| 坐禅 2008/ 7/18 14:54 No.157 投稿者:gouichi10201020さん
バニさん、レスありがとう御座います。。。
> 無記は常見にも断見にも偏らない中道を示すための教説でもあるわけですね。
はい。。。バニさんの知識からすれば、もうここら辺は互いに了解済みと言うことで進めてもよさそうですね、失礼しました。ということで、基本的なところはどちらかが引っかかった時に確認し合うということで、先に行きます。
> 我の苦は対象を認識し、そこに意味や価値を創出する主体であるところの「我在り」との相関によって生じるわけですから、「我が無ければ苦も無い」ということになり、そういう意味で「我」とは「我の苦」を生じせしめる共通の一因であると思います。
まさにその通りで、釈尊はまずこれを打ち破ることをお考えになって「無我」を説いた、ということです。換言すれば、苦悩する一切の衆生を度せんが為に、当時、世俗に蔓延る教えに対して、「無我」を説かれた、と考えられます。
煩悩(三毒)に覆われてた衆生は、仏性(比類なき先言の〈私〉)があることを知らない、そして、煩悩によって生み出された「我」を実在と考えそれに執着する。また、それが間違っていると知識でわかっても、智慧として「真の無我」を知らない。
何故ならば、自らの三毒によって、自ら苦を生み出しているからである。そこで、煩悩を尽くせば仏性を証知することができる。すなわち、「無我」を知ってこそ、「有我」を知ることができ、まず、無我の行を修することを教える。。。
この考え方はどうでしょうか?
> 一方、「自灯明法灯明」の「自」とは「一切衆生悉有仏性」や「如来蔵」において法と一如となる対象であり、唯識で言えば全く混じりもののない純粋無垢(無覆無記)な「阿頼耶識」ということになり、この「自」によって苦が生じることはないし、法を灯明として修行する主体ということになるでしょうか。
唯識における「阿頼耶識」と仏性を同一に扱うことに関しては、まだ同意できません。何故ならば、アーラヤ識を「一切種子心識」とするならば、過去のカルマ(業)を蓄える蔵、となりますから・・・
これに関しては、輪廻の問題として扱いたいと考えますが、如何でしょう。
> 但し、「如来蔵」や「仏性」、「阿頼耶識」や「魂」と名付けることによって、一般化されてしまい変質あるいは削げ落ちてしまうような対象ではあります。
はい、言語表現の限界ですね。これも、発言者と受者に分けて論ずる必要があると考えます。ただ「不立文字」の言わんとすることは理解できます。。。
・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
本日はこの後、返信できませんが、よろしくお願い致します。
|