〉と非二元の結婚に役立ちそうですね。
    >昼以降、紀伊国屋に在庫があれば買ってきます。^^

    へんな癖もなく実直に非二元について説明されている本だと思います。
    作者は外国人なので翻訳本になりますが、訳にぎごちなさもなく読みやすいです。

    私は、〈私〉について理解しきれていないので、非二元と重なる部分があるのかないのかは分からないんです。
    ですので、パニチェさんがこの本を読まれて非二元の主体である「気づき」とそこに現れる世界のさまざまの関係、そのあたりを理解されたなら、〈私〉と非二元の「気づき」の同じ部分、相違点を見つけることが可能ではないでしょうか。

    その本の内容についてもし不明な点があれば、そして私が分かればですが説明いたしますのでおっしゃってくださいね。
    パニチェさんは十分な知識をお持ちで、先入観も少ない方なので、理解されるのにそれほど苦労はされないと思います。
引用返信/返信 削除キー/
■7655 / inTopicNo.34)  Re[35]: 「哲学探究」Tー261
□投稿者/ knowing itself -(2020/10/11(Sun) 11:11:59)
    レスありがとうございます。

    No7642に返信(パニチェさんの記事)
    > おはようございます、knowing itselfさん。レスありがとうございます。
    >
    > ■No7632に返信(knowing itselfさんの記事)
    >>パニチェさん こんばんは。引用を続けますね。永井さんのどういう思考が展開されているかご覧ください。
    >
    > お手間かけました。ありがとうございます。
    > 以下は通して書き出してみますね。
    >
    > ■No7602に返信(knowing itselfさんの記事)
    >>「西田幾多郎 〈絶対無〉とは何か」永井均 p44〜46。ここで永井さんは上記「哲学探究」の該当箇所を引用しながら、永井=ヴィトゲンシュタイン的なものの核心を語っているように思われます。おそらく永井さんの内山興正理解はこの延長にある。仏教者二人との鼎談でズレていたのは、ヴィトゲンシュタインの永井解釈がわからないとピンとこないからだと思います。
    >
    > >>*************** 引用開始 ***************
    > >>
    > >>確信犯ヴィトゲンシュタインとの対決
    > >>
    > >>それゆえ西田は、デカルトが直面しなかった難問に直面していた。自分の哲学をどうして言葉で語れるのか、という問題である。彼は、この難局からどうやって脱出することができたのだろうか。
    > >>前章の最後に私は「その後の西洋哲学史は、生の事実でない側を自立させる方向へと展開した」と書いたが、この方向の頂点に位置するのがヴィトゲンシュタインである。彼は、自分だけに起こる感覚を指す、自分にとってだけ意味を持つ語(E)というものを想定して、そういうものが言語として機能しうるかを自問し、ついにこう書いている。
    > >>
    > >>哲学探究261
    > >>『「E」をある感覚の記号と呼ぶことに、どのような根拠があるのか。つまり、「感覚」というのは、われわれに共通の言語に含まれる語であって、わたしくしだけに理解される言語の語ではない。それゆえ、この語の慣用は、すべての人が了解するような正当化を必要とする、──だから、また、それが感覚である必要はあるまいとか、かれが「E」と書くときには何かを感じているのだとか言ったところで、何の役にも立たないであろう──しかも、それ以上のことをわれわれは何も言えないだろう。ところが、「感じている」とか「何かを」とかいうことばもまた、共通の言語に属している。──だから、ひとは哲学する際、ついにはいまだ不分明な音声だけを発したくなるような段階へと到達する。──しかし、そのような音声は、一定の言語ゲームの中にあってのみ、一つの表現になっているのである。いまや、その言語ゲームが記述されなくてはならない。』
    > >>
    > >>*************** 引用終わり ***************
    >>
    >>「E」を、西田のいう「言語に言い現すことのできない」はずの「直接経験の事実」だけを特別に指す特製の語だと解釈してみよう。するとヴィトゲンシュタインはこう言っていることになる。ーいや、しかし、その「直接経験の事実」だって、われわれの共通の言語に含まれる言葉じゃないですか。だから、初めから「直接経験の事実」という言葉が位置を持つ言語ゲームに乗っかっているんですよ。もしそれを拒否しようとするなら、あなたは最後には分節化されていない音声だけを発したくなる段階に達してしまいますよ。そして、そのときでさえ、その音声がもし何らかの意味を持つなら、それはそれが意味を持つような言語ゲームの中に位置づけられているからなのですよ。もしそうでないとしたら、恐ろしいことに、あなたの叫び声は誰にも何の意味も持たないのです。
    >
    >>引用終わり
    >
    > ********************************************
    >
    > 上記の永井さんの言わんとしていることは、〈私〉や「直接経験の事実」が永井さんの言う「独在と頽落の終わることなき拮抗運動」に埋没してしまうのは、言語ゲームに乗せた瞬間に変質してしまうからであり、私的言語が不可能であることと同類の理由で〈私〉や「直接経験の事実」の内実は言語化不能であるということ、つまり慣用されることよって、その語の使用が適用か誤用かを判断できないために言語ゲーム外になるということだと思います。

    ここでの永井さんは、むしろ、体験が言語そのものだといっているようにも読めます。私的言語ではないが言語は言語なんだと。言語ゲーム論もその方向で捉えている?永井さんのは、一般的に言語ゲームとされているのとは微妙にズレている印象を受けました。

    > knowing itselfさんが上記で指摘されているのは、「独在と頽落の終わることなき拮抗運動」や「私的言語の不可能性」が良道さんや一照さんが理解していないために齟齬が生じているということでしょうか。

    永井さんが内山興正を高評価している理由は、デカルトとヴィトゲンシュタインだけがわかっていたことを内山興正もわかっていたからだと。永井さんは最初の過失犯がデカルトで確信犯がヴィトゲンシュタインであると、今引用した通り、西田幾多郎論で指摘していますが、ここにその一端が表現されていると思いました。良道さんや一照さんだけでなく、永井さん以外(笑)のほとんどの人にとってわかりずらいのではないでしょうか。
引用返信/返信 削除キー/
■7653 / inTopicNo.35)  Re[35]: 「哲学探究」Tー261
□投稿者/ knowing itself -(2020/10/11(Sun) 10:55:19)
    パニチェさん レスありがとうございます。返信する前に前回までの引用に付加したいと思います。

    引用開始。

    もしデカルトが史上最初に、そうとは知らずにこの犯罪を犯してしまった過失犯だったとすれば、そして、その後のイギリス経験論、ドイツ観念論、フッサール現象学、等々が、この過失犯の子孫だったのだとすれば、ヴィトゲンシュタインは史上最初に登場した確信犯である。彼は、驚くべきことに、言葉が体験と独立にそれだけで意味を持ちうると信じている。「体験」もまたそういう言葉にすぎないのだ。もちろん、デカルトはそんな馬鹿げた信仰はもっていないが、そうとは知らずに、その信仰が可能な道を切り開いた。西田は逆の確信犯だから、これまた驚くべきことに、体験が言葉と独立にそれだけだで意味を持ちうると信じている。言葉の意味もまたそういう体験にすぎないのだ。もちろんデカルトは、そんな馬鹿げた信仰も持ってはいないが、そうとは知らずに、そのような信仰が可能にんqる道も切り開いた。デカルト自身は過失犯であるから、体験と言語がなんの問題もなく相即することを疑おうともしなかった(ヴィトゲンシュタインと西田はそんな素朴な信仰だけは持っていなかった)。
引用返信/返信 削除キー/
■7646 / inTopicNo.36)  〈私〉と非二元
□投稿者/ パニチェ -(2020/10/11(Sun) 08:38:45)
    おはようございます、minoriさん。レスありがとうございます。
    以下の返信は、先のminoriさんの返信に同意のところは省略します。

    No7636に返信(minoriさんの記事)
    > >>ただ言えるのは、「気づき」「スクリーン」は、身体内に閉じ込められたものではないんです。
    > >>(パニチェさんは、意識は身体内にあるものと考えられますよね?)
    >>身体の内か外かと問われれば内ですが、正確には世界の外ですね。
    >>身体性が世界内にあると考えれば、身体の外とも言えます。
    > 上記は、「意識」の存在する場所という意味で書かれたものでいいのですか?

    ごめんなさい。間違えました。上記は〈私〉に関するもので、意識は身体内にあるものと考えています。

    >>ここ分からないのですが。。。
    >>「個」はなくて、逆に連続性だけがあるのが本質としての世界だと見れる理由というか根拠は何でしょうか。

    > 「個」だと分かりずらいかもですので、別の表現をします。
    > 個別のものは存在せず、分離がない世界 と言い換えます。
    > (「個」はなくて、逆に連続性だけがあるのが本質としての世界 の言い換えです。)
    > 私たちが世界を観る時、思考、分析を介して観るなら、名前を持つ個別のものがそれぞれに存在する世界を観ますね。
    > しかし、思考、分析を介さずに「ただ観る」時、観る世界に分離はあるでしょうか?
    > パニチェさんが自宅の部屋にいらして室内を「ただ観る」されると、この意味がお分かりいただけると思います。

    なるほど、空間的な連続性ですね。
    科学的にも刺激と脳の反応は不二だし、新陳代謝(エネルギーの出入力)やヒッグス場を考えても個別のものはありません。
    中論で言えば相依性縁起、そこから思考によって分断化(分離)が生じるということですね。
    言語のラベリングによってより明確な分断化が生じますが、それ以前に思考によって自他の分離が生ずるというようなことでしょうか。

    > >>時間・空間、カテゴリー分けは人間の都合で利便性追求の為に考えられたものであって、それらをぶっ壊して解体した世界を見るわけです。
    > >>瞑想しなくても、考察でもできますよ。
    > >>「個」がある意味、幻想であるなら、意識も「個」に所属しているわけがない、だから、スクリーン、「気づき」という意識とは別の言葉で言い表すんです。

    なるほど。

    >>個が幻想であるというのは仮定でしょうか、それとも何かリアルな根拠がありますか?
    > 「個」がある意味、幻想であるなら、と表現したのは、
    > 世界は二通りの言い方で表現できる、といううちの一つのほうの表現をするなら、という意味です。

    > 一つ目は、世界は分離していない という観方。(非二元的観方)
    > 二つ目は、個別のものがそれぞれに存在している という誰でもしている普通の観方。
    > その、一つ目のほうの観方でいくなら、「個」「個別のもの」は、ある意味、幻想とも表現できる、という意味です。

    > そもそも。『「私」という実体はない』というフレーズも本当のこととして実感できるものですよ。
    > 実体を自分の内に探そうとすると「ない」んです。
    > つまり、「私」は思考により立ち上がってくるものなんです。

    > 思考によって立ち上がってくる「私」がない状態で世界と接している、それが「ゾーンにいる」時です。
    > これなら、実感として理解できると思います。
    > 「ゾーンにいる」というのは、西田哲学の純粋経験とも繋がると思います。
    > そもそも本来、いつでも誰でも「ゾーンにいる」のだけど、思考によって立ち上がってくる「私」がそうは思わせなくしているのです。
    > このことがリアルな根拠になると思います。

    まさしく言葉以前、主客未分化の純粋経験ですね。
    ここまでのminoriさんの説明は理屈としてはよく分かります。

    > >>意識っていうと、身体内にあるものと思ってしまいますから。
    >>その個に所属していない「気づき」と、私秘性や他の誰でもない自分の痛みを有する主体との関係性はどうなりますか?
    > 後者のほうを主体とはみません。
    > それは、先に書いたように「思考によって立ち上がってくる言わば幻想とも言える主体」と非二元的には考えます。
    > あくまで、「気づき」が主体です。 「気づき」に、ズキズキする歯の痛み、硬い食感、カラスの鳴き声などなど、次々にいろんなものが表れてきます。
    > 「私」と言われるminoriの話し声も、誰かと話していると聞こえてきます。

    ここのところが理屈としては分かっても、今のところ実体験としては〈私〉の方がリアルなので、〈私〉と非二元や無我の結びつきが希薄なんだと思います。
    自我とか意識(無意識に対する意識)って、意識した時、あるいは思考や内観によって立ち上がるので、中を見たり、何かを取り出す時に扉を開けた瞬間に灯る冷蔵庫の庫内灯のようなものだと思うんです。
    この庫内灯を消灯したままで痛みや食感や音が現れるということろが(多分、日常的にやってるんでしょうが)未だパニチェの実感としては薄いです。^^

    > 非二元についての本はいろいろあるのですが、今、私も読んでいる『悟りを生きる 非二元へのシンプルなガイド』スコット・キルビー 著 は、いいですよ。
    > 非二元の本って、雲にまくかのような表現してるんじゃない?と思われても仕方ないような表現してる本もあるみたいなのですが、これはそういうのがないです。
    > 1600円で高くないですし。

    ありがとうございます。〈私〉と非二元の結婚に役立ちそうですね。
    昼以降、紀伊国屋に在庫があれば買ってきます。^^

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