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■6915 / inTopicNo.61)  Re[16]: 無味無臭無色透明の〈私〉
  
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/21(Mon) 06:37:40)
    おはようございます、minoriさん。
    レスありがとうございます。〈私〉に興味を持ってもらえて光栄です。^^

    No6911に返信(minoriさんの記事)

    > 私秘性を持つ〈私〉の話した言葉や、した仕草(言語ではないコミュニケーション)が他者に伝わるということは、「他者でも認識可能な世界内の出来事になる」ということ。
    > しかし、伝わらなければ、知られることがなければ、無色透明で私秘性を持つ〈私〉のままなのだ、というような意味ですか?

    それはその通りです。
    あと他者を抜きにしても思考や感情が生じた時点で〈私〉から「私」へ移行すると思います。
    思考や論理というのは言語であり、感情は正確な言語化ができないとしても他者もありえる状態です。

    〈私〉は何も映っていないスクリーン、あるいは鏡面のようなものだと考えています。
    そこに何か映ればそれは「私」となります。
    何故なら伝えなければ私秘性を保ったままであっても(厳密に言えば私秘性を保つという表現は不自然ではありますが)他者もその状態がありえるからです。

    一方、〈私〉は他者がその状態であることはありえない、パニチェにとってはその状態というか存在様相しかありえないものであるからです。
    〈私〉を意識した時、冷蔵庫に灯る庫内灯のように、意識した時点(灯った時点)で少し元の〈私〉は変質してしまうような存在かもしれませんが、ここらは未だ探究中です。

引用返信/返信 削除キー/
■6914 / inTopicNo.62)  Re[14]: knowing itselfさん
□投稿者/ knowing itself -(2020/09/21(Mon) 06:06:53)
    おはようございます。

    > 仏教2.0 テーラーワーダ  道が涅槃
    > 仏教1.0 大乗      一生の参学ここに終わりぬ  
    > knowing itselfさん風に言えば大乗型涅槃が夢を見ない熟睡型、テーラーワーダ型が夢を見る睡眠というところでしょうか。

    あくまでわたしが理解している範囲で大雑把なことしかいえませんが、涅槃そのものは夢をみない熟睡だと思います。ただこの夢をみない熟睡状態を厳格に捉えるか、果たして誰が入ったかの理解でいろんな立場がある。どの仏教でも釈迦は入りますね。後は?本当の意味では阿羅漢でもまだという立場もありえますが、それだけとメチャメチャ厳しい。これが仏教2・0だと理解しています。

    大乗仏教は、その同じ涅槃に入る主体を極限まで拡大する立場だと思います。仏教1・0とは、涅槃の内容をレベルダウンさせて、風化させて、誰でも悟っていることにする、無内容な形式仏教という意味で使われる場合と、昭和以前の伝統的な日本大乗仏教という意味で使われる場合と、分かれるようでもあります。曖昧な用語ですね。藤田さんが1・0だと思うと評したのは後者の意味で、彼は真の大乗仏教精神を体現された稀有の人だと思います。

    > ただ世俗との関係がやっぱりあるように思います。

    涅槃の主体が思いっきり拡張されるのでから、世俗との関係なしの大乗仏教はありえないと思います。

    > 藤田一照さんって永平寺の会報みたいのにも文章を書いておられて、あまり過激な路線には踏み込めないのかもって思いました。

    そうだと思います。藤田さんの対談集が何冊も出ていますが相手の幅がすごく広いです。こういうのをこなせるのは藤田さんしかいないです。懐が広くて頭脳明晰な方です。
    そもそも仏教3・0を言い出したのは藤田一照さんですからね。藤田一照さんもこの用語が非常に多義的で文脈によって様々な意味を持ちうると仰っています。藤田一照さんの

引用返信/返信 削除キー/
■6913 / inTopicNo.63)  knowing itselfさん
□投稿者/ たーぼー -(2020/09/20(Sun) 23:37:45)
    knowing itselfさん、こんばんわ。
    返信ありがとうございます。


    <涅槃の解釈は大雑把に分類すれば、大乗仏教とテーラワーダなどの非大乗の二種類だと思います。仏教2・0は後者ですね。藤田一照さんとの違いは良道さんはテーラワーダの修行を体験したことでしょう。涅槃はテーラワーダのそれだけど、主体についてだけ大乗仏教的。その意味で非常に例外的なので、禅宗からもテーラワーダからも叩かれているようです。


    分かりました。そうすると涅槃は大まかに二種類ですね。
    仏教2.0 テーラーワーダ  道が涅槃
    仏教1.0 大乗      一生の参学ここに終わりぬ  
    knowing itselfさん風に言えば大乗型涅槃が夢を見ない熟睡型、テーラーワーダ型が夢を見る睡眠というところでしょうか。
    ただ世俗との関係がやっぱりあるように思います。
    今、手元に2冊牛十図があるんですけど、1冊は臨済宗の松原哲明さん。
    もう1冊が臨済宗の今の円覚寺派管長の横田南嶺さんですけど、お二人とも仏教2.0までで終わってます。横田さんの本の最後らへんに
    [灯火の消えて何処にゆくやらん 暗きはもとの住処なりけり]
    でもそのあとに、しかし我々の禅の修行では、暗いところに留まっているようではいけないと続け、
    [灯火の消えて何処にゆくやらん 旭となりて明日を照らさん]
    日はまた昇るという世界を説いているのです。
    藤田一照さんって永平寺の会報みたいのにも文章を書いておられて、あまり過激な路線には踏み込めないのかもって思いました。
引用返信/返信 削除キー/
■6912 / inTopicNo.64)  マジカルモンキーさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/20(Sun) 23:09:37)
    2020/09/20(Sun) 23:10:50 編集(投稿者)

    レスありがとうございます。

    No6909に返信(マジカルモンキーさんの記事)

    > パニチェさんへ

    > 今までの無礼を誠に申し訳ありませんでした。
    > 私は上述の内容、理解いたしました。
    > 自慢癖、ナルシスト、全て理解いたしました。
    > この思いを伝えなければいけないと思い、文章化しました。
    > 誠にありがとうございます。

    私もマジカルさんには失礼なレスをしたことがあると思います。
    申し訳ありませんでした。
    気が向かれましたらトピを作成いたします。
    いつでも依頼下さい。
    これからもよろしくお願いします。

    おやすみなさい。
引用返信/返信 削除キー/
■6911 / inTopicNo.65)  Re[15]: 無味無臭無色透明の〈私〉
□投稿者/ minori -(2020/09/20(Sun) 23:01:16)
    No6908に返信(パニチェさんの記事)

    パニチェさん、レスありがとうございます。

    >>〈私〉は無色透明とありますが、比類なき唯一無二であることと無色透明であることが結びつかないようにminoriには感じられてしまうのです。
    >>〈私〉のどういう部分が無色透明なのだろう、というのがわからないんです。
    >>例えばですが、〈私〉の「意識」そのもの、それ自体が無色透明だという話ですか?
    >>〈私〉の考える思考、感じる感情というが無色透明と表現されるのは、なにか違和感があるのですが、「意識」であれば違和感がminori的にはないのですね。
    >>このあたりいかがですか?
    >
    > これめちゃめちゃ説明しにくいし、伝わるかどうか大いに疑問なんですが、取りあえず書いてみます。
    > 比喩でしか伝えようがないのですが、結論から言えば〈私〉に匂いや色が付けば〈私〉ではなく「私」となります。

    ああ、なんとなくわかったかもしれません。

    > または匂いや色が付けば言語化可能になると言った方が分かりやすいかもしれません。
    >
    > では何故〈私〉という唯一無二性が保証(担保)されるのかと言うと、この説明は比喩になります。
    > 例えば〈今〉と10分前の「今」は今であること自体に何の違いもありません。
    > どちらも無味無臭無色透明ですが、〈今〉と10分前の「今」を間違えようがありません。
    > 何故なら〈今〉は何の担保もなく、そうでない状態がありえないからです。
    > この違いは言語化できません。
    >
    > ところが10分前の出来事があった「今」と、〈今〉まさに起こってる出来事は言語化できますし、その違いも説明可能です。
    > この出来事が味、匂い、色、形であり、世界内のものとなりまます。
    > 〈私〉に何らかの味、匂い、色、形が加味されれば他者でも認識可能な世界内の出来事になるということです。

    私秘性を持つ〈私〉の話した言葉や、した仕草(言語ではないコミュニケーション)が他者に伝わるということは、「他者でも認識可能な世界内の出来事になる」ということ。
    しかし、伝わらなければ、知られることがなければ、無色透明で私秘性を持つ〈私〉のままなのだ、というような意味ですか?


引用返信/返信 削除キー/
■6909 / inTopicNo.66)  パニチェ殿へ謝罪
□投稿者/ マジカルモンキー -(2020/09/20(Sun) 22:58:10)
    No6908に返信(パニチェさんの記事)
    > こんばんは、minoriさん。横レス歓迎します。
    >
    > ■No6906に返信(minoriさんの記事)
    >
    >>〈私〉は無色透明とありますが、比類なき唯一無二であることと無色透明であることが結びつかないようにminoriには感じられてしまうのです。
    >>〈私〉のどういう部分が無色透明なのだろう、というのがわからないんです。
    >>例えばですが、〈私〉の「意識」そのもの、それ自体が無色透明だという話ですか?
    >>〈私〉の考える思考、感じる感情というが無色透明と表現されるのは、なにか違和感があるのですが、「意識」であれば違和感がminori的にはないのですね。
    >>このあたりいかがですか?
    >
    > これめちゃめちゃ説明しにくいし、伝わるかどうか大いに疑問なんですが、取りあえず書いてみます。
    > 比喩でしか伝えようがないのですが、結論から言えば〈私〉に匂いや色が付けば〈私〉ではなく「私」となります。
    > または匂いや色が付けば言語化可能になると言った方が分かりやすいかもしれません。
    >
    > では何故〈私〉という唯一無二性が保証(担保)されるのかと言うと、この説明は比喩になります。
    > 例えば〈今〉と10分前の「今」は今であること自体に何の違いもありません。
    > どちらも無味無臭無色透明ですが、〈今〉と10分前の「今」を間違えようがありません。
    > 何故なら〈今〉は何の担保もなく、そうでない状態がありえないからです。
    > この違いは言語化できません。
    >
    > ところが10分前の出来事があった「今」と、〈今〉まさに起こってる出来事は言語化できますし、その違いも説明可能です。
    > この出来事が味、匂い、色、形であり、世界内のものとなりまます。
    > 〈私〉に何らかの味、匂い、色、形が加味されれば他者でも認識可能な世界内の出来事になるということです。
    >
    > そういう意味で〈私〉は〈今〉と同じく無味無臭無色透明であるということなんですが、この返信で伝わる自信はありません。^^;
    >
    > PS.以下のカニッツァの三角形のスペースが〈私〉です。
    > 言語化できる部分は黒色です。



    パニチェさんへ

    今までの無礼を誠に申し訳ありませんでした。
    私は上述の内容、理解いたしました。
    自慢癖、ナルシスト、全て理解いたしました。
    この思いを伝えなければいけないと思い、文章化しました。
    誠にありがとうございます。
引用返信/返信 削除キー/
■6908 / inTopicNo.67)  無味無臭無色透明の〈私〉
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/20(Sun) 22:27:25)
    こんばんは、minoriさん。横レス歓迎します。

    No6906に返信(minoriさんの記事)

    > 〈私〉は無色透明とありますが、比類なき唯一無二であることと無色透明であることが結びつかないようにminoriには感じられてしまうのです。
    > 〈私〉のどういう部分が無色透明なのだろう、というのがわからないんです。
    > 例えばですが、〈私〉の「意識」そのもの、それ自体が無色透明だという話ですか?
    > 〈私〉の考える思考、感じる感情というが無色透明と表現されるのは、なにか違和感があるのですが、「意識」であれば違和感がminori的にはないのですね。
    > このあたりいかがですか?

    これめちゃめちゃ説明しにくいし、伝わるかどうか大いに疑問なんですが、取りあえず書いてみます。
    比喩でしか伝えようがないのですが、結論から言えば〈私〉に匂いや色が付けば〈私〉ではなく「私」となります。
    または匂いや色が付けば言語化可能になると言った方が分かりやすいかもしれません。

    では何故〈私〉という唯一無二性が保証(担保)されるのかと言うと、この説明は比喩になります。
    例えば〈今〉と10分前の「今」は今であること自体に何の違いもありません。
    どちらも無味無臭無色透明ですが、〈今〉と10分前の「今」を間違えようがありません。
    何故なら〈今〉は何の担保もなく、そうでない状態がありえないからです。
    この違いは言語化できません。

    ところが10分前の出来事があった「今」と、〈今〉まさに起こってる出来事は言語化できますし、その違いも説明可能です。
    この出来事が味、匂い、色、形であり、世界内のものとなりまます。
    〈私〉に何らかの味、匂い、色、形が加味されれば他者でも認識可能な世界内の出来事になるということです。

    そういう意味で〈私〉は〈今〉と同じく無味無臭無色透明であるということなんですが、この返信で伝わる自信はありません。^^;

    PS.以下のカニッツァの三角形のスペースが〈私〉です。
    言語化できる部分は黒色です。


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■6906 / inTopicNo.68)  パニチェさんへ
□投稿者/ minori -(2020/09/20(Sun) 21:17:28)
    パニチェさん、こんばんは。
    knowing itselfさんに先立っての横レスで、お二人に申し訳ないのですが・・・
    以前から、気になっていた部分にちょうどお話が差し掛かっているので、横レスさせていただきます。


    >>カントの仏教バージョンを作るとしたら、定言命法的な行為準則にあたるのは、人間や生きものへの無条件の慈悲の行為かと考えていますが、これは主体として直接意識できると思います。(knowing itselfさんのご投稿)

    > 一照さんが言うように〈私〉(第五図の主体)が「私」(第四図の「私」)に作用することで慈悲が芽生えるということならパニチェ的には理解できるのですが、第五図が慈悲の根拠となるというところは、もし第五図が〈私〉とイコールであるとするなら違和感があります。〈私〉は無色透明(無覆無記)、あるいは有覆無記だと現時点では思っていますので。。。。


    〈私〉は無色透明とありますが、比類なき唯一無二であることと無色透明であることが結びつかないようにminoriには感じられてしまうのです。
    〈私〉のどういう部分が無色透明なのだろう、というのがわからないんです。
    例えばですが、〈私〉の「意識」そのもの、それ自体が無色透明だという話ですか?
    〈私〉の考える思考、感じる感情というが無色透明と表現されるのは、なにか違和感があるのですが、「意識」であれば違和感がminori的にはないのですね。
    このあたりいかがですか?
引用返信/返信 削除キー/
■6903 / inTopicNo.69)  追悼文やった?
□投稿者/ pipit -(2020/09/20(Sun) 19:22:52)
    どこで読んだんやっけなー
    図書館で立ち読みしてた時かなー

    私にとってはすごく印象的で感動的な文章だったんだよね


    たしか、サンデル先生の卒論はロールズ先生の正義論でだったってこともあって、
    サンデル先生が赴任してきた時にロールズ先生が電話をくださって、、、

    記憶が曖昧だ〜

    いろいろ記憶違いしてたらすみません
    今度図書館で、サンデル先生の本をパラパラ見てみます
引用返信/返信 削除キー/
■6901 / inTopicNo.70)  自己レス
□投稿者/ pipit -(2020/09/20(Sun) 19:13:42)
    >サンデル先生は、ロールズ先生の教え子でもあるのかな?
    ロールズ先生を批判して乗り越えて、自分の哲学を打ち出そうとされたと思ってるけどね。<

    これ、ちょっと思い出した気がするんだけど、
    教え子じゃなくて、サンデル先生が、ロールズ先生のいる大学に赴任した、ってことやったかな、って。
    ロールズ先生が亡くなられたことに対するサンデル先生の追悼文?みたいなのを読んだ記憶があって、
    それがすごく印象的で、

    もしかしたら、『公共哲学 マイケル・サンデル著』に載ってるかもなので、
    機会があったら、図書館で借りて、あの文章をまた読みたいな、と、思いました。

    https://r.nikkei.com/article/DGXDZO34327720X20C11A8MZC001



引用返信/返信 削除キー/
■6900 / inTopicNo.71)  knowing itselfさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/20(Sun) 19:02:27)
    こんばんは、knowing itselfさん。レスありがとうございます。

    No6886に返信(knowing itselfさんの記事)
    > この箇所ですが、良道さんは超越的の意味を誤解しているような気がします。カントが典型的な超越論的な哲学者であるという意味で超越論的の語を使うなら、良道さんも超越論的の枠内から外れないと思います。

    永井均氏も指摘しているように、良道さんの場合、三昧のさ中にあっても慈悲の根拠たるえることを認識できる主体というのは超越的なようにも思えますが、微妙ですね。

    > 超越的か超越論的かというのは、場合によっては割り切れないと思っています。

    なるほど。

    > カントは超越論的な哲学者ですが、道徳法則による場合は物自体に直通するとされています。道徳意識は事実であるともいっています。良道氏が慈悲の瞑想によって第五図へジャンプするという口癖はカントの道徳論とどこか響きあう印象もあります。

    同意します。

    > カントの仏教バージョンを作るとしたら、定言命法的な行為準則にあたるのは、人間や生きものへの無条件の慈悲の行為かと考えていますが、これは主体として直接意識できると思います。

    一照さんが言うように〈私〉(第五図の主体)が「私」(第四図の「私」)に作用することで慈悲が芽生えるということならパニチェ的には理解できるのですが、第五図が慈悲の根拠となるというところは、もし第五図が〈私〉とイコールであるとするなら違和感があります。〈私〉は無色透明(無覆無記)、あるいは有覆無記だと現時点では思っていますので。。。。

    返信はお気遣いなく。

引用返信/返信 削除キー/
■6899 / inTopicNo.72)  Re[12]: 図書館で借りたサンデル先生の本
□投稿者/ knowing itself -(2020/09/20(Sun) 18:28:56)
    No6892に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > それにしても絵へたくそ〜
    > 内山ちゃんの、絵以前にその見方、培養人的な見方で、わたしにとっては思考に値しない。
    >
    > あ、こういうのもあるよ〜的に、ちょっと書いて見ました。
    >
    > 何にこだわってるのかしら?

    横レス失礼します。

    内山興正という人は哲学専攻でカントが卒論です。第四図には、純粋理性批判の内容が凝縮されていると読むこともできる。

    第四図と第五図の関係は、まったく同じ第四図をアタマに乗っけた人の図てある第五図というだけ。第四図をかの「マッハ的光景」図にしても、第四図VS第五図は成立します。これだと第四図に現象学的還元を施した第五図という読み方もできます。

    カント哲学的であるとともにフッサール現象学的でもある、非常に含蓄のある図になっている。絵自体は単純素朴だけど。
引用返信/返信 削除キー/

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