| >>ラマナマハルシやムージ、ルパートスパイラといった人たちが、「映画とスクリーン」の喩えを使うときは、スクリーンこそが光の源泉、光そのもの、究極の輝かしい光といった意味ですね。 > > はい。ラマナマハルシのそれを日本語訳されたものは真我とされているようですね。 > ルパートスパイラは、「気づき」ですね。 > > >スクリーンに映し出される映画内容はその源泉を自己限定、何倍にも薄めたものであって、映画内容だけにこだわるから愚劣な三文映画になる、悲劇映画になる、ホラー映画になるという主張です。映画内容にこだわって一流映画やハッピエンドーは不可能だと。ご存知だと思いますが。 > > 映画の内容それそのものにしか自分はいない、と思えば、優越感や劣等感に苛まれるものになりがちですね。 > 本質は、真我、「気づき」であるということを知れば、映画は映画として、その中で楽しんだり努力したり、泣いたり笑ったりと、が以前とはまた違うものになるということですね。 > これは大きいと思います。 > ルパートスパイラさんは、現在、こうしたことを動画でもよく語ってくれていると思います。
ルパートスパイラが言うには、人間の一生におけるあらゆる欲望、欲求、願望は、ほとんどの人は自覚できないが「気づき」という源泉に戻るためだと。オモチャで、昆虫採集で、恋愛で、音楽で、映画鑑賞で、大金ゲットで、アルコールやギャンブルで、学業や仕事の成功で、心が満たされるとしても、それはオモチャや相手の異性や音楽やお金などによって満たされるのではなく、「気づき」というあらゆる喜びや満足の源泉に触れたことによって満たされる。「気づき」は外側ではなく、常にいまここに働いていることがわかれば、獲得や競争に振り回されることは少なくなる。
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