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■782 / inTopicNo.61)  all
  
□投稿者/ パニチェ -(2018/12/25(Tue) 21:14:44)
    もしよかったら、トピを作成しますので「タイトル名」だけ教えて下さい。


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■780 / inTopicNo.62)  Re[39]: : 西哲中央政府綱領
□投稿者/ パニチェ -(2018/12/24(Mon) 15:32:28)
    いらっしゃい、キティさん。

    取り置きたい投稿があれば、ここでよかったらコピペしといて下さい。
引用返信/返信 削除キー/
■776 / inTopicNo.63)  : 西哲中央政府綱領
□投稿者/ キティダニエル -(2018/12/21(Fri) 20:02:23)
    西哲中央政府 2011/10/14 〜 2018/12/31


    アメミナカ版西哲中央政府綱領案

    綱領 (案) 2011/10/14 13:39 [ No.19 / 107 ]

    投稿者 : ame_minaka

    一、われわれは、哲学の命運を拓き、哲学徒の自由と繁栄と幸福を増進する

    一、われわれは、哲学の歴史と伝統を尊重し、誇りをもってその天分を活かし、哲学による平和実現とカルト撲滅の先頭に立つ

    一、われわれは、哲学の視点に立って衆知を結集し、哲学徒の協調心と自立心と公共心に立脚する本物の哲学を実践する

    キティ版西哲中央政府綱領修正案 2011/10/21 6:25 [ No.109 / 199 ]

    投稿者 : kittydanielx

    一、ヤフー掲示板西洋哲学カテゴリーの主要メンバーたるわれわれは、哲学の歴史と伝統哲学の尊重の見地に立ち、その研究の命運を拓き、哲学徒の自由と繁栄と幸福を増進することをここに宣言する

    一、われわれは、哲学が真理を目指しながらも多様で多面的な知の体系かつ営みであることを確認し、誇りをもって各自の天分を活かし、哲学による平和の実現とそれを妨げるカルト撲滅の先頭に立つ

    一、われわれは、哲学の視点に立って衆知を結集し、哲学徒の協調心と自立心と公共心に立脚する本物の哲学を構築し実践することを目標とする

    一、われわれの政府は西洋哲学カテゴリーの無政府状態を終息させることをその目的とするが、ある特定の思想方針でもって構成員もしくは住民を統制することを目的としない。また独善や権威主義に陥らぬよう常に反省の意識を新たにするものである
      

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■739 / inTopicNo.64)  Re[12]ゴウさん
□投稿者/ パニチェ -(2018/11/11(Sun) 19:42:13)
    坐禅 2008/ 8/18 15:23 No.198
    投稿者:gouichi10201020さん

    パニさん、こんにちは。 お盆休みはどちらかにお出掛けでしたか?

    私の地方は関東でも旧盆の風習ですので、13日に墓前で迎火をして16日の夜に送火です。その間は毎年、実家で母と過ごすことにしていますが、今年は初盆が多かったので、盆中、お世話になった故人のお宅を廻って手を合わせて参りました。

    しかし、友人の両親や先輩方が旅立たれる年齢になられて、さびしい限りです。。。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    >> まず中観思想において、龍樹は、世界がどの様な構造をとっていようとも、それが「空なるもの」であることを理解できればよし、という立場であった、と考えます。日本では大人気の龍樹ですので、あまりに書きすぎて反論責めでは身動きがとれなくなりますが・・・

    > 中論は禅定や直観でもって知りえたことを書き連ねているように思われます。
    > そしてその知り得たこと(菩提)は言語によって外延は示すことができても内包は削げ落ちてしまう。
    > 一見、言語の限界や言語によって生じる誤謬を指摘し続けているようにも読解できますが、これは〈私〉と同じく菩提はカニッツァの三角形みたいなものであり、否定論法や帰謬法でもってのみ外延を指し示すことしかできないためであると思われます。

    はい、「真実は戯論(言語表現)を超えたものである」ということであれば、そうなります。
    しかし、「真実は戯論(言語表現)を超えたものである」ということが「真」であれば、この言葉さえも戯論に含まれることとなり「偽」となります。

    このように空思想は、「その思想」と「その思想を表現する言葉」との間に逆説的矛盾を引き起こす可能性を含んでいるわけで、その問題にどう対処するか、と考え抜いたのが中観思想である、と言えるかも知れません。
    そこで、龍樹が目指したのが、「“日常的な”言語」と「それに支配された人間」の“認識”が如何に根拠の乏しいものであるかを指摘し、執着のない空「一切皆空」を知らしめよう(浮き上がらせよう)とした、と考えれば、
    これはまさに、パニさんが前述された『カニッツァの三角形』といえるかも知れません。

    しかし、どんなに「言語の内的矛盾」を暴いたとしても、結局は、空思想を語る上で「言語の完全否定(または言語を一切用いない)」、をすることは出来ないわけです。それに対する答えが「二諦説(二真理説)」ということになります。

    『勝義は言語表現に依拠しなければ語り示されない。しかし勝義に到達しなければ涅槃は達せられない』(『中論頌』24.10)

    すなわち、“日常的な”人間の生活空間で通用する真理が「世俗諦」であり、言語表現はその根幹をなすものである、と同時に、言語表現がなければ「勝義諦」は指示されない。よって、そこに到達することも出来ないから、涅槃に入れない、ということです。

    換言すれば、No.190の
    > 虚妄分別の世界(肉体世界・現象界)に生きる“人間”だからこそ、それを「比類なき先言の〈私〉」として、知ることができると考えます。

    ということで、これが私の考える「言葉の可能性」ということになります。

    お彼岸過ぎまで、また休み休みになりますがよろしくお願い致します。最後に、まだ暑い日が続きますのでお身体大切にして下さい。

引用返信/返信 削除キー/
■738 / inTopicNo.65)  Re[11]ゴウさん
□投稿者/ パニチェ -(2018/11/11(Sun) 19:18:10)
    坐禅 2008/ 8/ 8 13:29 No.194
    投稿者:gouichi10201020さん

    しかし月称は、前者の意味をさらに深め、縁起を「世俗に属するもの」と呼び、世俗の真理は「虚構されたものであり縁起である」と主張します。つまり、世界の現象は、「無因・自・他・共」という4つの可能性とはまったく異なったあり方において「成立(生ずる)する」と考えました。

    すなわち、縁起(世俗の真理)の具体的なすがたは“仮設”であり、さまざまな現象に「言葉」を与えることは、「人間の生の基盤」を与えるだけでなく、人間を「勝義諦」へと導くための手段(方便)であるとし、『日常言語活動の真理(世俗諦)は手段であり、最高真理(勝義諦)は目的である』と主張します。

    しかし、このことは世俗を軽視することではなく、逆にそれを成立させるためのものです。誤解覚悟で書けば、月称は世俗の要素が全く無くなった(無くなったと想定される)勝義諦より、世俗の方が優れているとさえ考えていたと思われます。(勿論私見です)・・・
    月称は、『四百論註』で「・・・眼病を除こうとするあまり眼まで除くようなことをするべきでない、同様に輪廻の苦しみを除く場合でも身体を無にしてしまうのがよいわけではない・・・」と述べています。

    月称にとって、仏教(仏の教説)は、あくまでも勝義諦に至るための手段(方便)であって、「勝義諦そのものが言葉というすがたをとって現れたもの」とは考えていないわけです。その上で、再び世俗の素晴らしさを認める。。。。今のパニさんは、この月称の立場に感じるのですが、如何でしょう?

    ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    さらに、No.163で書いたもう一人、自立論証派の清弁にふれておきますと、彼の主張は、仏教(仏の教説)は「勝義諦が経験世界において作用をもち、世間の真正な論理となったもの」として、言葉を認めています。

    前回も書きましたように
    > 私としては、どちらか一方に組するものではないのですが、言葉の可能性を信じています。

    という立場です。それについて少々説明させて頂くと、
    月称は、世俗を確立させると同時に、「勝義諦」を世俗の汚れから遠ざけようと試みた、と考えられます。ここも私見ですが、言葉の可能性を捨てる(認めない)、また、言葉では勝義諦を説くことは不可能である、ということは、世俗諦と勝義諦、言い換えれば「俗」と「聖」という二つの間を大きく引き離すこととなります。

    清弁は、世俗と勝義の架け橋としての「言葉」、すなわち「俗」が自らの力(言葉の力)によって「聖」を論証できると主張し、月称は中観派として、その清弁を批判する立場からの論を展開したと考えられます。
    このこと自体に問題はないのすが・・・月称の主張では、「言葉」と「言葉を越えた世界」との断絶を埋める方法は、結局、「宗教実践の重要性」に行き着くこととなります。

    すなわち月称が中観論者として選択した道は、勝義諦を世俗(縁起・言葉)から遠ざけ、同時に世俗を縁起という理法によって成立させ、現象界に生きる人間の「生」に対し、ぎりぎりまで、その意義を構築しようとしたわけです。そして、最終的には、仏教的な「宗教実践」を要求することとなります。

    しかし、これでは部派仏教の轍を踏むこととなりかねません。私は、この二人の大徳を心から尊敬しますが、どちらの説にも組しません。在家の中で悩み苦しみ、家族、友、知人・・世俗のなかで藻掻きながら、そこへ到達できると信じているからです。

    ちょっと長くなりましたので、今日はここまで返信させて頂きます。「釈尊にも臨終に際して腹痛」と「無覆無記なる真の自己を実相とする教説が方便(仮象)で、有覆無記なる自己や〈私〉こそが実相であってはならない理由はないように思いますが如何でしょうか?」に関しては、もう少し先で返信させて頂きます。


    返信が遅れがちでごめんなさい。。。また、パニさんの期待する応えにならないことも多いと思いますが、ゆっくり進めさせて下さい。
引用返信/返信 削除キー/
■737 / inTopicNo.66)  Re[10]ゴウさん
□投稿者/ パニチェ -(2018/11/11(Sun) 19:17:09)
    坐禅 2008/ 8/ 8 13:28 No.193
    投稿者:gouichi10201020さん

    パニさん、こんにちは。

    >> はい、虚妄分別の世界(肉体世界・現象界)に生きる“人間”だからこそ、それを「比類なき先言の〈私〉」として、知ることができると考えます。

    > では、言語を習得する主体、つまり言語以前の〈私〉に特化された主体というのも虚妄分別の世界に属するのでしょうか?
    > ウィトゲンシュタインが述べたように主体は世界には属しませんし(※1)、むしろ世界の限界にあり、(時間的にも空間的にも)そこから世界が開闢している特異点にあります。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    少し遠回りになるかも知れませんがごめんなさい。ここで、No.163の『月称の主張は、「仏陀は日常の言語活動とは異なった智慧を得て絶対真理を体得する」というもので、言葉を通して“理解せしめられる”世界(現象界)を超絶したところに絶対があると考え、宗教実践の重要性を強調します』、に補足をさせて頂きます。

    まず中観思想において、龍樹は、世界がどの様な構造をとっていようとも、それが「空なるもの」であることを理解できればよし、という立場であった、と考えます。日本では大人気の龍樹ですので、あまりに書きすぎて反論責めでは身動きがとれなくなりますが・・・

    あくまでも私感ということで・・・、龍樹は「世俗の構造」を深く説き明かそうとは試みなかった、換言すれば、その必要はないと“考えた”といえます。一方、月称は私たちの眼前に展開される現象界が、「人間の生の基盤である」ことを強調し、その構造を深く“考えた”仏教者です。

    換言すれば、パニさんが釈尊の教え(経)さえも世俗諦と考えるのと同じで、どんな権威者の「言葉」であろうとも、簡単に納得しない、わかった気にならない。ここに、人間としての月称の素晴らしさを感じます。
    さらに、ウィトゲンシュタインは、龍樹よりも月称の方に相性がいいと思うのですが。。。では、月称の立場からの「世俗諦(世俗真理)」について、少しだけ書いてみます。

    最初に、二諦説は虚無論への反論という形で展開された側面が強く、そこから、「人間が行為を行う場(現象界)」としての世俗諦が説かれました・・・ここらの経緯は、パニさんですから今更説明の必要はなく、割愛させて頂きます。

    まず、月称の主張は、「世俗諦の成立を可能とするものは縁起という真理である」というもので、これは龍樹が『中論』においての論証法で示そうとしたものと同じです。以下・・・

    龍樹は、もし、ものが「生ずるならば」、その「生じ方」には4つの可能性がある、と仮定します。その4つが「無因・自・他・共」です。次に、その4つの可能性をすべて否定することによって、「如何なるものも生じない」を論証した(論証しようとした)上で、如何なるものも生じないのに、眼前に展開される世界が存在しているかのように現れるのは、「縁起という真理」によるものである、と“考え”ました。

    ここで大切なことは、『中論』における縁起という「言葉」は、相反するとも思える二つの「意味」を統一している、ということです。
    すなわち「縁起」とは、文字通り「他に縁りて生ずること(もの)」という意味と同時に、「生ずることもなく、滅することもない、あらゆる因果関係が作用していない場」という意味でもあります。

引用返信/返信 削除キー/
■732 / inTopicNo.67)  Re[9]ゴウさん
□投稿者/ パニチェ -(2018/11/03(Sat) 10:50:08)
    坐禅 2008/ 8/ 5 23:07 No.190
    投稿者:gouichi10201020さん

    パニさん、こんにちは。

    > 4で体得するのが「真の自己」たる「仏性」ということでよろしいのでしょうか?
    > もう少し突っ込んで質問させていただくと、4の「〈私〉」は有覆無記でしょうか?
    > それとも仏性と同義であるならば無覆無記でしょうか?

    無覆無記を、文字通り「煩悩に覆われていない無記」とするならば、その理解でよいと考えます。しかし、唯識の理論強化において、本来、執着(我執)の対象とされる場所であったアーラヤ識に、中性的性質が付加されたものとは違います。

    そもそも、如来蔵と唯識は互いに影響しながらも、相容れない部分が多く、それぞれが理論強化しながら発展したものです。ここで、パニさんの「No.160九識説」まで戻ります。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    > 阿頼耶識が過去のカルマを蓄える蔵であるなら無覆無記ではありえず、仏性と同一視できないということですね。
    > 如来蔵は九識説を採用した上での「阿摩羅識」ってことになるんでしょうが、どうもこの辺は言葉と定義の問題というか、本当にそういう階層があるのかどうか知らないパニチェには何とも分かりません。^^

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    この説は、アーラヤ識に中性的性質を付加することで、アーラヤ識を無覆無記とする考えに、矛盾を感じるところから生まれたと推測できます。すなわち、仏性=如来蔵=無覆無記=アーラヤ識、を認めないということになります。

    そこで次の問題は、仏性を「仏の本性(本質)」とすれば、仏性=仏、となり如来蔵は「仏を蔵する」になります。また仏性を「仏の因」とすれば、仏性=仏とはならないと考えることもできます。私は仏性を前者の意味で考えます。

    > もし無覆無記であるなら個々の匂いすら消失しているように思え、そうなると「比類なき先言の〈私〉」とは少し違うかもしれません。

    はい、虚妄分別の世界(肉体世界・現象界)に生きる“人間”だからこそ、それを「比類なき先言の〈私〉」として、知ることができると考えます。


    > こればかりは死んでみないと分かりませんね。
    > 凡人として死しても無余依涅槃となるのでしょうかねぇ〜

    ここに戻ると、「2」の無記になります。。。今は捨て置きましょう。

    > それと無住処涅槃については如何お考えでしょうか?

    これも、各論書によって考え方に違いがあります。私の考えは「4」〜「5」までの、人間釈尊の人生こそが“それ”であると考えます。
引用返信/返信 削除キー/
■731 / inTopicNo.68)  Re[8]ゴウさん
□投稿者/ パニチェ -(2018/11/03(Sat) 10:47:51)
    坐禅 2008/ 7/25 14:53 No.178
    投稿者:gouichi10201020さん

    パニさん、こんにちは。

    > 『当時のインド人にとって「輪廻」はごく自然な思想』であったことには同意しますし、現在のインドおいても未だカースト制度の合理的根拠となっているようです。
    > 当時は名前で身分が分かるようになっていたらしく、釈尊は世俗での階級も捨てさせ、かつ仏弟子として同列に扱う目的で戒名を与えたということらしいですね。

    No.174(坐禅トピ)のクルーさん宛のレス、「生まれによる貴賤よりも、行為による貴賤を重んじたスッタニパータの教説を採用したいところです」に同意ですが、スッタニパータの文章では

    「生まれによって賤しい人になるのではない。生まれによってバラモンになるのでもない。行為によって賤しい人ともなり、行為によってバラモンともなる」

    とありますから、貴賤やバラモンという“もの”自体を否定したのではなく、生まれた瞬間に階級が決定されてしまう「カースト制度」を認めなかった、ということです。すなわち、釈尊の目的はカーストという国家制度の破壊ではなく、完全な「無視(没交渉)」であり、仏道修行の妨げとなるそれに執着することを、弟子達にも徹底して捨てさせた、ということと考えます。

    > 法蔵館の中村元著「釈尊伝 ゴーダマ・ブッダ」によれば『普通によく引かれるのは、律蔵の記述に従って釈尊が十二縁起の理を観じてさとったということである。しかし十二縁起の説よりも以前にもっと簡単なかたちの縁起説が成立していて、それにもとづいて数々の縁起説が成立し、最後に十二縁起の説の成立したことが立証されている』との事です。
    > 多分、原型として「因是有是、此生則生(これによってこれあり、これ生ずればすなわち生ず)」のようなシンプルな教説があって、これが後に十二縁起や分位縁起や業感縁起、相依性縁起や法界縁起、如来蔵縁起や真如縁起などなどのさまざまな縁起説として解釈されたのだと思います。

    はい、では何故そのような作業が行われたのか、ということです。今のパニさんと同様に「比類なき先言の〈私〉」の正体を見極めたい、と考えた人たちがいたのかも知れません。。。

    > 先のレスにあった阿頼耶識を「一切種子心識」とするか、または「無覆無記」とするかの重要性は、輪廻する主体を阿頼耶識と認めた上で、かつそこから離脱した無覆無記なる阿摩羅識まで認めるかどうかの論点になるように思うのですが、私はむしろ輪廻を認めるデメリットや無意味さも絡めて返信していきたいと思います。

    その通りです。しかし、これらのものはあくまでも「仮設」されたものであり、やがて捨てなければならない知識ともいえます。何故ならば、これらの説は、殆ど「行」の面よりも「理」の面によって発展したと考えられるからです。
    さらに、「輪廻」を考察する上において、「過去世→現世→未来世」だけであれば、それはすべての「現象世」が直接的な連続性を有しているとなり、「カースト制度の合理的根拠」となります。しかし、「過去世→前世→現世→後世→未来世」となると、また話は変わってきます。
    このことに関しては、今回の議論から離れてしまいますので、またの機会にします。

    > 阿頼耶識が過去を秘匿する潜在的な自己の深層、つまり輪廻の主体とし、末那識を潜在的な意識下の利己性や自己中心性または自我意識の起点として捉えるとして、前世の業が蓄積され現世に影響を及ぼしたり、来世に影響を与える種子が桴Kされる阿頼耶識を想定することにどのような意義があるでしょうか?

    上にも書きましたように、仏道修行からみれば、何れ「捨ててよい知識」と考えます。ただ、今回の対話、「比類なき先言の〈私〉」には不可欠なものではないでしょうか。

    > どうも私は因果論的なもの(現世は前世の結果である)とか、目的論的なもの(現世での行いは来世に影響を与える)をもって「現世の三業(身・語・意)を正しくあるべし」みたいな教説は不純に思えますし、先天的なものを前世の結果であるかのように想定することは、弊害の方が多いように思います。

    はい、解脱を目指さず、生に執着して未来世の幸福を願うとしたら「不純」といえるかも知れません。しかし、その見解からも離れること、それが大切だと考えます。

引用返信/返信 削除キー/
■730 / inTopicNo.69)  Re[7]ゴウさん
□投稿者/ パニチェ -(2018/11/03(Sat) 10:46:07)
    坐禅 2008/ 7/23 14:26 No.171
    投稿者:gouichi10201020さん

    パニさん、おはようございます。

    > 前五識は意味や価値付けを行う以前、加工以前の感覚作用のことであって、例えば眼識が知覚するのは白と黒のコントラストであり、それが紙の上に書かれた文字であるという認識以降の心的作用は第六意識(五イ具の意識などなど)になるんでしょうね。

    はい、この辺りの説明はお互いに了解済みということで、先に進ませて頂きます。

    まず既述しましたように、『当時のインド人にとって「輪廻」はごく自然な思想』であったことから考えても、最も基本的な教義である「十二縁起」は、因縁によって生滅する現象世界を説明するだけでなく、三世にわたる輪廻の理論をも担っていた、と考えることは、ごく自然なことだと思います。

    しかし、仏教がその理論構成において最大の問題となったのが、無我であるのに「何が」「どうして」輪廻するのか、という説明だったはずです。三世実有の立場をとる説一切有部は、「識」は、過去世の「無明」を縁とし、「行」を因として生じた果であると考え、これは唯識においてもかわりません。

    ただ、識は「刹那滅」とされるので、現世の識に、過去世の無明や行がどの様にして組み込まれ、未来世までを規定する「輪廻の主体」となりうるのか、という新たな問題が生じます。それに、答えを出したのが過去の業を構造的に組み込んだ識、すなわち「アーラヤ識」だと考えられます。

    それであれば、アーラヤ識は、過去の業を蓄える蔵ということであり「一切種子心識」ということになります。
    そして、それが根本としての我執の対象となり、アーラヤ識が刹那相続を続けるところに、われわれは「我」を想定し、執着するが、その由来はアーラヤ識自体のうちにある、という考えです。

    この説を採れば、アーラヤ識を成長させるものは、「諸器官を含めた身体」と「分別意識(相・名・分別)」で、この二つの素材をとって個体を保持する。すなわち、アーラヤ識の上に前五識と分別意識(マナ識を含む)が転起して対象を認識し、それがさらに習気執持となってアーラヤ識を成長させ、その結果として輪廻がつづく、となります。

    すなわちアーラヤ識は、「輪廻の主体」を説明するために仮設されたものと考えることができます。

引用返信/返信 削除キー/
■729 / inTopicNo.70)  Re[6]ゴウさん
□投稿者/ パニチェ -(2018/11/03(Sat) 10:44:38)
    坐禅 2008/ 7/21 13:48 No.167
    投稿者:gouichi10201020さん

    パニチェさん。。。まずはお詫びを・・・パニさんとわかっていながら、バニさんと打っていました。
    言い訳がましくなりますが、ネパール語で「パニ」は水を意味します。で、名前だと「バニ」さんは結構いらっしゃるもので、ついつい「バニさん」と呼び掛けてしまいました。ごめんなさい。

    > 今のところ輪廻に関しては無記としていますので「長い過去世において実践された」という箇所を除いては、上記の論旨に同意します。

    はい、「輪廻」に関しては、ある・なしに頓着しないで進めることに賛成です。

    大乗仏教運動を引率した「凡夫の菩薩」にとって、また当時のインド人にとって「輪廻」はごく自然な思想であり、多くの人が指示していたものだと考えます。それだけに、『ジャータカ(本生譚)』に描かれる釈尊の過去世と自らの人生を重ね合わせ、“そのように生きたい”と、そこに大乗菩薩の「理想像」を打ち立てたということですね。

    > 他宗教の教祖と同じく時代とともに後世の人々によって神格化された釈尊より、無上正等覚者としての人間・釈尊をパニチェは仰ぎます。

    はい、完全同意です。

    > 何をもって言葉とするかによるとは思いますが、これに関してはあまり拘るつもりはありません。

    まさしく「何をもって言葉とするか」の議論になれば、そこで立ち往生、一歩も前に進めなくなる可能性がありますから、そう言って頂けると助かります。

    で、パニさんのNo.160の以下の投稿まで戻ります。。。

    ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    No12293に返信(パニチェさんの記事)
    >> 唯識における「阿頼耶識」と仏性を同一に扱うことに関しては、まだ同意できません。何故ならば、アーラヤ識を「一切種子心識」とするならば、過去のカルマ(業)を蓄える蔵、となりますから・・・
    >> これに関しては、輪廻の問題として扱いたいと考えますが、如何でしょう。

    > 阿頼耶識が過去のカルマを蓄える蔵であるなら無覆無記ではありえず、仏性と同一視できないということですね。
    > 如来蔵は九識説を採用した上での「阿摩羅識」ってことになるんでしょうが、どうもこの辺は言葉と定義の問題というか、本当にそういう階層があるのかどうか知らないパニチェには何とも分かりません。^^
    この辺のテーマは輪廻の問題として扱うことに同意します。

    ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    パニさんご指摘の通り、「阿頼耶識」をどの様にとらえるか、で考え方はまったく違ってしまいます。「九識説」は先送りにするとしても、アーラヤ識を「一切種子心識」とするか、または「無覆無記」とするか、ここは重要ですね。

    まず、どちらの説にも拘らずに進めることとし、「唯識」における「識」の観念、と申しますか、考え方から進めたいと思いますが如何でしょう。

引用返信/返信 削除キー/
■728 / inTopicNo.71)  Re[5]ゴウさん
□投稿者/ パニチェ -(2018/11/03(Sat) 10:43:01)
    坐禅 2008/ 7/19 13:19 No.165
    投稿者:gouichi10201020さん

    バニさん、こんにちは。

    > バラモン教も密教も、ともに汎神論的ではあるが、梵我一如の「我」と、入我我入の「我」とは、同じ「我」でも明らかに違うということですね。

    はい、そう考えます。


    > 自行化他なら分かりますが、悟ってもない人間がその人間が思うところの利他行の実践をとおして悟りに到達できるという見解を重視する主張なら反対です。
    > 大乗仏教の暗黒面として、カルト宗教や一部の新興宗教団体が信者獲得のための広宣流布があたかも仏修行や菩薩行であるかの如く利用するのが、この「利他行の実践をとおして悟りに到達できる」という大乗的な発想ですからね。

    これは説明不足でした。バニさんの仰る「自行化他」で同意です。

    確かに、残念なことですが、仏陀の教えとはかけ離れたような団体が、『「利他行の実践をとおして悟りに到達できる」という大乗的な発想』を、信者獲得と資金集めに利用している面は否定できません。

    その原因としては、大乗仏教の菩薩が「凡夫の菩薩」であるからだと考えられます。
    そして、この「凡夫の心(衆生心)」の中に仏性を有することから、仏伝の中の釈尊、すなわち「仏伝の菩薩」と「凡夫の菩薩」を重ね、そこに親近感が生まれた。そして、仏伝に描かれる釈迦菩薩が長い過去世において実践された「本生行」こそが、大乗菩薩の理想とする姿となり、「一切衆生への利他」が強調されることとなった、と考えます。

    しかし反面、バニさんご指摘のように、凡夫の立場で「利他」を押し立てることは、まさに僭越であり、ひとつ間違えれば衆愚思想に陥る危険を含んでいたわけで、現実にそれを利用する団体が生まれた、ということですね。。。この点においてバニさんに同意です。

    ただ、大乗の「凡夫の菩薩」は、部派仏教のエリートとは違い、自ら「一切衆生」の一員である自覚をもち、仏教の専門知識も乏しく、修行の階梯も修めていないことを認め、それでも「自利行」のみに邁進する部派仏教に対抗して、必死で活動されたことは事実であり、だからこそ私たちは仏教に出会えることができた、と考えます。

    長々と書きましたが、結論を言えばバニさんの言わんとすることが分かり、それに同意し、「衆生無辺誓願度 煩悩無尽誓願断 法門無量誓願学 仏道無上誓願成」が、心ないものに悪用されないことを祈るばかりです。


    > 以下は、それを分かった上での返信ですが。。。
    > 真言が呪文でありえるのは、言語がコミュニケーションツールとなりえる理由でもあるところの(身体性や文化や生活様式を背景とし)慣用や用法上に発生する意味の共有化(言語ゲーム)から離れているからだと思います。
    > 言い換えれば真言は言語化できない釈尊の教えを音声として表したから呪文たりえると思うのですが、如何でしょうか?

    真言陀羅尼を「呪」と考えることを間違いとはいえないのですが、逆に、経典すべてを「呪」と考えることができます。また、経典を「言葉」と考えるように、真言陀羅尼を「言葉」と考えることもできます。

    これは、真言陀羅尼の成立と般若思想の密教化というアプローチが面白いのですが、これは後のこととして、「輪廻の主体」に進みませんか。

    ただ、言語表現に関しても、「表せる・表せない」のどちらか一方に偏らず中道という立場であり、バニさんのお考えを否定するものではありません。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    バニさんのレスが早かったので、これだけ返信できました。
    それでは出発ですので、またよろしくお願い致します。
引用返信/返信 削除キー/
■727 / inTopicNo.72)  Re[4]ゴウさん
□投稿者/ パニチェ -(2018/11/03(Sat) 10:35:36)
    坐禅 2008/ 7/19 3:02 No.163
    投稿者:gouichi10201020さん

    バニさん、レスありがとう御座います。

    > なるほど、「比類なき先言の〈私〉」が仏性と同一視できるような代物かどうかはともかく、上記のゴウさんの説明は理にかなっていますし納得できます。
    > 般若心経と金剛般若、中論と大乗起信論。
    > どうもこの二つの仏典や論書がしっくりこなかったのは、ここら辺りのパニチェの理解度に問題があったのかもしれません。

    はい、釈尊が「絶対的な主体など何処にも存在しない」と説かれたものこそが、無我の「我」であり、その先にあるもの、すなわち仏性が「比類なき先言の〈私〉」であれば、無我の行を修することによって知ることのできる<私>は、すでに輪廻から解脱したものであり、私=大宇宙となります。

    しかし、それが輪廻する主体であれば「無記の我」になります。無記の我とは、「絶対的な主体など何処にも存在しない」ということを知識として理解し、未だ智慧に消化していない状態の<私>と表現できるかも知れません。

    そして、そのような凡夫のために説かれたものこそが「大乗経典」といえるのではないでしょうか。大乗経典成立における部派仏教との対立の経緯は割愛しますが。。。

    ご紹介の「般若思想」は、なによりも煩悩と菩提との一如、世俗生活と仏教生活の同時達成を説き、利他行を因として「比類なき先言の〈私〉」に到達するための教えといえます。
    また、「大乗起信論」はその名の通り、大乗の根本義において心を起こすこと説く論といえます。すなわち、わたしたち凡夫の心、衆生心の中に仏性を有することを信じ、利他行の実践をとおして悟りに到達できる、というのが、大乗ではないでしょうか。

    「中論」に関しては、二諦説に進んだ段階で考察したいと思いますが、中観思想として、今関連のありそうな部分だけを書きますと・・・

    月称の主張は、「仏陀は日常の言語活動とは異なった智慧を得て絶対真理を体得する」というもので、言葉を通して“理解せしめられる”世界(現象界)を超絶したところに絶対があると考え、宗教実践の重要性を強調します。
    それに対し清弁は、「絶対真理を現象界に内存的なもの」とし、絶対真理と現象世界は言葉という接点を有しているからこそ、絶対真理を言葉によって論証可能と考えます。

    私としては、どちらか一方に組するものではないのですが、言葉の可能性を信じています。


    > この辺のテーマは輪廻の問題として扱うことに同意します。

    ありがとう御座います。

    > 言葉を通して伝えようとすると、言葉の機能や特性から、どうしても必然的に変質したり削げ落ちてしまう部分があると思うのですが、ゴウさんが先に言われた『言語化できないものって、これを想定しちゃ駄目』がどういう意味なのか、またよろしければ教えて下さい。

    はい、バニさんの仰ることはわかります。人間の意識の対象世界が無限の奥行きと多様性、そして連続性をもつのに対し、言葉の数は有限であり、またバニさんの「必然的に変質したり削げ落ちてしまう」からこそ言葉がコミュニケーションの手段となる、ことを考えれば無力であるといわざるを得ません。

    しかし、私たちの苦悩、またそれを取り除くことは、すべて身体的・言語的・心的(身口意)な行為によっていると考えられます。そして、身体的・言語的な行為は「心」に基づくものである以上、それはまさに心の表れといえます。

    そして、すでに分別を離れ悟りに到達した釈尊の言語活動とは如何なるものであるかを考えた場合、すべての分別は言語表現に結びつくとすれば、「分別を離れた仏陀」と「言語活動を行うもの」とは矛盾概念ではないか、という疑問が起こります。もし矛盾であれば、膨大な仏教経典は無意味なものとなるかもしれません。

    しかし、仏陀釈尊の言語活動は「無分別智の力より生じた分別」から起きたものであり、釈尊に説法を促すものは慈悲心に他ならない、とすれば矛盾は起こりません。

    また、私が真言を重視する金剛乗であることもあって、先の発言「言語化できないものって、これを想定しちゃ駄目」になりました。さらに、釈尊の説法が衆生に対する慈悲心であるように、親の子に対する言葉も慈悲心である、と信じています。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    土日に外出しますので、次の返信は週明けになります。
引用返信/返信 削除キー/

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